なぜ原因は結果に先立つのか?

河本孝之(KAWAMOTO Takayuki)

Contact: takayuki.kawamoto (at) gmail.com

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First manuscripted: 1995-01-16,
Modified: 1995-01-22, 1995-01-24, 2018-12-10 13:54:00,
Last modified: 2021-09-30 10:02:25.

本稿は、関西大学大学院の博士課程前期課程に在籍していたときのレポートである。日付けでお分かりのように、現在で言う「阪神・淡路大震災」が起きたため、提出を予定していた1月17日は大学へ登校できなかった。したがって、実際に提出した1月下旬までに何度か推敲してある。元の文章には「その後で元のレポートには不満な箇所が多く、害き直す必要を感じましたので、正式な提出日からすると違反した処置ではありますが、大幅に修正した上で4.節あたり以降を加筆しました。」と書いてあるが、こういった追記は今回の公開では本文に入れていない。なお、以下の文章では、典拠表記の表記方法を変更したり誤字脱字を直してあるが、論旨はそのままにしてある。

1. はじめに

或る出来事が起きたときに、ふつうわたくしたちはその出来事が起きるために或る他の出来事が既に起きていた筈だと考える。そうした推理がなされる理由は、ヒュームによれば人間の知識をもたらす推理が因果関係という推理上の原理をもっているからだということになる。そして因果関係は原因が結果に先行するという本質をもつので、或る出来事の生起を何らかの原因による結果だと捉える傾向を起こし、わたくしたちは出来事の原因である他の出来事を求めようとするわけである。しかしヒュームは結果に対する原因の先行性をもちだす議論において大まかには背理法を用いており、積極的な論証ともいうべき議論はしていない。まずヒュームは、原因の先行性に疑いを差し挟む議論を次のように紹介している ⸺ 原因は結果を生み出す性質をもつ、すると原因である出来事が生起して活動をはじめたその瞬間から、その出来事は何かの原因となるものであるがゆえに結果を生み出すような作用を起こし始めねばならない、作用が起き始めると結果は即座に生起するのだから、原因が生起し作用し始めたと同時に結果も生起しなければならないのである。だがこのような議論に対してヒュームは次のように反論する ⸺ もし原因が生起したときにそれが完全に結果を生み出すような原因として十全に作用するがゆえ同時に結果を生ずるのならば、そもそも原因というものは全てそうしたものでなければならない、すると結果が遅れて生起するような事例(因果関係の殆どの事例はこうした事例だとヒュームは考える)において結果へ先行する出来事は原因とは言えなくなってしまうし、原因が結果と同時に生起するならば原因としての出来事をそもそも引き起こした原因の原因もまた原因と同時なので、この事態からすると出来事の時間的な継起は全く消失してしまうであろう。

ヒュームは結果に対する原因の先行ということを積極的に理由づけてはいないが、ではいったいなぜ原因は結果に先行しているのだろうか。この問いは因果性に関する多くの著作において、原因の先行性 the priority of cause, 因果的非対称性 causal asymmetry, あるいは因果作用の向き the direction of causation などと名付けられており、現在でも活発に論じられている。しかしこの問いに明確な答えを出すのはなかなか困難なようでもある。本拙論はこの問いをめぐる古典的な議論を紹介し、ささやかな考察を加えることを目的とする。

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2. 結果はその原因に先立ちうるか:ダメットの答え

本拙論で取り上げる問いについて、現代の哲学者のなかで古典的な議論を展開したのはダメットとフリューである。そこでこの節と次節において、ダメットとフリューの見地を紹介しようと思う。

結果が原因に先立つことがあるかもしれないという考えは、最初は馬鹿げてみえるし、後に起きる何かによって今何かが起きるということは理解不可能に思える。なぜなら、(1) 今何かが起きるのは少なくとも以前に何かが起きたからであり、更に以前に起きた何かが今起きる何かへ作用するのを何ものも邪魔しなかったからである。そして、(2) 今起きることの為に後で何かをするといっても、もし今現に起きたなら後でしなければならないことなど全くないし、今現に起きていなければ、今起きていたようにすることなどできないからである ⸺ このようにしてダメットは議論を始める。しかしながら彼によると、多くの人々は「原因」を十分条件だと見傲しており、もし原因が十分条件のことであるなら、結果が先行することの不合理をそうした原因概念で説明することはできなくなる。なぜなら十分条件は「A → B」における A を「論理的に」規定するだけであり、A と B には時間上のあとさきという条件など含まれていないからである [Dummett, 1986: 315f.]。

ここまでくると、十分条件によって原因概念を定義しないように試みたくなるのだが、ダメットは原因よりも寧ろ十分条件の方を保ちながら、ではどうして以後の事件が十分条件になる事例があるにもかかわらず、先発 → 後発という向きに作用する規則性だけを使おうとするのかと問う。そして、後の事件による先の事件の説明を合理的にするような概念として「準因果作用 quasi-causation」を提案し、この準因果作用による説明が合理的なものとなるための条件を以下のように述べる [Dummett, 1986: 321f.]*1

*1邦訳者の藤田晋吾は “quasi” を「えせ」と訳しているが、この語は derogatory を合んだ表現ではない(なぜ逆向きの規則性を用いてはいけないのか、とダメットが既に反問している事情から明らかであろう)。

ここで注釈すべきは、ダメットが考えている因果の観念である。ダメットは、或る原因が或る過程に作用し、その作用が止まると作用を受けた過程は別の作用が加わるまで同じ状態や過程を保つと解釈している(Fig. 1)。こうすると、原因と結果が同時であるという考えも取り込むことができるということになろう(C’ と E)。これとほぼ同じ着眼がウェスリー・サモンの「相互作用分岐 interactive fork」にも見られる。

Fig. 1

とはいっても、こうした逆向きの因果関係は関係の内容について十分詳細に記述することができないものであり、いわば生の事実として受け取る他にない。A ~ C のような事実がありましたというだけのことしか述べ立てることができないのだから、こうした概念を取り立てて「準因果」だと規定してみても有益かどうかは定かではないのである。

だがダメットによると、少なくとも二つの点だけは主張できるという。まず逆向き因果の場合には先の事件が後の事件に影響することはないのだから、後の事件が先の事件によって起こそうとしても起こせなくなることはない、それゆえ後の事件を起こせるかどうかで先の事件の成否を確かめることができる、という言い方で逆阿き因果の説明を擁護することはできないのである [Dummett, 1986: 325-328]。また、先の事件の影響を受けずに後の事件を任意に起こせるならば、後の事件はそもそも先の事件の十分条件にはならない。なぜなら、先の事件は起きたか起きなかったかであり、先の事件が起きておらずしかも後の事件がその事件の十分条件であると言っても、その十分条件たる後の事件は起こそうとしても起こせないということになってしまう。こうしたことはあり得ないのだから、その場合には後の事件が十分条件であるとは言えなくなるけれども、このように反論してしまうと後の事件に影響されず先の事件を任意に起こせるという理由で(原因が十分条件であるという前提のもとになされる)ふつうの因果的説明をも否定してしまうことになるのである [Dummett, 1986: 328f.]。

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3. 結果はその原因に先立ちうるか:フリューの答え

これに対してアントニー・フリューが「準因果関係」に対して与えた反論は、手短に言うと次のようになる [Flew, 1954: 56]。

またフリューは次のような状況を引き合いに出している。注意深く実験するならば、準原因の準結果に対する作用を妨げることによって準因果関係の本質を汲み取ることができるに違いない。ここでもし、この実験者が何の準結果も得なければ、彼は実験を始められない。だが彼が何らかの準結果を得たにせよ、彼は本当の準結果を得なかったことにもなるのであって、ただ彼が準結果を得た後で準原因を起こすことに失敗したときにだけ、準原因の作用を妨げたことになる [Flew, 1954: 57]。要するに、その準原因が「準遠因」である保証はないので、準原因がそもそも起きるための更に準原因を妨げねばならず、どんどん未来へ先送りされてしまい、結局は何もできなくなってしまうということであろう。また準結果が何も起こらなければ、いったい何についての準原因を妨げたのか全く分からないのである。そしてフリューはダメットが最後まで原因の概念よりも十分条件の規則性の方を維持しようとしていたことについて言及し、次のように論評している e3a; ダメットは「原因とは単に十分条件である」という見解を実覧的には受け入れていた。それゆえ、十分条件を「原因」と同義語として使いたく思っていた。そこで彼は、明りを灯してみることで電球が取り換えられたかどうかを確認できる、なぜなら前者は後者の十分条件だから、ということになる。このとき、「原因」から「準原因」へのすりかえが起こる。もし「原因」=「十分条件」なら、明りを灯してみることが原因と呼ばれるけれども、原因を十分条件と見倣したいという誘惑は、このような間違った因果的言明とは別物なのである [Flew, 1954: 59]。

ここでフリューが述べているような反論は、後に「出し抜き論法 bilking argument」と呼ばれている。再び整理してみると、先発事象と後発事象があって、実験者は先発事象が起きるのをひたすら待つ。起きたときに後発事象の生起を妨げてみることにより、準因果関係による逆向き因果関係について反論することができるのであった。もし妨げることができたならば、先発事象は後発事象がなくとも起きるのであるから逆向き因果を主張することはできない。またもし妨げることができなかったならば、それは先発事象が後発事象を妨げる実験に対して何らかの妨害となることを意味しているのであり、この場合も逆向き因果を主張することはできないのである。

ダメットとフリューの争点を大まかに言えば、時間上で後の事象から先の事象へ規則的な関係を主張したり説明する可能性があるかどうかということになろう。ダメットは消極的ながらもこの可能性について留保ないし同窓しているふしがあるし、フリューは明確に否定しようとしている。ふつうは明らかにダメットの方が不利であろう。まず逆向きの因果関係を説明するために事例を持ち出し、そしてその事例が実際に逆向き因果の事例であることを正当化しなければならない、という事情はかなり困難がある。それゆえ逆阿き因果関係は「実際にはない」とか「あったとしてもそれは逆向きの因果関係であるかどうか疑わしい」といったお手軽な反論に対してさえ抗弁するのに苦労することになる。

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4. フリューに対するダメットの反論

では本拙論の課題に戻ってみよう。ここで注意しなくてはならないのは、逆向きの因果関係が可能であるかどうかという論点は、未来の事象が過去の事象を起こすと考えうるような可能性があるかどうかという論点に帰着するということである。いま何かが起きるとすれば、それは以後の事象に対して何らかの作用や影醤を与えるだけであり、以前の事象に対して何らかの作用や影響を与えることはないと考えねばならない理由は何なのかということであって、そうした過去に対する作用が事実としてあるかどうかの話をしているわけではないのである。前の節において、ダメットは過去への作用を否定したり肯定したりする理由を幾つか取り上げて論評し、彼自身は明確な理由づけを述べていない。確かに彼は、原因とは直接的原因であるか遠因であると述べて後発する事象が原因となる可能性を否定してはいるものの、その理由について明確な表現を与えてはいない。またダメットの議論を受けるフリューにしても、原因の先行性は論理的な事実であると断言するだけで期確な理由づけはしていない。それゆえ前節をひととおりながめた後で、逆向き因果関係という哲学的な玩具をめぐる取り扱いの争いをみたように印象づけられたとしても不思議ではなかろう。実際、「逆向きの因果関係」と言う場合に「因果関係」が時間上の後先を前提しているとすれば、このような表現は端的に言って自己矛盾した表現に他ならない。たとえ未来から過去へ作用するはたらきや規則性があると考えても、それを「逆向きの因果関係」として捉えねばならないと言うための根拠はかなり薄弱である。また哲学的にどうあれ、「なぜ A という出来事が起こったのか」という問いに対して「それは10年後に B という出来事が起こるからだ」といった返答をする余地を残さなければならないと考えることに一体何の価値があるのかと問い詰めたくもなろう。

しかしそれでも、いま何かが起きるのは過去に何かが起きたからであって未来に何かが起きるからではない、と考えねばならない理由を構築しようとすれば途端にわたくしたちは考え込む。そこでフリューが指摘した出し抜き論法が登場する。この論法において前提されていることは「過去の事象は起きたか起きなかったかのいづれかである」という信念であり、それゆえ既に起きた事象の後で何をしようと(つまり準原因と呼ばれる事象を敢えて引き起こそうと自然に任せようと妨害しようと)過去の事象が起きたということに変わりはないと考えられる。こうした信念に対して、逆阿き因果関係を受け人れようとする人々は、この信念が未来に対する信念と対比されるようほのめかす。もしこの信念が決定論的な信念であるならば、過去と未来に対する信念は次のように言える。

しかしながら、出し抜き論法の支持者たちは準原因を任意に起こしたり妨害したりすることができると主張するのであるから、彼らは準結果からみて未来の事象にあたる準原因の生起を自由に操作しうるということになろう。だが彼らの操作からみれば準原因の生起とか不生起は未来の事象にあたるのだから、H については否定しなければならない。ということで、おなじみの「未来は開かれている」といったスローガンに行き着くわけである。実際、出し抜き論法の要点は、G を受け入れて H を否定するという非対称性に求めることができるように思う。なぜなら因果的な意味で「作用させる」とか「影響を与える」と表現する場合、そこには H の否定(そうした因果的な操作が任意に行なえるということ)が含意されているように思うからである。

これに対して与えられる反綸は、G のような理由に基づいて逆向きの因果関係を否定することは誤りだと言う。そしてその理由として、 G と H は類比的に成り立たなければならないからだと主張している。しかしながら、それは G や H がともに決定論や宿命論という信念であった場合のことであろう。わたくしは G と H が宿命論の名によってともに肯定されねばならないと言う必要はないように思うし、更に G と H を共に否定することが逆向き因果関係への有力な根拠になるとも思わない。

わたくしたちがいま論じている課題をもう一度よく考えてみればわかるように、原因と結果の非対称性は何によって根拠づけられるかという問いは、G と H の信念について G を肯定し H を否定したいと「考える」根拠は何かという問いでもある。それゆえ、G を肯定し H を否定したいと考える人に宿命論を押しつけて反論しようとしても、それは的はずれと言うほかはない。ダメットは G を肯定するように説得することが難しい事例として或る空想上の部族が行う風醤を挙げているが、そこでは G を肯定することもできず、かといって G を否定するための合理的な根拠を与えることもできない空想上の部族に対して説得的な議論をすることができないということをもって「G を否定することが不合理であるとは言えない」といったファイヤアーベントまがいの文化相対主義に似た結論を持ち出してきている。しかしながら、こうした空想的な事例による反論というものは、ここで考えていることが逆向き因果関係の「事実性に関する問い」であるかの誤解を生ずる恐れがあり、また G を肯定することや G の肯定が合理的だと考えることを相対化することによって何かが解決されたと思わせてしまう恐れもある。実際にはそのような事例を持ち出したところで何も解決されてはいない。G を肯定することが特定の文明や文化をもつ社会の一般的な信念であり、また G を肯定することが合理的だと考えることさえも特定の社会の基準であるとしてみても、その特定の基準をもつ特定の信念が他の甚準をもつ他の信念に対して比較不可能(相対的な正さをもつだけ)であると主張するだけの根拠はないし、ましてやそのようなことを幾ら言い張ったところで、G の肯定が(この特定の基準において)合理的であると考えられている理由はなぜかを少しも説明してはいないのである。わたくしたちは G を受け入れる概念上の理由を捜しているのである。そして理由を構成する諸概念が特定の文化に相対的であったとしても、それを指摘するだけで G の肯定に対する理由を「誤りだ」とか「不合理だ」と言い立てる根拠には全くなっていないのである。

それゆえここまでの 2. ~ 4. 節を振り返ってみると、フリューの出し抜き論法に対するダメットの反論は、フリューの見地を過去にかんする実在論として捉え、この見地は宿命論と結びつけられるがゆえに未来にかんする実在論にもならねばならないから、過去を実在とし未来を操作可能だとして論ずるフリューの立論は整合しないとのだと結論づける。そしてわたくしのみるところ、フリューに対するこのような帰謬法は誤っていると思われるし、更に著名ではあるがあやふやなダメットの立論は、「なぜ或る出来事が起きたときにそれを起こした出来事が先立って起きている筈だと考えるのか」というはじめの問いをただ単に(逆向きの規則性を引き合いに出して)相対化しただけであり、このはじめの問いに対しては何も答えていないと思われる。だいいち、因果性について考察するために、あらかじめ世界が決定論的であるかどうかを判断する必要があるとは思えない。私見によれば、因果性が何であるかという問いと世界が決定論的であるかどうかという問いは、因果性を認識論上のカテゴリーだと見倣す見地からすれば全く論理的に独立しているのであって、世界が決定論的であったとしてもそこからただちに因果性が実在の関係であるといった結論は引き出されないし、また世界が決定諭的でないとしてもそこからただちに因果性が無意味な概念であるという結論は引き出されないのである。

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5. 出し抜き論法は果して有効なのか

これまでにわたくしたちが得た結論は、第一に本拙論で扱う問いについて、決定論や宿命論を持ち出しながら「帰責可能性を想定する反論 shadow boxing」を展開しても的外れなのだということであった。

では第二に、フリューが展開した「帰結可能性を想定する反綸(出し抜き論法)」を考えてみると、そこには明らかに、過去は操作可能ではないが未来は操作可能であるという非対称性が前提されている。なるほどダメットが指摘するように、この過去と未来の非対称性というものは、過去の事象について述べる言明と未来の事象について述べる言明とについて、前者は真偽が既に決まっているが後者は現在のわたくしたちの原理的な操作可能性(広い意味での窓志と言ってもよい)に依存しているから真偽が不確定だと考えることに他ならないだろう。すると、原因の先行性が過去と未来の非対称性を仮定することになる。こうして、真偽が不確定な後発事象の生起は操作可能であるがゆえに、既に真偽が確定している過去の先発事象へ影響を与えることができないから原因となりえないという筋書きが出来上がるのだった。これまでわたくしは、フリューが与えるこうした出し抜き論法を準因果関係に対する有効な反論として扱ってきた。しかしながら、この一見すると強力にみえる論法は果して概念上の強い根拠をほんとうにもつのだろうか。

逆向きの因果関係とか反対に向いた時間の流れを表現するような事例として多くの研究者が取り上げるものにタイム・トラベルがある。ここで、タイム・トラベルが可能になった或る時代に生活する若者、法市君を考えることにしよう*2。但し何度も念を押さねばなるまいが、ここで考えているのは「なぜ原因が結果に先行すると考えるのか」という問いであるから、タイム・トラベルが経験上で可能なのかどうかという論点は実際のところどうでもよい。問われねばならないのは、タイム・トラベルといった事例が指し示しているところの概念であり、タイム・トラベルが前提している「技術上の可能な事実」はここで問うべきことではないのである。するとタイム・トラベルが可能であるということはどんな概念を指し示しているのか。まず時間の流れを規定している系が複数なければならず、また各々の系においては時間の流れは系に対して固有のものである。それゆえ、異なる系の時間の流れは時間経過の相対的な早さが違っているのであり、これは現代の物理学における時間概念を考慮することによって、全く疑問なく想定できる。タイム・トラベルをして、法市君が出発した(法市君に固有な時間系における)時刻から100年前へゆくのにタイム・マシンの中で 10分しか乗っていなかったとしても、100年のあいだを経過するのに10分しかかかっていないのは自己撞着だと反論することは最早できない。

*2単に Paul Horwich とホウイチを語呂合せしただけであり、他意はない。

次に、タイム・トラベルをして100年前のどこかへゆくということは100年前のどこかに存在するということであるから、二つの時間系が同一地点において交差することになろう。それゆえ、タイム・トラベルをしてきた法市君が建物の壁の中に出現しないよう出現地点を調整するような技術的な配慮が必要となる。つまりまさにタイム・トラベルをしようとするとき、タイム・マシンが出現するであろう地点を正確に予測することが必要なのである。そのためには、わたくしたちがいま考察している(言わば)正規の因果関係を前提しなくてはならない。過去にしかるべき地点に物体があったりなかったりしたからこそ、そのような予測が可能となるからである。すると、過去にかんする実在論が成り立ちうるように思われるが、こうした推論自体が出し抜き論法であるから、ここではこうした結論が可能になると述べておくだけにしよう。

では、やや詳細に展開しすぎたが、このようなタイム・トラベルヘ概念上の反論を加えることはできるだろうか。ここで最もよく知られている「事例」は出し抜き論法によるものであり、自己殺害と呼ばれる ⸺ もしタイム・トラベルが可能ならば法市君は過去へ遡って幼い頃の自分自身を殺してしまうことができるけれども、するとその時点で法市君は死んでしまうのだからタイム・トラベルをし始めた(殺された時点よりも未来の)時点に生存している筈がなく、それゆえタイム・トラベルは不可能なので自分自身を殺すこともできないが、今度は自分自身を殺すことができなくなるのだから法市君は生存し続けてタイム・トラベルをし、過去へ行って自分自身を殺すことができることになる……というわけだ。この自己殺害について理解することができる概念上の背景はなんだろうか。第一に、さきほど時間の流れは複数の系があると述べたが、これら複数の系はそれぞれの個体に対する系として想定されていた。そして個体ごとに時間系が相対化されるからといってそれぞれの系が個体ごとに全体として平行に並んでいるわけではない。でなければそもそもタイム・トラベルをした法市君が幼い頃の法市君に影響することは不可能だからだ。そして第二に、幼い頃の法市君の時間系とタイム・トラベルをした法市君の時間系とは繋がっているものと考えられている。もし繋がっていないならば、殺された幼い法市君の時間系は単にそこで切れたにすぎず、タイム・トラベルをした法市君の時間系に何の関わりもなくなるから、上記のような循環は主張できなくなる。また第三に、この事例は逆向きの因果関係について持ち出されているのだから、因果関係の概念が時間の概念を前提しているのだと分かる。

さてこのような出し抜き諭法によってタイム・トラベルが不可能だと論ずる多くの研究者に対し、ポール・ホーウィッチは以下のような反論を試みる。

Fig. 2, 3, 4

通常の開いた時間線 (Fig. 2) において起こる因果過程は、概念上の疑問が生じないと思われる。ところが、タイム・トラベルに反対する研究者たちは、タイム・トラベルが閉じた時間線 (Fig. 3) をもたらし、a の時点で存在していた人を殺してしまうことによりパラドクシカルな結果が引き出されると考える。b においてタイム・トラベルを行った人が a において自分自身を殺すことにより、a ~ b におけるその人自身の存在を打ち消してしまうということは、b においてまさにタイム・トラベルをする人がいなくなるようにするのだから、少なくとも閉じた時間線 (Fig. 3) で考えている限りは疑問の余地なくパラドクシカルであろう。

しかしながらホーウィッチによると、「この考えには、時間的曲線は、それに位罹づけることができる因果連鎖のクラスに限定を加えるものではない、という考えが含まれている」と指摘して、この考えがこのままでは明白に誤っているという。なぜなら、第一に或る種の因果過程における異なった事象どうしの時空的な隔たりは物理法則によって規定されており、第二にどんな因果連鎖もそれに交差する時間的な線に沿って位置づけられた因果連鎖と整合しなければならないからであるという(例えば、Fig. 4 の c において)。そうしてホーウィッチは、こうした二つの規制は通常の因果連鎖においても妥当しているのだから、結局のところは因果連鎖という概念の純粋に意味論的な理由で自己殺害といったことがらは不可能であると論じている [Horwich, 1992: 185-191]。

なるほど、上記のうち第一の理由については一見すると納得がゆく。実際、自分自身を殺すためには少なくともこれまで自分が生きてきた時間系において自分が生きていたインターバルよりも短い時間だけ遡らなくてはならない(法市君がその時の法市君が位置している時間系において20年間生きてきたならば、同じ時間系に照らして20年よりも短い年数だけ遡らなくてはならない。これは当たり前のことだ)。そして、そうした局所的な過去へとタイム・トラベルをするためにタイム・マシンが消費するエネルギーは、ホーウィッチによると克服不可能なほど莫大なものになるという。それゆえ、実際には自分自身を殺すために局所的な過去ヘタイム・トラベルをすることはできないということになる。しかしながら、これは全く反論になっていない。なぜなら、自己殺害によってタイム・トラベルの可能性を否定しようとする研究者は、克服可能なだけのエネルギー消費によって遡ることができる任意の過去に行って、法市君自身ではなくとも法市君の先祖を殺すことができるから、結局は同じ論点が残ってしまうからである。

また第二の理由は、二つの系の終点と始点がつながりうるという可能性をはじめから排除している。確かに二個のビリヤード・ボールが或る地点でぶつかるといった事例を想定するなら、二個のボールの運動は(初等的な古典物理において考える限り)独立系として扱うことができよう。しかしながら自己殺害の場合は、昔の法市君の時間系の点である b と今まさに自分を殺そうとしている法市君の時間系の点である b は同じであって、しかも法市君は時間を逆行しながら自分自身を殺そうとしているのではないのだから、二個のボールの衝突とまさに同じ状況であり、タイム・トラベルをした法市君の因果過程だけが特別の法則に従わねばならない理由などないように思える。それゆえホーウィッチの理由を妥当なものとするためには、交差する二つの因果連鎖の連鎖項を占める存在者が、始めから独立の個体でなければならないと仮定されているわけである。

このように、出し抜き論法に対するホーウィッチの反論は、彼が出し抜き事例を論理的に不可能だと結論づけるほど強力なものとは思えないし、本拙論でそもそも問われるべき過去の実在を不問にしたまま議論しているように思われる。

ではひとまず、ここまでの経緯をもういちど整理しよう。ダメットとフリューは共に、「原因」を十分条件によって定義することが原因の先行性を根拠づけはしないと正しく考えていた。そこで、二つの帰結が可能となる。まずダメットは因果関係から時間上の順序を取り外し、次にフリューは因果関係の観念から十分条件を取り外した。するとダメットの見地からは自然に、時間上で逆の順序をもつ因果関係が想定されることになる。二つの事象が「因果関係としての規則性をもつ」と言う場合、ダメットによるとそこには時間上の順序は含まれない。ただ時間上の順序を考意するときにのみ、過去から未来への規則性は「因果関係」と呼ばれ、未来から過去への規則性は「準因果関係」と呼ばれるのである(ダメットの見地を咀咽するならば、前者を「正の因果関係」、後者を「負の因果関係」と相対化して呼ぶほうが更によいだろう)*3。そしてフリューの見地からは自然に、時間上で逆の順序をもつ因果関係は想定不可能だということになる。二つの事象が「因果関係としての規則性をもつ」と言う場合、フリューによるとそこには時間上の順序が諭理的に含意されている。それゆえ時間上で逆を向いた因果関係という概念は出し抜き論法によって不整合となるような帰結をもたらすから妥当ではないのである。これに対してダメットとホーウィッチは、出し抜き論法が逆向きの因果関係を否定するような帰結をもたらし得ないと諭じた。その理由はさきほどもみたように、出し抜き論法は「原因の操作可能性」を不当に用いているということである。

*3だが「正の因果関係の原因は直前因であるか遠因である」、「負の因果関係の原因は十分条件である」というダメットの二つの主張において、そもそも負の因果関係が「いやしくも因果関係として正の因果関係と或る共通の特徴をもつ」という根拠がない。それゆえ、後発事象が十分条件になるような「或る規則性」が概念上で可能だという主張を認め得たとしても、その規則性がどういう意味で(時間の順序が逆であること以外)正の因果関係と同等に考えられねばならないかが全くわからない。だから、この負の因果関係に対して出し抜き論法を提出することで、正の因果関係と共通の規則性をもってはいないのだと反論されたとしても当然であるように思える。

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6. 私見の展開

どんな事象もそれに先行する事象によって起こされたのであり、それに後続する事象によって起こされたのではないと考えるのはなぜなのか ⸺ 因果関係の非対称性と呼ばれる問いはこのように言い直すことができる。それゆえ、例えばマックス・プラックの論文に登場する子供が発するような、「どうしていつも火曜日の前に月曜日がくるの?」という問いはあらかじめ排除される [Black, 1956: 49]。わたくしたちは、先行事象が「原因」と呼ばれる理由を求めているわけではない。

またわたくしは、どんな事象もそれに先行する事象によって起こされたのであり、それに後続する事象によって起こされたのではないと「考える」のはなぜなのかと問うのである。それゆえ、通常わたくしたちは或る事象がそれに後続する事象によって起こされたとは言わないし考えないのだと言ってよい。すると、これまで見てきたように逆阿きの因果関係を提唱しようとする人々は逆向きの事例を示そうとしてきた。怪しげな部族の風習,タイム・トラベル,舌打ちと封筒の中身,時計のベルと起床,ファインマンの逆行電子,そしてシナプスヘの刺激と基本行為など。これらの中には明白に誤った事例もある。例えば、シナプスヘの刺激と基本行為の事例は明白な誤りであろう。これを提示したフォン・ヴリクトによると、

基本行為の成果の必要条件ないし十分条件は、その行為に先行し、筋肉活動を規制する神経の出来事(神経過程)であろう。この神経の出来事は、私がそれらを引き起こすことによって、「為し」うるようなものではない。それにもかかわらず、私が甚本行為を遂行することによって、神経の出来事を生ぜしめることができる。ところが、基本行為によって生ぜしめられるもの、つまり神経の出来事は、その行為の直前に生じるのである。

[von Wright, 1984: 99]

と言われてはいるが、これはその行為を遂行「しようとすること」によって神経の出来事(シナプスヘの刺激)が「遮断 screening-off」されることから不適切だと言えよう。ここで注意しなければならないのは、逆向きの因果関係を禅入する文脈がことごとくそうした事例を「説明する」ような文脈であるということだ。それゆえダメットやホーウィッチからすれば、後続事象によって先行事象を「説明する」ような事例があれば、逆向きの因果関係を提示したことになるし、また実際に逆向きの因果関係を採用しなければ説明のつかない事例があるというわけである。しかしながらこれは先に述べたとおり、後続事象によって先行事象を説明するような規則性があるからといって、その規則性を逆向きであれ斜向かいであれ「因果関係」と呼ばねばならない共通の特徴が何も明示されていない以上は、どんな事象もそれに先行する事象によって「起こされた」のであり、それに後続する事象によって「起こされたのではない」と考えるのはなぜなのかという問いに全く答えてはいないと思われる。つまり後続事象で説明できるという事実は何の答えにもならないのである。

「先行事象によって後続事象が起こされる」と考えることは、つまるところ、

ということを意味している。なるほど時間の因果説という強力な対抗理諭が立てられうるにせよ、ここでは考慮しない。もし因果関係によって時間上の関係を基礎づけるとするならば、因果関係の向きが時間上の向きを基礎づけることになるのだが、これはひとまず理解不可能であると言ってよいだろう。さて、ダメットは I ~ K が一貫した世界観に基づいていなければならないと主張した。それゆえ、もし出し抜き論法によって J における未来の事象が操作可能であるとするならば、そこには現在の事象(それは未来の事象が操作される時点では過去の事象である)が決定されているにもかかわらず未来の事象(それは未来の事象が操作される時点では現在の事象である)は決定されていないという不整合な世界観が仮定されることになると論じたのであった。しかし、この批判は逆向き因果関係を支持するような批判ではないし、ましてや「先行事象によって後続事象が起こされると考える」ことに対する批判にもなっていない。確かに、「現在の或る事象によって未来の或る事象が引き起こされる」ということと「或る事象を現在わざわざ引き起こすことによって未来の或る事象を引き起こさせる」ということは別である。しかしながらこれら二つの区別が実質的には何の解決にもならないということも確かなのである。それゆえ逆向きの因果関係を主張するならば、本拙論で考えている問いに沿う限り、

と考えることが可能だというべき根拠を示す必要がある。そして結局のところ、影響とか作用とか変化とかいった諸概念が(限定された物理的系においてであろうと)時間の向きを前提している限り、現在から過去へ向く時間の向きといった概念は因果関係の観念、それゆえわたくしたちの観念にとって不整合であると思う。仮に異なる物理的系における時間の向きを考えたとしても(例えばタイム・トラベルをしている人の時間系)、その人はわたくしたちの時間系をまさに逆行してタイム・トラベルをしているわけではなく、その人の時間系においてはまさに現在(いま)から未来(あと)へと固有な時間を経ているのである。ダメットが挙げた、地面から枝へ飛び上がるリンゴの事例にしても、リンゴはわたくしたち観察者の時間系において飛び上がっているわけではないのである。それゆえリンゴの挙動を時間上の逆行と考えることはできない。

すると、(I ∧ J ∧ K ∧ ¬L ∧ ¬M ∧ ¬N)を真として肯定するためにわざわざ出し抜き論法を用いる必要はなくなる。飽くまでもわたくしの時間系においては、逆であれ裏であれそうした事例さえも(不思議な光景ではあるが)通常の時間の流れに沿うのである。ならば(¬L ∧ ¬M ∧ ¬N)を真として肯定するために、4. 節でみた G と H の一貫性は必要だろうか。4. 節において、わたくしは必要でないと論じた。それどころか G や H をそもそも前提する必要すらないと論じたのである。「過去の事象は決定されている」という主張は、「過去の事象は起きたか起きなかったかである」という主張でもあろう。既に起きてしまった事象を「起きなかったように影響を及ぼす」ことなど出来はしないのである。過去の事象が「決定されている」とは、自然法則やその事象に影響を及ぼすことが出来た更に過去の人の意志によって、起きたがままに起こされたりあるいは意閃して引き起こされたのだということを意味する。だから過去の事象が決定されているということを、現在のわたくしたちが操作しえないという意味にとってもよい。しかしそこには、その事象について操作可能であったのは更に過去の人だけであるという意味で非対称性が既に入り込んでいて、G や H について何を言おうとそれらは I ~ K を前提しており、そして I ~ K が前提しているのはわたくしたちの時間系における時間の向きなのである。

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参照文献

Black, Max

1956

“Why Cannot an Effect Precede Its Cause?” Analysis, Vol.16, No.3 (January 1956), pp.49-58.

Dummett, Michael A. E.

1986

『真理という謎』, 藤田晋吾/訳, 東京: 勁草書房, 1986.

Flew, Antony G. N.

1954

“Can an Effect Precede Its Cause?” Proceedings of the Aristotelian Society, Supplementary Volume 28 (1964), pp.45-62.

Horwich, Paul

1992

『時間に向きはあるか』, 丹治信春/訳, 東京: 丸善, 1992.

von Wright, Georg Henrik

1984

『説明と理解』, 丸山高司、木岡伸夫/訳, 東京: 産業図書, 1984.

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