Scribble at 2017-11-21 09:00:47 Last modified: 2017-11-21 09:14:32

哲学を前面に押し出す文章というものは、もちろん素人が書くものは殆どが読むに値しないクズみたいなものだが、よくある共通の特徴は牛刀でなんとやらというスケール感のなさにある(つまり、自分が相手にしている議論の矮小さに比べて、持ち出している概念の適用範囲のミスマッチと、その扱いの粗雑さがバランスを保っていない)。若者をはじめ自意識や観念に取りつかれている人々に特有の全能感と併せて、それはそれは麗しい「セカイ」が一個のブログ記事として完結すると期待されているのかもしれないが、しょせんは Google の解析対象文字列の一つに収まるのが関の山だ。もちろん、当サイトの文章も、そういうクズの一つにならないという保証はない。

こうしてみると、昨今の自我が肥大化した「1億総クリエイター」社会に生きる人々の自意識を保全できるのは、皮肉にも機械的な処理しか念頭に置いていないアプローチや形式主義だけなのだ(笑)。

でもこの議論って、どうしてマークシート方式の試験の方が「公平」なのかという大昔の議論に似ている。当時は、論述式だと採点者の読解力に左右されるからいけないということだった。もちろん、マークシート方式で「答え」を設定している時点での無能が回避不能だというリスクはあるので、公平などという評価は未熟にもほどがあると言える。しかし、「答え」を設定したあとは誰が採点しても結果は明白であるから、その手順において不公平は生じないと期待できる。したがって、採点の手続きにおける「公平」さだけに着目すれば、昔なら共通一次試験、いまならセンター試験のような、全国で共通の試験で評価するのが最善ということになるだろう。

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