Scribble at 2017-03-28 19:23:01 Last modified: unmodified

日本人がプライバシー権を勘違いしている限り、働き方改革は成功しない

素人の寄せ集めにすぎないオンラインのメディアと自称するただのグループブログに学術的・思想的な重要性など露ほどもないが、こういうコンテンツには、多くの人々をバカのまま温存するというリテラシーの上方圧力という点では社会的な悪影響がある。したがって、別に僕らは「真実を知る者の目線」などという傲慢な態度はもつべきでもないと思うが、少なくともこういうコンテンツに違和感を覚える者として、はっきりと違和感を指摘しておくべきである。(ちなみに、こういう指摘の仕方を昨今は「マウンティング」と呼んでいるが、果たして女性に対して使うのは適切なんだろうか。どう考えても読み手に性的な暴行を連想させる不適切なニュアンスが出てしまうと思う。)

ともあれ「元財務官僚で、ハーバード・ロースクールを卒業した山口真由」という人物が言うには、「プライバシーというのは、究極的には『自分の私的領域を国に管理されない権利』、言い換えれば、『自分の人生を自分で選び取る権利』ということ」らしい。したがって、これは日本で語られている個人情報とは違うのだという。それはそうだろう。そして、日本の少なくとも法曹でこれらを同一のものだと説明したり理解している人間はいないはずで、誤解しているのは寧ろ政治家やマスコミの人々であり、彼らにはミスリードするインセンティブがあるのだ。このていどの事情も理解しないで「元財務官僚で、ハーバード・ロースクールを卒業した」などと自慢げにライターに書かせるというのは、ただの外国語秀才なのだろうか。

だいたい、こうした人々の議論が浅薄なのは、(1) アメリカで扱われている「プライバシー」の概念が何らかの基準において最良あるいは最も正確である保証などないということ、(2) そもそも我々が保護されたり保障されるべき「権利」としてプライバシーの概念によって実現される何かが最善のものとして当てはまるという保証もないこと、という二つの点を考慮しておらず、まるでアメリカ人の言うとおりにプライバシーを理解すれば、(1) プライバシーを正しく理解したことになったり、(2) 我々が保護・保障されるべき権利がプライバシーの保護によって実現されるかのように言い立てているからだ。しかし、彼女はこういう厳密な論証などできまい(そして、こう言っては悪いがハーヴァードだろうとしょせんは実務能力の養成機関ごときものに、そういうレベルの教育が施せるとも思えない)。したがって、日本の「働き方改革」がプライバシーの実現などとは最初から関係がないという大前提を無視して、「働き方改革ではプライバシーを尊重できない」などと指摘したところで、全くの的外れである。

また、しばしばアメリカの大学を出た人に見受ける傾向として、わざとかどうかは知らないが、アメリカのキリスト教(あるいはプラグマティズムであろうとリバタリアニズムであろうと、キリスト教とは無関係に語りえない他の思想)という脈絡を無視した議論をしがちだ。これは留学において、生活の一部として言語や思考に脈絡が自然と入り込んだ上でコミュニケーションをとっているうちに違和感がなくなってしまって、そこに埋め込まれた歴史的な経緯や価値観による偏りを相対化できなくなってしまった状態であり、「外国かぶれ」という言葉はこのような正当な批判を意味しうるはずが、残念なことにいまでは単なるやっかみの言葉となってしまっている。

ともかく、アメリカにおけるプライバシー権の有力な脈絡の一つは、国家によって規制される公のことがらと、個人によって私的に営まれる信仰との区別あるいは対立における権利意識である。このような脈絡をもつプライバシーのアメリカ流の理解を普遍的な価値観であるかのように、そのまま日本に当てはめるなどというのは、それこそ戦後に夥しい数の著作が無意味にばら撒いてきた(そしてそれゆえ同じ程度に愚かな保守派や反動思想家の反発を招いた)幼稚な民主主義礼賛の議論から 70 年以上も経つ 21 世紀の議論とは思えないほど恥ずかしいものだ。

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