Scribble at 2017-12-13 12:31:22 Last modified: 2017-12-13 15:51:33
Twitter で少し書いたことだが、僕が神戸大の doctoral course にいた頃の唯一の先輩に、Derek Parfit や Richard Hare の議論を学んでいる方がいて、Parfit の『理由と人格』という訳本が高いという感想を年賀状に書いてたりしていた。このパーフィットの本は、後で僕も identity のサイトを作るほど人格の同一性に関心をもったのがきっかけで原書を買ったのだけど、そこに出てくる「非同一性問題」というのは、神戸大にいた頃はあまり興味をもたなかった。最近、David Benatar の本を読み始めたときに、この非同一性問題が強く関わっていることを知って、あらためて考えてみているのだが、どうも議論の根本がクリアになっていないと感じるので、改めてきちんと勉強しなおしたい。概略だけを聴くと、なんで時刻 T1 と T2 で生まれると想定されるヒトが「同一」人物だと言えるのかという根本が全く論証されておらず、そこを問うのが哲学だろうという違和感しか残らない。ともかく、比較そのものが幾つかの脈絡で論点先取に陥っているように思うのだ。「非同一性」の問題とは、そもそもそれのことではないのか。
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20050203/p1
こういう話も10年以上は前に言及されているのだけど、だから何なのか。有名な話題に唾を付けた程度で何の成果も出さなければ、それは単なる「いっちょかみ」である。