Scribble at 2018-05-05 08:31:34 Last modified: 2018-05-07 23:10:23

池袋の書店員さんが退職した経緯を書いているブログ記事について、連れ合いと話していて思いついたことがある。いわゆる「ツタヤ図書館」にしても、ジュンク堂の通俗化(専門書が取り柄だった)にしても、人を本なり読書に呼び込む手法としては一考に価するものの、日本で起きている物書きと出版社と書店の通俗化は、簡単に言えば大道具の書き割りばかりが増えていって誰も劇を演じていないありさまなのである。

自然科学の基礎的な勉強を(それこそ高校のレベルですら)何もしないで科学哲学が分かるなんて本当はありえないわけだが、そういう手ごろな通俗書ばかりが出版されて、そこから先が何もないというのが日本の出版事情であり、書店の配架の実態であり、物書きの底の浅さである。したがって、どれだけ『ソフィーの世界』をはじめとして、池田晶子だ、田中美知太郎だ、中島義道だと通俗本が売れても、そこから先は実際に大学院へ進学するか、あるいはいきなりドイツ語の原書を読まなくては進めないというなら、そこで立ち止まってしまう人が大半を占めてしまい、たいていは引き返すか、自分の勉強不足を棚に上げて、学問や学界へ唾を吐いては「在野にこそ本当の哲学があり云々」などと言い出す逆切れ野郎が増えるのも無理はない。

本当に啓蒙とか啓発的な出版事業を考えているのであれば、単に最年少で小林秀雄賞を受賞した数学オタクのエッセイとか、古い文法を使ったニューアカみたいな屁理屈の通俗書をばらまいていれば、数学や哲学を学ぶ人が増えるなどというファンタジーをいつまでも信じているだけではなく、入門書や通俗書があってもいいけれど、self-contained とは何なのか、self-contained な書物だけでは不足があるならそれは何か、教育や他人とのディスカッションやピアレビューが望ましいのはどういう状況なのかを、出版に携わる人々も大学の教員と共に(どのみち御し易い労働者・消費者・納税者・有権者としての衆愚が目標である文科省の役人には望むべくもないので)考えて、その見識の成果とやらを見せてもらいたいものだ。

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