Scribble at 2017-03-30 13:55:57 Last modified: unmodified

新たな科学論の構築を

村上陽一郎さんが日本で科学史や科学哲学の普及に果たした役割は大きく、その貢献について高く評価するべきなのは議論を要しないだろう。少なくとも、彼らの世代の人々のおかげで、科学哲学、科学論、STS、あるいは科学基礎論は大学の正式な学科や専攻となったし、大型書店にも「科学哲学・科学論」という置き場所ができるまでにはなった。

僕が大学へ進んだ頃に書店で買えた科学哲学(いわゆる分析哲学はともかく)の本と言えば、村上さんの『新しい科学論』(講談社ブルーバックス、1979)くらいしかなかったと思う。後から調べると、既に Ernest Nagel の『科学の構造』や Carl G. Hempel の『自然科学の哲学』は出ていたようだが、昔も今も書店で見かけたことはない。現在のように、哲学どころか科学哲学や分析哲学のような分野の通俗的な本が毎年のように出版される状況ではなかったため、要するに初版で取次が捌いた後の増刷がなければ、既存の著作があっても書店には出回らない。そういう中で村上さんの『新しい科学論』は、いまだに書店で見かけるのだから、実際に売れているのかどうかはともかくとして、増刷されたり取次に扱われているという事実だけでも、これはこれで大したものである。

それ以外の村上さんの評価については、僕自身が殆ど読んでいないので何も言うことはない。学生時代に何人かの先生方から、村上さんや大森さんの科学史の議論は根拠が弱いという批評を聞いたことはあるが、いずれにせよ学生に口頭で語って済ませられる程度の成果だという扱いだったように思う。そして周りの評価を脇へ置いたとしても、僕の村上さんに対する理解というものは、殆ど初年度の学部生と同じレベルである(そして、それが僕自身の哲学において何らかの欠点であるとも思っていない。コミットしないということと無知とは全く違う。哲学は、人間をウィキペディアにするための学問ではないし、ウィキペディアからは何も自動的に妥当な結論や推測など生じないからだ)。つまり、古臭い言い方で言えばクーンやファイヤアーベントといった「新科学哲学」の著作を数多く訳出して国内に紹介し、自らもハードな科学哲学から距離を置いたり、現行の科学を自明視する(殆どイデオロギーと言ってもよい)scienticism に対して歴史主義のアプローチから批判的な態度を取っているという印象だ。それ以外は、クリスチャンであるとか教え子と結婚したとか楽器を演奏できるとか、そうした話題を知っているくらいでしかない。

しかし、どれほどそうした事柄を色々と知っていたところで、それは「新しい科学論」を構築する基礎的な素養や論拠になるものではない。村上さんの思想だか全体像のようなものの解釈を積み上げたり、それに対する批評を積み上げたところで、それが「新しい科学論」となる保証など何もないだろう。したがって、村上さんの議論なり思想について色々と論じるのはよいとしても、書籍のタイトルは誤解を招くものだと思う。もちろん僕は読んでいないから、村上さんの議論を超えたところに「新たな科学論」なるものがあるはずだという説得的な議論が何か展開されているのかもしれないが。

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