Scribble at 2020-06-11 18:06:44 Last modified: 2020-06-11 18:09:30

唐突だが、僕は同姓とか別姓の議論については、「そもそも姓がいらない」という意見をもっている。もちろん現行法では必須なので、いちおうの処世術として「河本」を名乗ってはいるが、別に連れ合いの姓に変えたとしても僕の両親は両親であることに変わりがないし、親戚もたぶん親戚のままだろう。「イエ」とは言うが、先祖をたどれば違う姓をもつ系譜の人からも遺伝子をもらっているわけで、自分が生まれたという事実に寄与したという事情を最大に尊重すれば、それこそ幾らでも姓の選択肢はありうる。そして、男子の系統で引き継がれてきた姓を引き継ぐなんていうのは、正確で保存がきく記録方法や安定した政治制度もなかった頃に情報の簡略化として求められたであろう、ただの習慣にすぎないのである。現在は、そういう余計な情報がなくてもわれわれは一人一人がアイデンティティを証明したり登録・保管するそれなりに強力で安定した方法をもつ(良し悪しはあれ、マイナンバーもその一つだ)のだから、別に姓などなくても僕が僕であることを間違える人などいない。

僕が両親から生まれて彼らを両親として認めているのは、彼らが「河本」という姓を葉書に書き込んだり電話の応対で口にするからではない。それに、もし僕が本当は橋の下で拾われた子供だったとしても、僕が彼らを「両親」だと思う事実には何の違いもない。逆に、彼らが実は北朝鮮から侵入して長年にわたり活動してきた工作員のキムさんだったとしても(やってることは決して褒められたことではないが、日本にも総理大臣にまでなった CIA のスパイがいたわけだし、その孫までいまの総理大臣なのだから、そういうことも仕事であることは確かだ)、同じことである。僕には、姓の一致によって「一体感」だの「家族の絆」だのを感じるというストーリーはひどく自己欺瞞に思えて、そういう想像力しかない人物には憐れみを覚える。

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