Scribble at 2021-01-08 14:24:14 Last modified: 2021-01-12 14:03:47

当サイトで何度も書いている rational reconstruction vs. historical reconstruction の対比だが、たとえば KdrV の序論一つを取り上げても、カントが「賤民」といった表現で形而上学の話を(僕には、端的に言って稚拙な擬人化や法制度の比喩だらけとしか思えないが)している事実についてポリティカル・コレクトネスの観点から幾らでも批評やら脱構築はできよう。でも、カントが現代に生きていれば、「ああ、なるほど。それは良くなかったね」と即座に納得して、さっさとそういう文言は削除してしまったかもしれない。それでも、彼のような人物ですら当時の脈絡においては軽率に差別意識を混入してしまったのはなぜかと問うことはできる。確かに、それはそれで一つのテーマだし、もしかすると「当時の脈絡」という外的な要因だけではなく、彼自身の人格において何らかの欠落なり不徹底があった可能性だってあろう。

しかし、やはりそれはどこまで言ってもカントが議論したテーマからは大きく逸れた論点でしかない。なぜなら、KdrV から序論を削除しても KdrV という著作の古典的と言える価値は殆ど損なわれないからだ。そして、我々が(もちろん、そのような点を軽視して哲学的探求の途上で生じた差別意識を免罪しても良いと言うためではないが)何をカントの著作から受け取り、自分たち自身の考察の糧とするべきなのかという優先順位を考えるなら、そのような話の結論は殆ど自明であろう。

ここまでは、rational reconstruction の話を優先させているわけだが、だからといって「現代的」な観点だけで KdrV なりカントという人物を論じていればいいというわけでもない。なぜなら、既に述べた PC からの議論においては、単に現代の脈絡で「カントは差別主義者だ」などと子供のごとく気軽に他人様を断罪していれば済むわけではなく、どうして「カントは差別的な表現を(哲学的な必要性があるとも思えない脈絡で)使ったのか」というテーマを、その当時の人権意識なり社会風土なりカント自身の人柄についての分析とも合わせて論じなくてはいけない。現代に生きるわれわれであっても、数百年後には(人類が存続していればの話だが)多くの人々から「古臭い連中」と言われるようになるわけだし、そのときの水準で振り返って評価される段になれば、21世紀の哲学研究者なんて未熟だとか稚拙だと評されるような人権意識でしかものを書いていない可能性だってあろう。

つまり、rational reconstruction は、われわれが拠って立つ現在の観点や諸条件でものを考えるために必要であり、そして historical reconstruction は、われわれの拠って立つ現在の観点や諸条件が、その時点での(願わくは最善の)ものの見方や考え方でしかないと自覚するための反省を促すために必要なのである。

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