2018年04月27日 に初出の投稿

Last modified: 2018-04-28 20:00:53

さきほど帰りがけにジュンク堂で一ノ瀬さんの新書を眺めてみたら、あれ対話編だったのか。英米系の研究者って通俗書を対話編で書くのが好きな人は多いけど、プラトンにコンプレックスがあるのか、あまりよくない傾向だと思うなぁ。そもそも対話編は通俗本に適した叙述形式ではないと思うんだよね。上っ面では取っ付き易くなるけど、実際には安易な散文になるだけでスカスカの本になってしまう。なのに、登場する人物は素人や高校生のくせに、ありえないくらいの背景知識と揺るぎない論理的思考力をもつという、ラノベ以下のご都合主義ときてる(あるいは、ご自身の若い頃と同じく灘や東大寺や開成の高校生を想定しているのだろうか。それなら「ごく普通の高校生」という直感に訴えた設定でも理解できる。まぁ実験哲学の連中に足元から引っくり返される、格好の世間知らずと言ってもよいわけだが)。

ともあれ、いくら確率的因果関係が登場するにせよ、これでは読む気がしない。そういや、アラン・コンヌの『考える物質』も、期待して手に取ってみたら対談本だったのでがっかりした記憶があるな。

こんな落書きを読んでるプロパーはいないと思うけれど、もし若手でこれから対話形式の分析哲学・科学哲学の通俗書を書こうという人がいるなら、従来の手法をなぞるだけの通俗本(やれイラスト付きだ、萌え少女だ、小説だ、ジョークだ、対話形式だという、単に担当編集者の無能を証明するだけのプロダクト)をどれほど書いても、社会科学のスケールで誤差の範囲を超えて何か有意な結果が社会に起きたりはしないと言っておこう。そして、個人のスケールにおいてすら、それを読んだか読まなかったかで、その人物の人生に何か有意な違いが生じるとはとても思えないとも言っておきたい。つまり、「無」だ。仮に通俗書で「素人」を登場人物に何か哲学の話を始めたいというなら、試しに山口組の組員とか、麻生副総理とか、シリアで交戦中の反政府ゲリラとか、あるいはまさにいま病院で死のうとしている人を相手にするということを考えてみてほしい。これは冗談で書いているのではなく、そういう真剣さがなければ、哲学に限らず、何かを考えるということを人に勧めるものではないのである。これまで非常に多くのプロパーが間違ったスタンスで書いてきたのだが、「哲学はそれをやるべき人間だけがやるものだ」という表現を、或る者はただのエリート主義と誤解し、或る者はただの自虐ネタ(「極道」などと書いた者もいる)と誤解したわけだが、どちらも完全に、しかも悪質な仕方で間違っている。

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