Scribble at 2020-08-08 19:27:56 Last modified: 2020-08-17 09:47:29

翻訳書は高いよね。だいたいが。原書のペーパーバックなら $30 ていどで買える本が、翻訳になると最近は平気で5,000円くらいで販売される。哲学の通俗本だろうと機械学習の入門書だろうと、翻訳ともなると、サラリーマンの1週間分の昼食代が吹き飛ぶような値段で発売されるのが当たり前になっており、しかもこの10年くらいのあいだで価格の上昇が早くなっている印象もある。もちろん、翻訳権の契約を結んだり翻訳家へのギャラを支払ったり、原書にはないコストがかかっているので、原稿を著者から直に日本語で受け取る原稿料のコストよりも、それらの付随的な業務のコストが高くなれば、翻訳書は原書よりも必ず高額になるのが当然だ。

しかし、そんなことを言っていると、外国語を習得した人間は翻訳書を買わずに原書しか買わなくなるし、実際に(堪能だとは思わないが)僕でも原著を持っているのに訳書をわざわざ買うのは、かなり限られた場合だけである。たとえば、Treatise のような古典とか、あるいは原書で読むのが難しいとされる難解な文体の人が書く著書だとか、それから業界なり関わった人々への労いという意味で敢えて訳本を買うこともある(勁草書房の本は、大半が既に原書を手にした後で訳本を敢えて買っている)。でも、この最後の理由で買うのは単なる贅沢であり、英語で読める一般の消費者ならばこんなことをする必要は全くないだろう。つまり、そういう儀礼的な購買行動(図書館での購入もその一つだろう)だけで回っているような業界では、そのうち限界がやってくる。いくらコストがかかるとは言っても、ネット・バリューとして単行本に5,000円も出せる人など、いかに哲学や AI に関心があるとしても、一般人にそうはいない。それゆえ、適当な流行言葉を散りばめた2,000円前後の単行本か、あるいは1,000円以下の文庫で、安っぽい説明の哲学本や AI の「衝撃」だの「革命」だのを論じるクズみたいな本が売れてしまうのだ。

このような、不可避的とも言いうる翻訳にまつわる《文化的障壁》のようなものを打開するとすれば、それはどう考えてもプロパーが翻訳の出版に頼らず自力で水準の高い成果を出版するということしかない。それゆえ、僕は専門の研究者が独自に出している成果はおおむね歓迎する。よって、古典的な業績の翻訳はまだいいとしても、なんとか実在論のような些末な流行哲学の本を翻訳している財務的な余裕があるなら、まだまだ翻訳されていない古典は多いので、それらの翻訳を期待したい。だいたい、ウィトゲンシュタインの『哲学探究』は、いまだに文庫本で読めない。カルナップやクワイン(Quiddities はともかく)も全く文庫本で読めない。いや、それどころか版権が切れている筈のラッセルの著作にしたって、文庫で読めるのは通俗的なエッセイばかりだ。これに対して、殆ど専門の学生しか読まないような内容の著作でも、フーコーやデリダやフッセルについては続々と筑摩書房から文庫本で翻訳されているので、分析哲学でも同じことができないわけはないだろう(科学哲学については、いわば「ビッグ・ネーム」がいないので、特に期待はしていない。ライヘンバッハの時空論を訳しても、さほど哲学科の学生全般に売れるとは思えない)。

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