Scribble at 2020-08-03 11:16:30 Last modified: 2020-08-03 11:24:40

どこかで書いたことはある筈だが、学部時代を過ごした大阪経済法科大学には岩崎允胤という古代ギリシアの思想を専門にしている研究者が在籍していた。いわゆる左翼の学者だったため、もちろん弁証法的唯物論を哲学の講義で教えたり、「論理学」という開講タイトルで三段論法を講じたりしていたようだが、僕は全くこの人物の講義には出たこともないし、学内で見かけたことすらなく、更には哲学のプライベートな指導教官をしていただいていた恩師からも紹介されたことがない。それもその筈で、確か図書館が発行していた学内報に岩崎氏が寄せた文章には、こんなクズ学生ばかりの寄せ集めに哲学など講じても無駄であるといった調子の話が書かれていて、ご本人は構内に足を踏み入れることすら苦痛だったのだろう。そして、僕もそういう学内報に寄稿を求められたことがあるため、前後の発行物を読んでいたときに、そういう文章を見つけて呆れたものである。

しばしば、こうした古臭い左翼というのは昔のソヴィエト共産党の官僚と同じで、頭の良い自分たちが愚劣で無知蒙昧な大衆を善導するのだと自負していたわけで、プロレタリアートの独裁という理想の実態は、何のことはない自分たちの独裁だったということである。結局、哲学を語っていようと、そうした自意識という名の「下部構造」によって思考や物事の見方が《決定》されてしまっている方々には、我々のような者が何を具申しようと無駄であろう。であれば、哲学者たる我々にできることは、はっきり言えばそうした人々が大過を起こさずに現世からいなくなるのを待つだけである。

かような事例にも認められるように、僕は明治期からこのかた国内で哲学と称するなにごとかにかかわってきた先人の業績に感謝はしているものの、やはりそれは是々非々であると言わざるをえない。先に生まれていようと無能は無能であり、京大の名誉教授だ、ノベール賞を受けただ、数百万部を売り上げた通俗本の著者だ、国家元首だと言われても、しょせんは数十年もすれば死んでしまう儚い存在である。そういう意味では、誰であれ完全に、例外なく、ヒトは有限の存在であって、僕が言う意味での「凡人」である。そうした人々の何をどう評価するかは意見が分かれるにしても、やはり品性下劣な人間が翻訳したり執筆した著作物というものは、やはりどこかに受け入れられない何かが反映されたまま残るのではあるまいか。

よって、僕はいわゆる「モヒカン族」と呼ばれるような、言表あるいは内容だけで物事を評価して著者の人間性とは別に扱うというアプローチには限界があるのではないかと思う。そもそも、そういう「内容」を人間性と切り離して議論できるという根拠があるようでないからだ。また、言表は視覚的な文字列に過ぎないとか、ただのデータだとは言っても、我々は統語論だけでものを考えたり理解したりコミュニケーションしているわけではないのだから、視覚情報だけを単独に議論できるわけがない。"p" という文字について、それが「ピー」という文字であるとか、色々な脈絡を省いて議論しうるのかもしれないが、それを議論してどうなるのかということを本当に(現象学としても)説得力のある説明で正当化できた事例は、僕はぜんぜん知らない。われわれが哲学者としてすら "p" という何かについて実質的な議論や思考ができるのは、それこそ《それ》が一定の脈絡に置かれてこそであろう。あらゆる脈絡から切り離された、「図形」と見做すことすら許されないような何かを、それだけで取り上げて何になるというのか。

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