2018年11月24日 に初出の投稿

Last modified: 2018-12-02 19:14:56

Amazon.co.jp で、新書を古い順番に並べてウィッシュリストヘ入れることがある。昔の本でも読むに値するものはあって、読むべき人の手に渡って十分に咀嚼されないまま品切れになるという不幸な推移をたどることだってあるからだ。そうやっていると、たまに奇妙なことに気づくこともある。例えば、講談社学術新書というレーベルは他のレーベルに比べると仏教関連の本が多いということが分かる。

それはそうと、過去の著作が十分に咀嚼されたのかどうか怪しいという点について更に言うと、エアの『言語・真理・論理』といった古典的な著作ですら正面から論じている分析哲学や科学哲学のプロパーの論説なんて、いちどたりとも見た試しがない。恐らく、いま大学の哲学科で学ぶ学生の多くが、分析哲学を専門にしようがしまいが、まるで日本史の教科書に1行だけ登場する戦国武将のような扱いで、エアやファイグルやストローソンといった人物の業績を「処理」するようになっているのではないか。それもそのはず、そもそも教えている方の人々が、どのみち日本のプロパーが得意とする「情報処理」的なルーチンワークとして流し読みしているのが関の山なのだろう。だが、そんな「情報処理」を続けるだけで何かが蓄積できたのかと言えば、要するに海外にも同じような「情報処理」しかできない無能がたくさんいて、英語の処理能力では単純に膨大な数の英語ネイティヴたちの蓄積に負けているというだけのことなのかもしれない。

まぁ、そのような類の古典解釈にも値しないデータや読書経験の蓄積など、しょせん哲学的にはどうでもよい些事だ。そもそも、こんなことしか蓄積がなければ、後からやってきたウーロン茶だか緑茶だか知らないが、金と暇だけあるようなつまみ食いの得意な外国語秀才にすぎぬ素人に適当な「まとめ本」を哲学書や思想書と名乗って出版されるのが関の山だというのは、既に浅田彰や編集工学おじさんをはじめとする多くの前例から分かっているはずだ。

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