Scribble at 2020-05-07 21:52:22 Last modified: 2020-05-07 21:54:13

何日か前に「終末論法は学んだり考察するに値する」とは書いたのだが、これも普段から書いているように、とりわけ分析哲学のプロパーが大好きな下らない喩え話を持ち込む終末論法の議論は、その殆どが考察に値しないと思う。共通の set-up については共通の定式化で議論するというのが、分析哲学や科学哲学において「言語は社交の技である」というコンセンサスのようなものだったはずで、それをめいめいで《自分なりの理解》と称するお気に入りの概念的な玩具で遊び始めたら、それこそ(とりわけ中世の西洋哲学だけがそうだったわけではないが、多くの場合に「中世の」と言われることが多い)愚昧で迷妄と言うべき、言語を使ったクオリア遊びという自己欺瞞に落ち込むだけである。そもそも《言語の使用という事実》が、厳密には(そして本質的にも)客観性という概念を満足する特性を持ちえないという点において、クワインとデリダは同じであるというていどの理解は、学部レベルでも哲学史をまじめに勉強すれば到達しうるであろう。そして、それゆえに言語を超えて何か信頼しうる《定点》のようなものを据えようとしたり、それが《ある》かのような前提をもつような議論も欺瞞であると言いうる。

もちろんアナロジーや比喩や類比のすべてを否定する必要はないし、妥当な対比は十分に有効であろう。しかし、それは有効とするべき基準を掲げる(つまり、少なくとも言語によって公共化する)ことなしにやれば、そんなものは「同じ日本人だからわかるのだろう」と Twitter などに書き殴っている、素朴で善良な人間のフリをしたファシストどもと大差ない。概念を図表で表したり、アニメやイラストで表現することに限らず、言葉をもってする比喩や寓話などで表現するということ自体、自分が《言語を使う生物》である事実についての冷徹な反省の上で遂行されるべき厳密かつ厳格な意味で《哲学的な営為》としての成果でなくてはならない。要するに、しょせんは円周率を 1,000 億桁ていどすら暗記できもしない有限な生物個体の分際で、同じていどに(たとえ円周率を 100 億桁しか暗記できないていどの)大して強力な能力もない個体に向かって、《馬鹿にはこう言えば分かりやすかろう》といった舐めた態度で喩え話をするなということだ。大多数のそうした比喩や図案というのは、結局のところ (1) 無意味に議論を言葉の意味の問題に引きずり込むか、(2) 分かりやすかろうという思い込みで逆に議論を複雑にするか、(3) 説明する当人の偏見を隠れた仮定として刷り込む道具にしてしまう、という過ちを犯すものであることが多いと言える。

終末論法を扱う書物にも、論点を説明したり議論の難点を指摘するために、数多くの人為的で、たいていは無能な SF 作家や素人が書いたようなストーリーが持ち込まれる。そして、二言目には数式を使うと売り上げが何パーセント減るだのと詰まらない出版事情を注釈したり、なぜそういう喩え話が有効なのかという点を全く説明しない出鱈目な設定の筋書きが長々と説明されたりする。そして、たいていの人々は誰の生活や誰の生きる世界ともかかわりがなさそうな SF 話やファンタジーを何度も繰り返して読まされるわけだ。結局、人間原理とか終末論法とは、何パターンの喩え話を知っているかで理解度が異なるといわんばかりのありさまである。

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