Scribble at 2018-06-16 10:16:03 Last modified: 2018-06-16 20:21:25

いつごろだったか、マイクル・ポラーニについて「傍流」と書いたことがある。これは、現今の英米を席巻しているタイプの科学哲学においては全くの事実である。しかし、もちろん僕はそれを「当然のこと」だとか、逆に「由々しきこと」だと示唆した覚えは無い。どちらにしても、そのようなことは歴史的かつ偶然の事情によるのであって、哲学的に何か妥当な根拠があるわけでもなければ、自然現象として必然的でもない。

実際、僕は高校時代に分析哲学や科学哲学よりもフーコーやデリダやレヴィ=ストロースや栗本慎一郎の著作を読むことから哲学なり社会思想の議論に関心をもつようになって、東京で雑誌の編集者をやってから大阪へ戻って大学に入りなおそうとしていた頃に書き溜めていた文章の多くは、栗本さんの『意味と生命』という著作に触発されて書いていた「意味形成論」というエッセイだった。いまにして思えば、論理学としての normative な定式化でもなければ認知プロセスとしての descriptive な記述でもない、何人かの人々が「世界」を三つに分類したがるときの「三つ目」に相当するような領域の議論であり、そういう領域を実体化したくなる心境はともかく、いまではそれは認められないと考えられる議論を熱心にレポート用紙に書いては、ワープロで出力したものをコピーして友人に配っていたりした。

そういうわけで、栗本さんやポラーニ「兄弟」(もちろんマイケルだけではなくカールも)の著作もそれなりに東京では買い求めていた。確か、栗本さんが教えを受けたドルトンの翻訳も持っていたはずで、いまでもアマゾンで改めて眺めてみると、サイマル出版会から出ている著作物には興味深いタイトルが多い。

何度も言うが、僕は分析哲学や科学哲学の著作を読み始めた当時から既に一定の色々な思想や哲学の素養を得ていたので、恐らく他の多くのプロパーも同じだとは思うが、『分析哲学入門』などという本を手にして初めて哲学に関心を持つようになった、などという奇妙な経緯は抱えていない(簡単に言えば哲学をやる何の実質的な理由もない、哲学ライターや思想オタクや文化芸人のようなものではない)。したがって、自分がカルナップやクワインの著作を読んでいるのは、彼らが「分析哲学の研究者」だからでもなければ、彼らが「科学哲学をやっている」からでもない。そんなカテゴライズや(彼らにとっての)自意識を当てにして学んだり思考する必要など、われわれ哲学者には全くない。よって、自分達がやるべきことの範疇に入るのであれば、それが量子物理だろうとハエの交尾だろうと経済人類学だろうと何でもよい。

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