Scribble at 2020-05-14 11:01:38 Last modified: 2020-05-14 11:02:51

今日も駅まで 3km ほど歩いて出社した。途中では、あいも変わらず通行・歩行について何の頓着もしない人々が多くいて、たいていは何とも思わないのだが、目深に帽子を被って俯きながら右側通行している老人などを見かけると、前方を殆ど足元しか見ていないので危ないだろうと心配になる。どのみち他人が避けてくれると高を括っているのかもしれないが、大阪でそのような思い込みは命取りだし、実際にそういう甘えが原因で人は事故に巻き込まれるのだ。

こういう事例を数多く見かけていて、たまに思うことがある。こういう、決まり事だとか道徳とか法について殆ど頓着しない人々が一定の割合でいるからといって、そういう一定の割合の人々を考慮した規則というものを考えられるのだろうか。つまり、

「集団 A の個体 a が P の状況にあれば、a は Q を実行して a を R の状況にするべし」

という命令が従来の規則だとして、これを《リアリズム》と称するものによって、

「集団 A の個体 a が P の状況にあれば、A のうち 60% の a は Q を実行して a を R の状況にするべし」

とか、あるいは

「集団 A の個体 a が P の状況にあれば、a は 60 % の割合で Q を実行して a を R の状況にするべし」

などと言いうる規則、こう言ってよければ「6割道徳」とか「6割倫理学」などというものは可能なのか。

このような想定には、もちろんただちにこう反論できるだろう。つまり、現実に人がルールを守らないのは、「6割責任感」などという認知能力の実体化可能な機構が脳に組み込まれているからではなく、色々な状況における条件の組み合わせにおいて見落としがある(ヒトには、全ての周囲の条件を認知するような能力はない。そもそも自分の周囲に存在する水素分子を全て眺められるなんて生物など存在しない)からなのだ。もちろん、何らかの仕組みによって判断とか推論に一定の閾値などに応じてばらつきが生じる可能性はある。そのように生理的な限界をもってして道徳を論じることは、確かに "Mama-Churchland" の著作を持ち出すまでもなく可能だとは思うが、具体的にそういう限界があるという生理的な仕組みが見つかったわけでもなければ理論として定式化されているわけでもない。よって、仮に6割の人々しかルールを守っていないからといって、「6割倫理学」が現実の正確な記述であるかのように主張するのは間違いであろう。

ルールが普遍化されていても6割しか守っていないという(事情はよく分からないが)現実があるというだけのことにすぎない。すると、全ての人が守ることが「適切である」とか「正しい」という判断は、そのうちの6割だけが従えばいいなどという「リアリズム」を見越したうえで普遍化されている《牽制》にすぎないのだろうか。社会科学としてはありえるが、倫理学としてはどうだろうか。もっぱら普遍化可能性という基準で議論している人々が、実際には「6がけ」で議論しているにすぎず、しょせん Oxford や東大も出ていない人間どもは、これくらいの割合で道徳を守り、自分たちのロクでもない子供たちに一部を伝えたり継承すればよい・・・などと高を括って倫理学の本を出版したり大学で講じているのだろうか。そうではあるまい(と信じたいところだが)。

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