Scribble at 2017-11-08 09:59:58 Last modified: 2017-11-08 10:12:00
最近こういうタイトルをずらりと並べられても全く何の興味も湧かないんだよね。正直、分析哲学の自意識話なんて、科学哲学やってる人間からすればどうでもいいな。なんで森田さんが入ってるのか理解できないよ。
方法論や目的として何かの支配的な定式化が建てられないというのであれば、昔から「分析哲学というのは一個の方法論を指しているのではなくスタイルだ」と言われてきたように、分析哲学の分析は知識社会学や比較思想史に委ねたらいいんじゃないのかな。自意識話をしたところで、そもそも哲学の教員は歴史学の素人なんだから。それなしにできる、つまり歴史学のアプローチに学ぶことなく「現場主義」で自分たちの来歴について語りうるというなら、それはせいぜい駄菓子屋の婆さんが「昭和」を語るようなものだし、適当な論理式を使ったところで理論的な根拠のない(あるいは願望を過去に投射しただけの)貧相な合理的再構成にしかならない。
もちろん、単純に党派的な理屈を並べ立てて、「どちらが『高級な哲学』か」などという御託を書いたところで学術的には無意味である。したがって、いまや科学哲学のプロパーは穴だの映画だのゾンビだのに関心をもってはいないが、それは「くだらない」からではなく、既に科学哲学の(標準科学としての)タスクは全く別のところにあるからだ。その是非はもちろん問われていい。