死を恐れるということ

河本孝之(KAWAMOTO Takayuki)

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初出: 2017-10-20,
改訂: 2018-01-10, 2018-02-03, 2018-03-06, 2018-03-10, 2018-03-12, 2018-03-18, 2018-04-22, 2018-04-29, 2018-05-06, 2018-05-16, 2018-05-17, 2018-05-19, 2018-06-12, 2018-06-30, 2018-07-07, 2018-07-13, 2018-07-14, 2018-08-14, 2018-09-12, 2018-09-15,
最終更新: 2020-01-09.

はじめに

以下の内容でお分かりのとおり、このページで僕は学術論文を書くことは目的としていないので、既に分子生物学なり死生学なり精神医学で色々な成果があるのは分かっていても、まずは僕自身が何をどう考えたかを一つのケースとして公表することとした。これが、誰かの役に立つかどうかは分からないし、万一役に立ったとしても何らかの精神状態の一例として参照されるだけかもしれないが、少なくとも僕自身の考察として公表することにも何ほどかの意義はあろうと思いたい。

もともと本稿は、死と生について考えてみようと思い当たり、雑文の寄せ集めとして書き始めた文章ではあったが、途中で前野隆司さんの『霊魂や脳科学から解明する 人はなぜ「死ぬのが怖い」のか』を読んだことがきっかけとなり、特に thanatophobia(本稿で説明している意味での)だけを取り上げて論じることにした。なお、本稿は今後も追記したり推敲を重ねていく予定なので、ローマ数字で節を表してはいるが、既存の文章に新しく文章を追加する可能性があるため、II と III の間に新しい III が入り、それまでの III が IV に、そしてそれ以降の節を順番に改めてゆくかもしれないので、このローマ数字が特定の議論と対応関係をもつという想定で本稿を扱わないよう、ご承知おき願いたい。

memento mori Wikimedia Commons contributors, "File:Memento Mori (8577784015).jpg," Wikimedia Commons, the free media repository, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?title=File:Memento_Mori_(8577784015).jpg&oldid=233775388 (accessed March 7, 2018).

I

人々は、自分には心的イメージ、苦痛、知覚体験、およびその他もろもろが備わっていて、しかも<こうした>事実――人々が自分の信念を表明するときに、みずから信念を通じて報告する当のことがらをめぐる諸事実――は、心をめぐるどんな科学理論でも当然説明してくれるはずの現象だと、明らかに信じている。そこで私たちは、こうした現象に関する自分のデータをまとめて、理論家のフィクションに、つまりはヘテロ現象学的世界の「指向的対象」に仕立て上げる。そしてこのとき、このようにして描き出された品目は、はたして脳のなかの――さらに言えば、魂のなかの――現実の対象、出来事、状態として、実在しているのかどうかという問いが、それ自体探究されるべき一つの経験的問題となるのである。もしもこれだといった具体的候補の実態があらわになれば、私たちはそれらを、長いこと求めてきた、被験者の言葉に当たるものと認めることができる。もしもあらわにならなければ、なぜそうした品目が被験者には実在するように思われたのかを、あらためて説明することが必要になる。

[Dennett,2002:124f.]

僕は、何かをきっかけとして死を恐れることもあるが、実はそれは錯覚かもしれないと漠然と感じるときがある。どちらにせよ、僕にとっては蔑ろにできないことではあるから、そろそろ少しずつでも論考としてまとめておきたい*1。とは言え、ターミナル・ケアに携わる人々や終末期の医療を受けている当事者を始めとして切実な状況に置かれている人々にとっては、どういう意味合いにせよ死を「課題」などと余裕をもって取り扱う心境にはなれないかもしれない。もちろん、それぞれの人が置かれている状況を無視して気楽な思弁を展開することが本稿の目的なのではない。本稿は、あくまでも(いまこうして書いている現状では、ひとまず死に瀕してはいない)僕にとっての考察であり、そうである他はないとだけ注釈しておく*2

*1死への恐れと、それが錯覚かもしれないという感じ(念のため書いておくが、ここで「錯覚」と書いているのは、死への恐れが錯覚によるものではないかという意味であって、死すべき運命にあることを錯覚だと思っているという意味ではない。それこそ明白な錯覚だろう)の双方について、僕が興味を惹かれる脈絡や理由は、それぞれ違っているかもしれない。また、それぞれそう感じる生理的な原因も違っているかもしれない。更には、それぞれそう感じるということついて興味をもつ生理的な原因も異なる可能性はある。しかし、そうした違いがあろうとなかろうと、僕にとっては自分なりに幾らかでも考えておきたい課題であることに変わりはない。

*2しばしば、誰かの参考になるかもしれないという期待を込めて、このような文書を公にする理由を書く場合はあるが、妄りに公表された文書は他人の思考を不当に混乱させる可能性もある。僕は、思索の成果を公表すること自体に何か無条件の効用があるなどと考えてはいない。したがって、一定の責任として、このような文書は何度も繰り返して(たぶん死ぬまで)推敲しなくてはならないと思うし、何らかの正当な理由があって僕が納得すれば、本稿を取り下げて公表を止めるべきだとも思う。

いずれにせよ、死について考え始めると色々な問いが出てくるものであり、このように自分自身で恐れたり不安を覚える死とは何であろうか、そして死を恐れるということはどういうことなのだろうかという問いに、僕は強い関心を持ち続けている。なぜ僕を含めて多くの人々は死を恐れたり、可能であれば幾らでも先送りにしたいと望むのだろうか。他の人々は僕と同じように死を恐れたり不安に感じるのだろうか。それとも人によって恐れ方や不安にも色々あるのだろうか。逆に、「もうそろそろ死んでもいい」と気楽に言っているように見える人々の心境とはどういうものだろうか。それは、死を恐れる人々が手本にするべき態度なのか、それとも一つの錯乱を示す症例と見做して無視した方がよいのだろうか*3。しかしながら、そういう判断はそもそも客観的な指標によるべきなのだろうか。もし、錯乱だろうと正当だろうと当人にとってさえ納得できればよいという基準が全てであれば、他人がどう言おうと自分で納得して心穏やかでいられたら十分であり、人には、生存権があるのと同様に、たとえ錯乱していようとそのまま死んで構わないという意味での権利があるのではないか。また、僕が錯乱していようといまいと死について何かを感じている状況について、何らかの論証や説明を読んだり、自ら想像したり推論したり、あるいは誰かから説得してもらえば、それがどういう意味にせよ「なんとかなる」ことになるのだろうか。つまり、このような思索の目的とか最終地点を考えられるのだろうか。このような論考で、僕は死への恐れを含む何かについて「大したことない」などと安心したり達観したいのか、それとも死への恐れが増幅される可能性を承知しつつ何かを弁えたり心得たいと思っているのだろうか。そもそも、死とは、それがどういうことなのか当人が正確に知っているからこそ怖いものなのか、あるいは正確に知らないからこそ怖いものなのか。そして、このような場合に僕が感じているのは恐れなのか、不安なのか、それとも別の何か特殊な心境なのだろうか*4

*3世の中には、死は恐れるに及ばないという趣旨の本がたくさんあって、何もスピリチュアル・カウンセリングのヒーラーや宗教家や小説家だけが書いているわけではなく、生命科学の研究者や哲学者も死は怖くないという趣旨の文章を書いている。当人がそうして納得していれば、それはそれで結構なことかもしれないが、当人にとっての結論をいきなり書名で見せられたところで仕方がない。誰しも人は弱いのだし、多くの人がたぶん(僕と同じようにかどうかはともかく)死について恐れや不安を感じているだろう。しかるに、怖くないという何か都合のよい理由があれば、それにしがみつきたくなるのは平たく言って「人情」というものである。そして、世の中の数多くのカルトや詐欺師というものは(自分が他人を騙していることに無自覚な人々も含めて)、そういう人の弱さに付け込んでしまう。しかし、いくらそんなものを「読書」したところで納得できるわけがないだろうと思える根拠は、死を恐れるには及ばないと自分自身や人を納得させる決定版とも言うべき論証が人類史に存在しないというトリヴィアルな事実を指摘するだけで十分だろう。

*4僕は、本稿の全体を通じて、僕自身の考察において必要とされるまでは「人が生きたり死ぬということの意味」について問うことを慎重に禁じたり避けるという方針を採っている。このような話題について考察する際に多くの人が陥りがちな(と僕には思える)誤りは、安易に「~の意味」を想定して、例えば「僕が死ぬということには、どういう意味があるのか」という具合に議論を展開してしまうことである。しかし、これは僕が死ぬということについて所定の範囲で考えたり議論するという枠組みを簡単に外してしまう呪文のようなものであり、もちろん外すことに一定の価値や正当性はあるが、それは飽くまでも一定の条件が満たされた末に他の枠組みが必要だと判断できる限りにおいてである。そして、実際には既存の枠組みだけでなく他の枠組みも参照して考えるという条件を指定できるなら、意味など持ち出さなくても、今度は生化学として、あるいは社会学の観点から死を考えるという具合に進むだけでよい筈なのである。そのような枠組みを理解していないか、既存の(自分が知っている範囲の)枠組みに飽き足らなければ、そこで必要なことは、第一に何が不足しているかを特定することである。つまり、考察を進めて論点を更に展開したり、あるいは逆に自分がそう考える根拠を定めるべきであればそうするだけでよいのであって、「意味」という何か不特定の目標みたいなものがどこかにあると仮定する必要はない。そして第二に、不足していることが或るていどは特定できたのであれば、端的に言って知らないことは学ぶべきである。手持ちの知識や情報だけを組み合わせているうちに、まるでジグソーパズルのごとく「意味」という絵柄が最後に確定し、もし自分が生きているうちに絵柄が確定すれば、その絵柄について自分自身が十分に疑問の余地なく納得できる筈だなどという仮定は、哲学する者として完全に間違っていると思う。

「人生の意味」を考えることによって死についても考えることになるという、たいていは安っぽいレトリックの実例なら幾らでも見つかる [Howard, 2018]。そして、それらを自分自身の死とは無関係に考えられる「ただの話題」であるかのように実体化してしまう思考(後述で「自己欺瞞」と呼ぶもの)は、確かにその「話題」を考えている架空のステージで決着がつけば万々歳かもしれないが、それはまるで受験生が勉強から逃避するためにプラモデル作りに没頭するようなものである。

さて、次節からの議論を始めるに当たって、あらかじめ注意事項を述べておきたい。まず、本稿が改訂を続けたとしても全く相手にしない議論というものがある。例えば、死について凡人が往来で交わす議論のうち、これまでそのようなことを口にしたり耳にした人が、建設的な成果を自分自身のプライベートな日記や手紙や告白でも報告できた試しなど一つとしてない、いわゆる早熟自慢だ。この手のたわごとは、要するに学歴とか身分あるいは「哲学的な才能」のような観念に関するコンプレックスから口にされることが多く、「自分が死んでしまうのが怖いなんて話、そんなのは中学で卒業だろう」などと軽口を言うのは、たいていホストとか IT オタクとかネトウヨとか成金の大学生、あるいは何かを議論している場でのヘゲモニーの獲得に必死な人、要するに何の資格も証明もなしに「マウンティング」と呼ばれるレトリックを弄するような人である。僕は、本来はこの手の無意味な議論を本稿のような(もちろん「高尚」だと言いたいわけではないが、少なくともネット上でのプレゼンスや駆け引きなどという下らない目的や動機ゆえに考えたり書いているわけではない)論説でわざわざ取り上げるほど暇ではないが、それなりに多くの人が同じような話を聞かされているのは事実であり、しかも哲学や倫理学のプロパーが表立って批評したことが殆どないために、市井の人々の中で声が大きいというだけの無根拠な自信に溢れた自己啓発セミナー講師や新興宗教の勧誘員やマルチ商法の企業経営者みたいな連中と同類のクズどもが、レトリックだけで多くの人々を説き伏せてしまっていると思える。

もちろん、死や死への恐れというテーマは誰もが関心をもちうるものである。したがって、本当に中学生の頃に何かを考えたという人物がいても驚くには当たらないが、やはり謬見や思い込みを避けるには一定の努力が必要なのであって、言ってみれば中学生(しかも、その中学時代に世界中の大学や研究機関からオファーを受けるような成果を挙げたわけでもない凡庸な子供)が悩み終わったていどの地点など、はっきり言えば誰でも後から追いつき追い越せるような、教科書で言えば「単元のまとめ (1)」ていどの成果でしかなく、その程度で「既に考えた」などと思い込んだり言うこと自体が(かつて経験したことがあるというだけで何かの資格になると思い込む、凡人や無能に特有の)明白な自己欺瞞なのである。そして、その手の早熟自慢は、誰にも証明できない「死について考え始めた年齢」というものを参照するのだが、そのこと自体に議論を正当化するような根拠はない。死について幼児期に考えていようと、あるいは老人ホームに入居して『超訳ニーチェ』を読んでから考え始めようと、愚かな議論を弁解することはできないし、一定の説得力がある考察をしていたとしても、それを更に確証するわけでもないからだ。

また同じ趣旨から言って、子供じみた早熟自慢と同じくらい馬鹿げたレトリックである老境自慢も、だいたいにおいて生産性のある議論を拒否するような人間が口にするものなので、これも(もちろん僕自身も)警戒するべきであろう。確かに、物事(自分がもつ観念や手元にある書物の文言や遠い過去の出来事の記憶など)を理解するということには一定の経験、あるいは一定の年数なり分量の経験が必要とされる場合もあろう。したがって、高齢者になったからこそ分かることや、自分が仕事を始めてやっと分かったことなど、それまでの思い込みや浅い理解を刷新しなくてはならなくなる場合もあると思う。しかし他方で、歳をとれば誰でも賢くなるといった通俗的な理解がそれ自体として浅薄であることも事実なのである。高齢者が何から何まであらゆることがらに経験を積んでいるなどということは(ヒトは誰であれ有限の寿命と能力しかないのだから)原理的にありえない。したがって、経験したからこそ分かったことだと当人が言う説明に耳を傾けるのは良いが、それはあくまでも経験に即した説明や結論であってみれば、やはり一つの事例として扱うべきである。

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II

カイウスは、実際、死ぬべきものである。したがって、彼が死ぬるのに不思議はない。しかし、自分にとっては、無数の感情と思念をもったワーニャにとっては、イワン・イリッチにとっては――ぜんぜん別問題である。自分が死ななければならぬというようなことは、しょせんあり得べきはずがない。それはあまりに恐ろしいことである。

[Tolstoy,1973:61f.]

まず僕に言えることは、僕は僕自身が死ぬのは怖いと感じるということだけだ。僕は、他人が死について(それが他人自身の死であれ、他人が感じる僕の死であれ)どう感じるのかを、個々の人物に成り代わって考えたり表現できるとは思えないし、そこからの外挿と思われる一般的な話についても、僕が何か答えられるとは思えない。確かに、他人の死を伝えられたり自分で目の当たりにしたとき、僕は悲しいとか惨いと感じる。しかし、それは飽くまでも誰か他人が亡くなったという事実について、当人からすれば別人である僕が事後に感じることなのであって、他人にとっての終末を別人である僕が代行することは不可能なのだから、他人の代わりに当人にとって死ぬこととは何かを感じたり考えることと、他人が当人として感じたり考えることが同じだとは言えないだろう*5。更には、他人にとってであれ自分にとってであれ、或る人が亡くなるということについて、死んでしまった当人が亡くなった本人として何かを感じたり考え得る可能性もない。そのような可能性を想像してみても、しょせんは空想的な条件を仮定し、論理的に可能だというだけで言葉と概念を弄ぶことと同じである。あるいは、それは「あの世でも自分の死を恐れたりするのかどうか」という錯乱した想像(僕にはそうとしか思えない)と同じ矛盾である*6

*5或る人物にとって何かを感じることと、他人にとって何かを感じることの同一性は、仮に第三者の観察から何かを言えたとしても、お互いに相手の立場から判断しうるわけでもないという困難があるため、どのような条件が立てられようと「『私は』そうは思わない」という批判に打ち勝つことは難しい。もちろん、しかるべき意味や条件における両者の同一性を、論理的に不可能だと否定したいわけではない。コウモリどころか、同じ人間にあって誰それという他人であることはどういうことなのかすら、僕たちはどのように理解すればいいのか分かっていない。しかし、だからといって原理的に理解不能だと言い得る根拠もないであろう。

*6ましてや特定の誰とも関係のない一般的な死を恐れるということがどういうことなのかを理解するのは困難だし、「死なるもの全般を恐れる(to fear for the deaths)」という表現は、僕にはカテゴリーミステイクとしか思えないのである。もちろん、自分が死を概念として思考の対象としているという状況とか、自分が死について何か一般的な内容を考えている事実から、何かを恐れる感情が引き起こされるのは確かだろう。しかし、その場合でも、考えていることが自分自身にも当てはまる筈だという仮定を伴うからこそ怖いと感じるのである。ましてや僕自身どころか誰か他人の死でもなく、更には生きている何かが死ぬという事実ですらない、死という概念を恐れることは意味を為していない。

そこで、僕が僕自身の死を恐れるという意味だけに限定して “thanatophobia” という言葉を採用しておこう(もちろん本来は、臨床死生学や発達心理学ではもっと適用範囲が広い言葉である)。最初に指摘できることは、僕は常に thanatophobia を感じているわけでもなく、thanatophobia という感じ方には或る種の強度や深刻さという違いがあるということだ。もちろん、いつでも thanatophobia を感じていては日常生活や仕事など手に付かなくなるし、落ち着いて眠ることすらできなくなるかもしれないが、いまのところそういう深刻な状態には至っていない。具体的には、小説やテレビで生き物や人が死ぬ場面を観たり、生きているものの死という条件を置いて初めて語りうるような話題を口にしているとき、そして本稿のような論考を進めているときには、thanatophobia を感じることはある。しかし、食材(それは、たいてい死体である)についてありふれた会話ができなくなるとか、死に関する論考を進められなくなるほどゾッとして怖くなったり憂鬱になるとか、そういったことはない。

thanatophobia について次に指摘できるのは、それが必ず自分自身が実際に死ぬよりも前に起こる不安や恐れだということだ。つまり、まだ死んでいない当人であるからこそ感じたり思うことなのである。何をきっかけとしてこのような恐れや不安を感じるようになるのか定かではないし、thanatophobia を感じるケースによって原因や様態は違うのかもしれないが、少なくとも僕自身が死んでしまうよりも前にしか起きないことだという点は動かし難い。逆に、thanatophobia を感じるということは、僕がまだ死んでいないと自分自身で思える一つの証拠だとも言える。もちろん分析哲学ではお馴染みの BIV (brain in a vat) の議論など知らなくても、自分自身がまだ死んでいないと思えるということが錯覚である可能性は残ると考える人はいよう。しかし、少なくともいまの僕は自分自身の思うところが錯覚だとは考えられないし、そういう錯覚を作り出す巧妙な仕掛けがあったり、もしくは『省察』に登場する狡猾な悪魔がいるなら、僕がそういう仕組みや悪魔に気づけないのは、それらの巧妙さや狡猾さゆえに当然だろう。しかし、少なくとも僕の思う範囲で何か重大な不整合が生じるわけでもない*7

*7ここで、巧妙あるいは狡猾に仕組まれた状況設定 (set-up) さえあれば、既に死んでしまっている人が主観としてはいまだに生きていると感じるかもしれないと仮定してみよう。そして、その当人が主観において認知すること全てが、そういう状況設定の可能性についての真偽に関わらず同じままで維持できるなら、高校の教科書でもお馴染みの『荘子』に出てくる「不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与」というフレーズに underdetermination を認めざるを得ないのと同じく、単に僕自身が thanatophobia を感じるというだけでは、その「僕自身」がスーパーコンピュータ上に構成されている何らかのシステムが出力しているデータとシステムそのものから成る状況のことであるかどうかを決定するには足りないとも言い得る。なんとなれば、僕が何についてどう思ってみても、「そう作られている」と言われたら、それに対して「僕が思うこと」を証拠にして反論しても堂々巡りになるだけだからだ。

ところで、これは由々しきことだろうか。もちろん、このような議論によって「どう考えてもよい」などと結論づけることは僕の意図に反しているし、そもそも作り物の知能だったとしても僕自身が納得できない。なぜなら、thanatophobia が本当にスーパーコンピュータ上で実行される一つの処理、もしくは何らかの処理を実行した際の副作用であろうと、それが分かったところで thanatophobiaスーパーコンピュータ上で起きなくなるわけではないからだ(もし、実行すれば二度と thanatophobia が起きなくなるような、そんな歯止めになる特別なコマンドでもあるなら教えてもらいたいくらいだ。いや、thanatophobia は起きなくなる方が「良いこと」なのかどうかすら、まだ分からないが)。

更に付け加えておくと、このような議論もまた、僕が支持している “cognitive closure” の概念を分析するための手掛かりになると思う。もし何らかの巧妙な仕掛けによって心のはたらきや意識が成り立ちうるとかもたらされうるのであれば、その「によって」という仕組みやプロセスを物理的に記述することで hard problem が解決すると考える人もいよう。しかし、thanatophobia が神経細胞のこれこれの働きで起きる現象だと言われたところで、それが神経細胞の働きそのものなのか、神経細胞の働きから起きる何かなのか、それともそうして起きたところの何かを主観的に捉えたときの何かなのかは、その説明だけでは分からない。そして、hard problem が “hard” である理由とは、まさしく「何が答えになるのか」という条件が分からないことにあり、hard problem に対する一つの答えと見做される cognitive closure のポイントとは、その条件を特定したり固定できないかもしれないということにある。

そして、既に十分に述べてはいるが、thanatophobia は僕自身の死について僕が恐れるということなので、thanatophobia について考えるということは、thanatophobia の客観的な意味について考えたり、誰か他人の死や他人にとっての thanatophobia を想像したり考えることではない。これをはっきりさせるために、ここで僕がいま論考している際の一人称的な観点と、それ以外の全ての観点とを区別して指示するために “FPV” 及び “RPV”(the first-person view vs. remote-person view, 遠隔操作の視点を表す用語として、それぞれ “FPV,” “RPV” と略称される)という言葉を導入しておこう。FPV は、そのときの認知内容を処理する観点であるから、これを経て文章としてここに何かが書かれているときには、既にそれを書いている観点は FPV ではなく、自分自身がどう思ったり感じたのかという記憶について、RPV として記録したり説明していることになる。あるいは、FPV において感じたり思ったことによって惹き起こされ、ここで何かを書いているまさにそのときに FPV において認知している、別の感情や感想や印象を記録したり説明していることになる。どういう意味合いにせよ、そうして作られた文章は、他人が読むにせよ自ら読むにせよ既に RPV において理解するしかない。つまり “FPV” とは一人称的な観点という概念を指しているわけではなく、僕が或るときに何事かを感じたり恐れたり楽しがるという具体的な状況を指している*8。そして、まず本稿で僕が問うているのは、FPV で僕自身が納得できる thanatophobia の説明がありうるかどうかなのである。概念の解明としてどれほど筋が通っていようと、FPV で僕自身が納得できないままであれば、それこそ僕にとって死よりも難しい謎が残ってしまう(これから議論していくが、死そのものは実に簡単なことでしかなく、哲学者が議論したり考察して説明したり定義するようなものではない)。そして、それが解明の間違いによるわけではなく、僕自身の愚かさや不勉強によるのであれば、そういう愚かさや不勉強を解消したり乗り越えることも、僕が生きる目的の一つになりうる*9

*8ここで、個々の場面に FPV で僕が感じたり思うことと、それを RPV で自ら理解したり解釈したり思い出したり記述するということには、どういう違いや関係があるのだろうか。

まず、FPV で僕が感じる thanatophobia と、thanatophobia の概念(あるいは観念だろうか)とのあいだには、トークンとタイプとの対比や、特殊的なものごとと一般的なものごととの対比が考えられる。もちろん、個々に FPV で惹き起こされる thanatophobia が「thanatophobia というもの」として一般化しえない独特の恐れであれば、僕は thanatophobia を感じるたびに thanatophobia1, thanatophobia2, thanatophobia3, ... などと記述しなければならなくなる。しかし、そもそも、それらがどういう添付数字を付けていようとも thanatophobia のバリエーションであるとどうしてわかるのか。それは、既にこういう対比について考えていること自体が RPV の観点で考えたり語っていることになるのだという事実によって説明することができる。もちろん、僕は個々の場面に FPV で thanatophobia を感じる。しかし、それが thanatophobiax であるのか、それとも別の何か特殊な、つまり今まで感じてきた一連の thanatophobia1~n とは区別しなければならない独特の感情や感覚であるのかは、僕にも正確なところは分からないのである。そもそも分かっているなら、本稿のような論考は不要であろう。ひとまず、僕が “thanatophobia” と表記している際に僕が FPV において念頭に置いていた感情や印象あるいは思考が、トークンとしてそれぞれ異なるのは当然としても、それらが何らかの基本的な特徴によって等しく “thanatophobia” と書かれるべきことがらであるかどうか、あるいは等しく “thanatophobia” だと考えられてしかるべきことがらであるかは、僕自身にとってすら保証の限りではないとだけ保留しておきたい。

私たちが被験者に向かって、あなたのいまの言明は、あなたがいま体験していたことがらの究極の真実を十分尽くしているかどうかと尋ねたところで、私たち部外者にくらべて被験者の方が優れた立場にいるわけでもないのである。

[Dennett,2002:293]

*9強調しておくが、本稿のような論考を経て thanatophobia について僕が何かを納得したからといって、そこから直ちに死ぬことを諦めるとか割り切るという結論は出てこないであろう。

次に、thanatophobia を FPV において僕が確実に感じられるのは、もちろん(上記の定義から言っても)僕自身の死についてのみである。thanatophobia が、いまこうして FPV で感じたり考えたり思いを巡らせている僕にとって(それが、可能なら薬などで消し去るべき何かであれ、あるいは一定の正当な理由があって生じている何かであれ)特定の説明や推論で納得できるためには、もちろん「僕自身」とか「僕の」という表現で意味する何かが FPV で僕にとって明瞭に理解できなくてはならない。そこで、「僕自身にとって」という表現について分かるのは、僕自身というのは端的に死を恐れている当の何か、あるいは主体や主観などと呼ばれてきた何かだろう。

もちろん、ここから即座に「死を恐れるという感情をもつような何かであるからこそ、我々は死を恐れるのだ」とか、“Timeo, ergo sum”(我恐レル、故ニ我アリ)と言ってみたところで、このような表現は見かけの再帰的な表現から受ける複雑な印象で何か深遠な意味をもっているかのように人を誤解させることはできるが、厳密に思考する者には殆ど何の効力もない。差し当たっては、FPV で感じたり納得するという段階で済ませておけば、それが何らかの(もちろん錯誤はありうるとしても)自意識や主体によるのかどうかを決定しないままにしておいてもよい*10。そう考えると、thanatophobia を FPV で感じるという経験だけでなく、そのことを「意味合い」として自分自身で RPV で振り返りながら納得するということも、全て僕の認知能力の限界内で僕が RPV で理解したり納得するという経験を目的にしているということだ。これは、僕自身が納得できなければ仕方がないという主観的なスタンスの話をしているだけではなく、恐らくヒトの認知なり認識について客観的に、つまりは一般論として当てはまるような話でもあろう。なぜなら、いまのところ恐らく我々の誰一人として、何かを理解したり納得するときに自分自身の脳で起きている現象を自分で観察しつつ「ああ、これがしかじかについて僕が『納得』しているということだ」と指で示せるわけではないからだ。もっとはっきり言えば、仮に意識なるものが脳の何らかの物理的な現象なり作用であるとしても、僕らはそれを痛みや空腹のように自分の脳で起きている神経細胞の反応としては自覚しないのである。thanatophobia が脳で起きる何らかの化学反応(あるいはその結果)“X” だとしても、thanatophobia を FPV でまさに感じているということが X を感じていることと同じであるとは言えない(それに、いまのところ僕には X という化学反応を感じたりはできないし、それが FPV としてどういうことなのかも、たぶん数億個単位の神経細胞の相互作用かもしれないが、ともかく FPV としてどう受け取るかは想像不能である)。我々は、自分の脳にある膨大な数の神経細胞の働きを自分の脳において、そのまま感じるということはできない。それはそのはずで、ちょうど、或るサーバにインストールされている OS が、仮想 OS ではない、まさしくその OS 自体をアプリケーションのように扱えないのと同じようなものだろう。

*10ここでこのような保留を置くのは、少なくとも僕に意識があるのかどうかという議論をしなくても thanatophobia について考察できると思うからだ。もちろん、だからといって意識に関する何か特定の仮説を実は隠蔽しているにもかかわらず、thanatophobia について何か納得できる結論が欲しいと思考を短絡するための言い訳をしたいわけではない。僕は自分には意識が「ある」と考えているが、それは従来の多くの人々が抱いているような、何か自律していて脳の中で僕を操作している主体、つまりは特撮ヒーローものの巨大メカの頭部コクピットに搭乗している何とか戦隊のようなものではなく、脳で起きているさまざまな反応の副作用が交錯している「状況」ではないかと思っている(したがって、どこか特定の部位や機能やその特定の結果が意識なのではなく、意識とは脳で起きている色々な生化学反応の結果が組み合わさること、あるいはそれらの副作用として、どこか指し示せるところにあるのではなく、成立しているのだと考えている)。

したがって、僕は FPV として納得するということ(そして可能であれば、それが RPV の観点から評価して妄想に類するような錯乱による思い込みではないこと)を目標としているが、それは意識について何かが解明されるということを必要条件や十分条件としているわけではないと考えている。たとえ意識が幻想であっても thanatophobia が FPV として起きるのは事実だし、意識が僕の考えるような(既に誰かが同じ見解を主張しているなら、別に独自性や新規性を言い立てる意図はないので、「僕が支持する」と言い換えてもよい)脳神経系で起きるプロセスの副作用からなる、いわば中心や主体のない composition にすぎないとしても、だからといって thanatophobia が僕の FPV において起きなくなるよう、何らかの薬理的な「処置」をすることが望ましいかどうかも分からない。

なお、恐らく気にされる専門家のために注釈しておくと、僕はデネットの「ヘテロ現象学」というアプローチを否定するつもりはないが、最終の判断は FPV において僕自身が納得するかどうかにかかっていると思うので、RPV つまり三人称の観点において解釈され定式化されたものを天下り式に受け取るだけで十分であるかのようなアプローチでは不十分だと言いたい。無論、そこには常に自己欺瞞が生じうる。それゆえ三人称的なアプローチを FPV での経験や報告に対して適正に運用しながら維持しなくてはならないと思うのだが、このようなアプローチは得てして逆の極端、つまり FPV を軽視して thanatophobia を他人事のように気軽に語ったり考察してしまう、学部のゼミでケーススタディを議論しているようなスタンスに陥る危険性もあると言いたい。どちらのパースペクティブも尊重するべきだとは思うが、自分自身の生死に関わる事案ついては、自分自身で責任を負えること(この場合、それはどういうことだろうか)が望ましいと信じる。

なお、「ヘテロ現象学」というキーワードについては、どういうわけか「ヘテロ現象学とは、意識内容に関する被験者の発話報告(および意識に関わる非言語的行動)を手がかりにして、彼の意識内容を一つのヘテロ現象学的世界なるものとして理解するという方法である」[鈴木,2001:114] などという、意味不明というか同語反復のような貧弱な説明をネットでも頻繁に見かけるのだけれど、僕の理解では意識「についての」観察報告という挙動それ自体が三人称的考察の対象であり、科学の対象として検討されなくてはいけないというポリシーを表していると思う。そういう学問があるわけでもないし、名前が誤解を招きやすいけれども現象学の一派でもない(そもそも「現象学」という語はフッサールを始祖とする意味合いだけではなく、ヘーゲルが使った脈絡においても頻繁に使われるし、“phenomenology” の用法としては「現象論」や「現象主義的アプローチ」の代用として使われることも多々ある)。

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III

加速度をもって飛ぶように落ちてゆく石の象が、彼の心にしっかりと食い入った。いや増しに増してゆく苦痛の連続である生命は、しだいしだいに速力を増して、最後の点へ――最も恐ろしい苦痛へと落ちてゆく。『おれは落ちているのだ……』彼は思わずびくりとして身を動かして、抵抗しようと試みた。しかし、抵抗することができないのは、もはや彼自身にもわかっていた。

[Tolstoy,1973:93]

更に thanatophobia、つまり僕自身の死について FPV で僕が恐れるとはどういうことなのかを分析してみよう*11。さて、「死」とは何であるか。これには先人たちの膨大な思考の蓄積があって、幾つかの観点によって異なる定義や議論が可能だろう。いま暫定として僕が思うところでは、死とは、端的に言って僕の生命活動が停止することである*12thanatophobia は FPV を基準にしているが、死については FPV を基準にしていない。それは、FPV としての認知機能が働いていなくても生体としての活動が存続しているという状況も考えられるからだ。意識の定義によっては、FPV として何も認知できなくなっていても生命活動が続いているという事例、例えば植物人間と言われる状況はありうる(意識があっても周囲からは植物人間と見做される、いわゆる「閉じ込め症候群」のような状況は除く)。そこでは thanatophobia を感じるような認知活動もないので、怖いも何も感じることすらない。これを「死んだも同然」と表現することはできるかもしれないが、自分自身つまり FPV の観点からすれば、「同然」かどうかなどと比較すること自体が意味を為していない。そして、意識が戻る可能性がある場合は、少なくとも近親者から見れば決して「死んだも同然」とは思えないかもしれない。

*11ここで「僕自身の死について云々」と書いている時点で、既に RPV で思い出したり理解している様子を記述していることになる。こういう文章を書いて論考している最中は、実のところ thanatophobia を FPV としては殆ど感じないからだ。しかし、だからといって他人事だと見做しているわけでもない。

*12これは、確かに自分自身についてだけでなく、他人についても同じように成立する状況だと言える。僕にとってだけ成立し、他人にとっては別のように成立するとか、他人にとってだけ成立し、僕にとっては別のように成立すると考える根拠はない。誰にとっても同じように成立すると考えるのが妥当だ。寧ろ、誰にとっても同じように成立するという仮定があるからこそ、人は他人の死を悼み、残された親族に同情するのであろう。もし他人にとっての死は自分にとっての死とは実際にも違っているという可能性があれば(例えば、壺を買ったり、あるいはアメリカ軍の敷地に地雷を抱えて突入した或る特定の人々は何か楽園のような場所で自意識を保持できるが、他の人々は意識が消失して永遠に失われるとか)、そんな相違がどうして起きるのかという不条理について全ての人が悩むという非効率によって文化や文明は失速してしまう可能性もある。皮肉な言い方だが、思考を節約するために画一性を導入することは、それが擬制であろうと効率を高める一つの手段であり、動物としての生存や種の存続に貢献する知恵であるとも言いうる。

人によっては、死とは当人の生物としての生命活動が止まることだけではなく*13、当人が生きていた世界が当人の死んだ後も存続するという事実を意味に含めるとか、あるいは当人が生きていたという脈絡での世界が同時に消失することも死の意味に含まれると言われる。しかし FPV の観点から言えば、僕が FPV として死んだ後にも世界が存続するとか、僕が FPV という観点から経験してきた限りでの世界が同時に消失するとか、そんなことを定義したり議論していったい何になるのかという強い疑問がある。世界が客観的には存続するとか主観的には消失すると主張することによって、あるいはそれぞれを論証することによって、僕が自分自身の死について学ぶことや納得できることがありそうだと期待できるだろうか。僕には全くそうは思えない。なぜなら、客観的な世界が存続しようと主観的な世界が存続しまいと、死んでしまっている僕にとっては(「FPV において」という条件すら不要の強い意味で)どうでもよいことだからだ。それどころか、死ぬとは「どうでもよい」などと判断すること自体が不可能な状況に至ることなのである。何らかの呪術やシンギュラリティや神の御技によって、FPV として麻酔から覚めた患者みたいに再スタートを切れるという生理的な可能性があればともかく(その場合、何らかの意味での連続性は必要だろうか)、現在の科学の知見においては、それこそ昔から言い古されてきたように「死んだら終わり」でしかない。

*13これを「停止する」とか「終える」などと能動的に表現することには強い違和感がある。殆どの場合において、誰もが自らスイッチを押すように死ぬわけではないからだ。たとえ尊厳死を選んで自ら生命維持装置の電源を切るという動作が選べたとしても、死とは「死んでしまった状況」のことなのであって、まだ死んでいないうちから死んでいるなどという含意の定義を持ち出すことは、ここで扱っている議論に何か情緒的な自己欺瞞をもたらすようなニュアンスを持ち込み、thanatophobia が相対する厳粛な事実から気を逸らすものでしかないと思う。

「死んだら終わり」という主張に対する明白な反論として臨死体験(NDE)を語る人はいる。『プルーフ・オブ・ヘヴン』の著者であるエベン・アレグザンダーの話を例に採ると、この著書の大半は著者の生い立ち、あるいは NDE を解釈するための脈絡の説明に費やされているわけだが、それは当人が「そういうこと」だったのだとして自分の記憶を理解したり納得するための都合がいいお膳立てであって、我々他人が理解するための状況証拠ではない。なぜなら、それらの事実と彼自身の体験したこととが、そもそも関連するかどうかを確かめる客観的な方法(つまり他人が確かめる手立て)は存在せず、それらが関連するかどうかの正否は著者自身にしか基準がないからだ。

これは、日本で通俗的な意味合いで流布している「クオリア」に関連した、哲学とか思想とか認知科学の議論だと自称する与太話の類と同じである。正確に分析したり測定できないという、ヒトがやっていることにすぎない科学の成果に限界があるからといって、科学が対象としている宇宙や世界には限界がある(科学では突き止められない類の世界がある)と考えたり、科学は科学として分かる範囲の世界しか相手にしていないから限界があるなどと考えるのは、全くの詭弁でしかない。なぜなら、後者はただの同語反復にすぎない(仮に科学で捉えられない「世界」なるものがあるとしても、後者は「科学は科学の対象を対象としている」というトートロジーなので、何も批判される謂れはない)し、前者は証明不能なことを前提にして後者のトートロジーを批判しているだけだからだ。この事例は世界や宇宙についての詭弁だが、同じように我々自身の印象とか感情が我々にとって大切であったり否定しようのないものであるということを、通俗的なクオリア弁士たちは何か(少なくとも現行の)科学として分析不能な特別の何かであり、自分はそういうかけがえのないことを体験したり、そういうことを体験する何か特別な感受性を持っているのだと言う。しかし、理解しておくべきなのは、我々が置かれている正確な状況というのは、現代の科学においてすら理論や実験・測定方法が未整備だったり未熟なことが数多くあるということである。そして、それら科学の研究や研究成果の正確な理解や進展には、時間や人手や金がかかる。進化論が提唱されてから100年以上が経過しても、まだ人がいきなり「ヒト」という生物種として発生したとでも思い込んでいる人々が数多くいるのだ。我々自身の認知内容に関する理論や解釈や理解あるいは説明方法にしたところで、まだまだ研究や洗練の余地は幾らでも残っている。しかし、自分が自分自身の体験を端的かつ正確に理解する方法がないという現実を目の当たりにした人々は、苛立ったり耐え切れなくなって、自己正当化や自己欺瞞へ陥り、自分に都合が良い思考の枠組みを維持したり整形し、特定の都合がいい出来合いの観念にしがみつく。NDE を伝えるアレグザンダーにしても、科学的に「考え難い」ことが起きたと言うのだが、逆にその特殊な体験を我々自身の認知能力や言語において説明し得るという都合が「考え難い」とも言いうるわけで、どちらが偏見なのかは定かではない [Alexander,2018:192]*14

*14先に *7 で言及した “cognitive closure” は、アレグザンダーの以下のような説明で正当化できるわけではない。

[...] だが現時点でこの知識を伝えようとするのは、たとえて言えば、一日だけ人間になって人間のすばらしい知恵をすべて体験してきたチンパンジーが、群れに帰ってからロマンス語系の言語の違い、微積分、壮大な宇宙について語ろうとするようなものなのだ。

[Alexander,2018:118]

これはおかしな比喩だ。文明や文化の差によって、彼が体験したことと我々の現実との差を説明しようとしているのだろうが、寧ろ異なる文明についてサルだろうと人間だろうと一日で習得する方が現実離れしている。認知クロージャのアイデアは、寧ろヒトという生物種の生理的・生化学的な限界とか、眼や脳という器官のはたらきによる限界を指しているのであって、要するに知能や知性そのものが世界や宇宙の理解(「理解」という概念には、それが限られた知能や知性の範囲で達成されるべきことだという含意があるのだろうか)にとっての必要条件や充分条件になりえるのかどうかを疑っているのだ。

或る著名な哲学者いわく、世界は主観的に構成された何かでしかなく、自分自身と一緒に消え去ってしまう、だから死ぬのは怖くないのだそうな。しかし、それは論理の飛躍などと指摘する以前に子供騙しでしかなく、端的に言って自分自身が感じる thanatophobia という恐れを、概念の分かりにくさや表現の複雑さで誤魔化すという自己欺瞞だと思う。伝統的な宗教が膨大な分量の経典や理論書や宗教音楽や儀礼や建築物を積み上げることによって、thanatophobia から人々の気を逸らすことに腐心してきたのと同じく、thanatophobia が分かり難くなれば、そこに含意される straightforward な意味合いも分かり難くなるので、その恐ろしさもまた RPV としての意味合いだけに限らず実質的に(つまり精神医学上の働きとしても)弱くなったり、FPV として軽減されると思いたいのだろう。しかし、世界なるものが存在するとして、それが FPV で何かを感じたり思う僕が生存するための必要条件であるかもしれないが十分条件ではないということさえ理解できれば、僕が死んでも世界が存続するという事実に何も変化はないだろうし、僕の死と同時に僕が記憶や想像によって維持している世界の意味とやらが消失するということも同時に当たり前だと分かる。そんな事実や意味は、哲学や宇宙物理学など学ばなくても、たいていの人は誰でも分かっているのだ。そして誰もが心得ている筈のこと(それが「真実」であるかどうかは、FPV においてはどうでもよい)を、一見すると深い意味がありそうに思える言葉や、その組み合わせから構成された語句・文章によって、確からしさを疑える(多くの人は thanatophobia を感じるのだから、そうやって疑える余地があればいいのにと思いたくなる動機がある)ていどに相対化してしまうことを、僕は「自己欺瞞」や「自己催眠」などと呼んで差支えないと思う。そして宗教の大多数は、そのような自己欺瞞の巧妙で壮大な心理的パフォーマンスの劇場であるにすぎない。

上記の議論は、外界、そして外界を認知する主体としての自分自身の両方が消失するという状況を描いている。しかし、もっと明け透けに「死ぬのは怖くない。なぜなら、死んだら『怖さを感じる』ということ自体が不可能になるからだ」と言い換えてもよいだろう。そして、これは「主観的な世界」などという概念を仮定する必要がなく、少なくとも僕にとっては FPV が成立しているという事実と将来の状況についての推論だけで想像できるのだから、見かけにおいては一定の説得力がある。しかし、これも上記の議論と同じように、僕自身が死んでしまった時点で FPV が成立しなくなった状況を RPV として説明しているにすぎず、FPV としての thanatophobia を第三者の観点から眺めて描いているに過ぎないのであって、これも自己欺瞞だと思う。このような単なる RPV としての解説だけで thanatophobia を感じなくなったり納得できるのであれば、全く同じように未だ生まれていない人物についても同じことが言えるだろうし、もしお望みなら既に死んだ人についても同じことが言える筈である。死ぬのは怖くない。なぜなら、生まれてもいない人にとっては『怖さを感じる』ということ自体が不可能だからだ。死ぬのは怖くない。なぜなら、既に死んでいる人にとっては『怖さを感じる』ということ自体が不可能だからだ。それはそうだろう。そんなことは、誰かの死んでゆく姿を傍らで眺めているだけの人間になら幾らでも言えるのだから。

自分自身の死についての想像は未来に自分が被る何かについての RPV における認識でしかありえないということは正しいし、更に議論すべき点だろう。いまこのように自分が将来においてどうなるか(もちろん死ぬと思っているからこそ thanatophobia をテーマにしている)という想像は、あくまでも想像にすぎない。何月何日の何時何分に自分自身が死ぬかを予測することは(少なくとも現時点の情報や技術や学術成果の範囲では)不可能であり、実際には明日の 0:00 きっかりに北の方角から飛来したミサイルが大阪市の中心部に着弾して、僕は消え去るかもしれない。即座に消え去ってしまう(しかも 0:00 だから就寝中だろう)者にとっては、死にゆく状況を恐れる暇もないのは確かである。しかし、だからといって、まだそうなっていない現時点においても thanatophobia を感じずに済むという理屈は成り立たない。そのような理屈が死ぬまでの全ての時刻において言える(いや、それどころか FPV として納得できる)ためには、各時刻において「次に1秒が経過したとたんに、自分が死ぬ」という可能性を常に想像していなければいけないのではないか。t1 においては t1 + 1 秒後(= t2)の死を考えて納得し、t2 においては t2 + 1 秒後(= t3)の死を考えて納得し、t3 においては t3 + 1 秒後の死を考えて納得し・・・などと、延々と続けたらよいというわけである*15。しかし、まったく常識的な判断として、これは単なるパラノイアである。thanatophobia も一種の「症状」とされる場合があるが、それを回避するために別の症状を引き起こすことになど、恐らく救いはあるまい(もし「そういう」手段しかないなら、我々は何らかの薬理学的な手法によって自意識を消し去りミジンコのように生きる道を選んだ方がマシだろう)。

*15後述するが、この議論は「次の瞬間」をどんどん短くしていけるので、前野隆司さんが言及しているゼノンのパラドクスと似たレトリックを使えば、幾らでも可能性の議論を押し進められるように見える。しかし、thanatophobia を感じうるチャンスを無制限に短くできるという理由で thanatophobia を無制限に過小評価するような議論は、thanatophobia が死ぬまでの時間の長さに依存してその強度が代わるという、それ自体は否定する必要のない特徴に依存していても、その依存関係が正しく扱われていないように思える。医者から死期を知らされて、もうあと限られた日数しかないと知った場合の thanatophobia は、なるほど「余命50年」と言われた場合と「余命1ヶ月」と言われた場合では異なるだろう。そして、ごく常識的に言えば余命の期間が短いほど thanatophobia は切実で強く感じられるのではないか。キューブラー=ロスのモデルを使って、或る段階を過ぎると逆に thanatophobia は過小評価されてゆくと言い得るかもしれないが、それは同時に他の感情や生きる意欲の喪失も伴うのであって、thanatophobia だけが消え去るというわけにはいかない。もちろん、それこそが求めることだという人も(例えば仏教徒には)いると思うが、僕は本稿ではそういうことを目指していない。それは、あたかもヒトが情動を失って玄武岩のようになるのが理想だと言っているようなものだからだ。

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IV

自分自身がまだ死んでいないからこそ、自分自身の死について人は想像したり thanatophobia を感じたりする。すると、その想像されている「死」が(自分は死ぬという予想の確からしさについてはともかく、FPV として想像しうる経緯については)妄想や勘違いの産物ではないかと疑うことも可能だろうし、もちろん疑ってみるべきだろう。なぜなら、いま生きているあいだは「自分はこのように死ぬんじゃないか」などと FPV としての経過を想像できるとしても、実際には交通事故などで即死するかもしれないからだ。では、その想像、つまり自分自身が死んでゆく経過を FPV で経験しているかのように自ら心で思い描くということは、どういう条件で妥当なのだろうか。そして、その妥当性とは、何に対する妥当性なのか。自らの抱く thanatophobia が FPV において正常な反応であるとか、治療を要する反応であると判定できるためにであろうか。

多くの文学作品や映像において、登場人物が死んでゆく様子を FPV として描くという事例は容易に見つけられるので、それが多くの人にとって関心事であり、そして試みに色々な仕方で描写しうるのは確かだ。非常に通俗的で粗雑な描写では、何かテレビのスイッチを切る様子のような隠喩で表現されるのだが、FPV の消失はテレビの電源を消す状況とは全く違う。つまり、スイッチが切られて「プツン」という小さな音とともに画面の光が小さくなって最後に闇が残るという状況を経験することすら、恐らく FPV では不可能なのだ。なぜなら、テレビのスイッチを切るという隠喩では、その状況が展開してゆく様子を RPV として、つまり第三者の観点から眺めている僕らの認知能力は正常なまま維持されているが(そして、それゆえに第三者として眺めていられるし、こうして話題にできる)、自分自身の死においては認知能力そのものが急激に、あるいは徐々に低下したり、状況によっては部位ごとに失われてゆくだろうから、死に至る過程(それがいつからなのかはともかく。分子生物学や進化論の観点では「生まれた時から」と言えなくもないが)の中で最終局面の一定時間は、FPV で自分自身が死につつあるということすら認知できなくなると思われる。したがって、同じ理屈で言えば、死に至る最終局面の一定時間は、どれほど心配したり恐れていようとも、thanatophobia すら感じようがなくなると言ってよいだろう。

最後の局面では thanatophobia すら感じようがなくなるからといって、「だから死は怖くない」と言えるだろうか。少なくとも僕は全く納得できない。死へ至る経過の不可避的な結果として認知能力が低下することにより FPV で何も認知できなくなってゆくからといって、いま現在の僕が thanatophobia を感じなくなるわけではないからだ。そして、死にゆく或る局面に至ると thanatophobia を感じなくなるから、死にゆく或る局面では thanatophobia を「感じなくてもいい」とか、「感じる必要はない」とか、「感じなくならざるをえない」などと様相を言い換えてみたところで意味のある議論は引き出せないと思う。あくまでも thanatophobia が成立するという、少なくとも生理的な条件が満たされた状況を想定して考えなくてはならない(寧ろ、そのような状況において起きるのが thanatophobia である。そして、死が目前に迫っている状況と、いまのように「死を恐れるということ」などという文章を書いている状況とでは FPV において色々な違いがあるだろう)。そうでなければ、どれほど深刻ぶって文章を書いたり悩んで見せようとも、そのような想像や議論は冒頭で否定したことと同じく「あの世で thanatophobia を感じるのかどうか」という混乱した思考、あるいは「死んだ者にとって死は恐れるに足らない。ゆえに死は怖くない」という愚かな議論と同じである。そのような混乱に逃げて thanatophobia をまるで他人事のように(それこそ哲学の教科書に出てくる演習問題のように)扱えるようになったからといって、自分がいずれ死ぬという冷徹な事実、そしてそれが端的に言って怖いという thanatophobia について、何らかの態度を決めたり、適切に検討できるようになるわけではないだろう。

ここで更に、前野隆司さんによる議論を参照してみよう。

過去の記憶を思い出そうとしてみると、過去の時間は対数軸上に並んでいるようにも感じられる。今に近い時間は拡大され、過去に行くほど圧縮されて、記憶の量と質が違うからだろう。最近の記憶は大量に覚えているが、過去にさかのぼるほど記憶の量は減っていく。

[...]

未来も、同様だ。いや、正確には、同様ではないが、似ている。

[...]

客観的には、これから何億年もの間、時間は一定速度で流れていると考えるのが普通だろう。しかし、それは主観的には意味を持たない。主観的な時間は、未来になるほど圧縮されるのだ。死んだあとなのだから当然だが、死後には、主観的な時間は流れないのだ。

[...]

「死」とは想像上の産物に過ぎない。客観的には、あなたが未来に死ぬ瞬間は、未来の年表のある点にいつか黒い丸で記入できるのだが、主観的な時間軸はひずんでいて、先の時間は圧縮されてつぶれているから、死の瞬間は記入できない。あなたには、生前も死後もないのだ。

[前野,2017:230,231,232,234]

まず、過去の記憶が量や質として減ったり情報量として曖昧になったり一部が欠落するといったことは、本当に「対数軸上」に並ぶと言いうるほどの指数関数的な変化なのだろうか。このような前提には脳神経科学や生理学の根拠がない。

第二に、過去の記憶に関する劣化と、未来の想像に関する何らかの主観的な心理なり感情の減衰(もちろん、前野さんが言う「クオリア」でもいいし thanatophobia でもよいだろう)とが、正確に同一でなくとも「似ている」と言いうる根拠がない。もちろん同じようにして説明できるという事実から推定するのは自由だが、それはその説明が十分な explanatory power を現実にもつと評価できる社会科学的あるいは社会心理学的な論証や証拠があっての話だ。そして、もしそのような根拠に訴えるのであれば、FPV として我々が納得できるのかどうかという基準の議論にとっては致命的な弱点をもつことになる。なぜなら、それは thanatophobia が「民主的に怖い」から怖いだけだとか、「統計的に怖い」から怖いだけだとか、あるいは(ややカリカチュアとして表現すると)「世の中的に怖い系、みたいな」ことだから怖いと言っているだけになるからだ。そのようなことは、少なくともここで FPV として僕自身について考察している限りでは、全く認められない。

第三に、未来に向かって想像しうる主観的な内容はどんどん圧縮され、最後の「死」に到達できないという論証は、前野さん自身が100ページほど遡った箇所で論破した「アキレスと亀」の話と全く同じではないのか。前野さんは、こう述べている。

つまり、「アキレスは永遠に亀に追いつけない」のではない。「追いつく瞬間までの間には、アキレスは亀に追いつけない」というあたりまえのことを、追いつく瞬間までの時間を細かく切り刻むことによって示しているに過ぎない。

[前野,2017:120]

したがって、僕は上記の議論を使って前野さんにこう反論できる。「我々は主観的に永遠に死へ到達できない」のではない。「死ぬ瞬間までの間には、我々は死んだりしない」というあたりまえのことを、死ぬ瞬間までの時間を細かく切り刻むことによって示しているに過ぎない。このような、形式的に不可能であることや形式的に否定しただけのことをヒトの認知能力の限界と取り違えて、或る観念に存在論的な身分まで押し付けるという初歩的な誤りが、最近の流行哲学にもたびたび見受けられる。たとえば、「世界」はヒトの認知能力を超えている全体であるがゆえに存在しないといった極めつけの議論などは、学部で数理論理学や critical thinking だけではなく philosophical logic も教育することの価値をあらためて思い起こさせてくれるだろう。(そのような最新哲学を奉じる人々は、偶数の集合に属している数を全て言えたり、「2000年1月1日以降に東京都世田谷区で出生届を出している男性(もちろん未来も含めて)」の名前を全て言えるのだろうか。言えないからといって、それらは集合として存在しないのか。試しに中学生にでも尋ねてみればよい。)

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V

これまでの議論で僕が判断の基準にしてきた FPV は、現実に僕が何かを感じたり思うときの認知内容そのものを指し示すためのマーカーのような意味もあるが、そういう特定の観点なり位置取りといった意味もある。しかし、FPV そのものについての議論は thanatophobia に関する論考からの逸脱が生まれやすく、thanatophobia を切実に感じる人の多くは、そのような話題に自らを無自覚に誘導して thanatophobia にとらわれる状況から注意を逸らしたいという動機づけに晒されやすい。僕も恐らくは(ヒトという生物の平凡な個体である以上は)、そういう一人なのだろう。したがって、これまで FPV についての詳細な議論はしなかった。しかし、死あるいは thanatophobia に関わる著作物や芸術作品や市井でのありふれた言い回しには、確かに thanatophobia に対する人の弱さゆえに一つの知恵と思える工夫も感じられるものの、あまりにも馬鹿げた観念や言葉を振り回す事例も多々ある(その良くも悪くも極め付きは宗教だが)。したがって、僕自身にとっては既に解決済みであり、FPV として本稿を書き進めながら改めて納得する必要などないが、本稿の内容を正確に伝えるには「僕が何を言いたいか」だけではなく、「僕が何を言いたくないか」も併せて明確に記述しておくのが望ましい。

まず何度も強調しておくべきなのは、FPV において僕が感じたり考えることを記述する場合、FPV は僕が自意識を現に維持しつつ何かを感じたり考えている当の個体、つまり本稿で「僕」と称している者にのみ適用できる。他者にとっての FPV という概念は特に想定していないし、それがどういうものなのかを考える必要も、いまのところはない(実際、これを考える必要すらないのに、他の生物としての自意識がどうなっているかとか、コウモリとしての FPV などというものを、必要も根拠もなく想像する必要も暇もない)。いま本稿で「FPV において云々」と記述しているのは、それの RPV としての解釈なり理解なりを経た結果である。そして、RPV としての何らかの記述や論説だけが FPV とは独立に展開されるような議論は避けるという方針を採っている*16。いまこうして書いているときも、「FPV について議論するとはどういうことなのか」を、FPV として違和感を生じないような RPV のスタンスを維持しつつ書いている。恐らくこのようなことは、日記(自分が経験した事柄についてどう思ったかを書く場合)を書いているときには多くの人がやっていることだろう。もちろん、そこでは thanatophobia を感じたという経験について、自分自身の RPV としての捉え方が後から変わることもあるだろう。僕が本稿の冒頭で書いたように、thanatophobia を感じるときは、自分が死んでゆく過程を思い描きつつ、死んでゆく当人として感じる恐れや不安についての恐れや不安が想像や思考にしがみついて、眠れなくなることもあった。しかし後から RPV として自分の thanatophobia という経験を思い返して描きなおしてみると、幾つかの不安や恐れは単なる思い込みではないかとか、実際にはそういう経験をしないのではないかという反省が生じることもある。更には、それについての価値判断(例えば、宇宙論的なスケールでは人の生死など些末な事象にすぎないから人の死は恐れるに足りないといった判断。なお、今後の追記で前野さんを始めとする自然科学者や宗教家の著作を取り上げる際に詳しく論じるが、僕はこれも自己欺瞞の一つだと思う)すら行う場合もある。

*16FPV とは無関係に展開してしまう議論としてよくあるのは、FPV としてどういうことになるかを自問したり議論する必要を感じていないのに、「分析哲学ではこういう論点がある」という教科書的な手順を踏むことだ。もちろん昔から積み上げられてきた論点や議論の蓄積を軽視してはいけないが、だからといって、哲学するに及んで約束事のようにハードプロブレムはどうだ、multiple realizability はこうだと単に口先で論じてみても、それは自己欺瞞というものである。そのような約束事のように並べてあるステップを踏むことで哲学的な課題や問題が「どうにかなる」という思い込みこそ、もちろんコミットメントとして肯定されるべき場合もあると思っているが、批判を要する態度であろう。

次に、FPV に限らず「主観」と呼ばれるような観点を前提にして自分自身の生死を論じたり語るにあたって、人がしばしば口にする言葉の彩とも言うべき表現が幾つかある。僕は、例えば「死んだらどうしよう」などという、落語にでも出てきそうな馬鹿げた言い回しを本稿で取り上げる必要は全くないと考えている。もちろん、このような混乱した(としか僕には思えない)発言について、シニシズムなど何らかの含意をもつ performative action として人が口にせざるをえない心理や状況とはなんであるかを分析することは、発達心理学や臨床精神医学や社会学の研究としては意義があろう。しかし僕にとっては、その含意なり心理が分かったところで、thanatophobia とは何なのかを FPV で理解したり納得する助けにはならないと思う。僕は、そういう言葉の彩やレトリックの表面的な難しさや禅問答のような逆説的効果に逃避したり埋没して事足れりと割り切れるほど、thanatophobia を自分自身で正確に理解するということに絶望したり、thanatophobia について僕がどういう態度を取れるのか(あるいは、取るべきなのか)という考察を諦めるつもりはないからだ。FPV という認知能力の欠損や消失に始まって生体としての機能が全て停止するまでの過程を死ぬことだと考えるなら、認知能力(の一部)が失われ FPV として何かを感じたり思うことができなくなった時点で、人は自分自身の死を最初から最後までは経験できない [養老,2004:78 では「一人称の死」として語られるもの]。したがって、thanatophobia の一つの理解には、自分自身が死ぬという過程を FPV として最初から最後まで経験し得ないという事実が示す分からなさや、その分からなさを理解したり思うことから生じる不安が含まれているのだろう。

ここで「分からなさ」の意味合いを詳しく確かめてみよう。すると、第一に死ぬという過程がどのように FPV として進行し、やがては FPV を成立させる認知能力が消失してゆくのかが分からないという経験内容についての無知から生じる不安(しかも不可避的に不十分なままに終わる)がある。第二に、その過程がいつ始まるのか分からないという唐突さへの不安もある。場合によっては、多くの人がそうであったように、健康診断をきっかけにした精密検査で重篤な状態と分かったとき、何ヶ月も前から病気が進行していたことに自分が気づかなかったという事実を知って酷く落ち込むかもしれない。そして、我々はそういうことが自分にも起こりうると小説やテレビドラマや映画などで何度も自覚させられたり想像させられる。そして第三に、死へ至る過程の多くは病気による肉体の苦痛を伴うため、どんな痛みや辛さを被るのか分からないという苦痛の程度や種類についての不安もあるだろう。それから [養老,2004] においても、「一人称の死」より「二人称の死」(本稿の表現を使うなら、家族や知人にとっての RPV という観点から経験する僕の死)を考えるべきだと強調されていたように、自分を看取る人々へどういう負担をかけたり悲しませることだろうかという他者へのインパクトという不安も意味合いとして含まれうる。

まず、死についての「分からなさ」をどう評価するかについて、[養老,2004] で繰り返し語られている点に言及しておく。FPV として認知不能な自分自身の(「一人称の」)死、ここでは死ぬという過程ではなく、その結果として生体の機能が完全に失われた状況のことだが、そういう自分自身の死について考えても仕方がない(「死んだらどうしよう」という問いは、表面的には馬鹿げている)からといって、死についてそもそも考えても仕方がないのだろうか。僕としては、上記の区分で「経験内容についての無知」という分からなさから生じる不安を理由とする thanatophobia は、無駄な心配であるにすぎないといって感じずにいられるかといえば、そういうわけでもないと思う。そもそも「しょうがない」とか「仕方がない」というのは、起きた後の状況を FPV としてどうなるかと想像してみた末に諦めることだが、そんな状況などあり得ないのであって、自分の死んだことを FPV としてどう思うかについて RPV として想像しても、それこそ「しょうがない」のである(まるで、自分が死んでいる状況をどこからか自分自身が眺めて、「あーあ、しょうがねぇなぁ」と呟くようなものだ。それこそ下手な落語でしかあるまい)*17

*17本稿では、自分自身が死ぬということを FPV としてどう感じたり思うのか、つまりはそこで起きる thanatophobia を RPV として叙述した議論だけを問題にしており、何らかの状況(situation)や状態(state)として実体化した僕自身の死を RPV として叙述したり議論することは避けているつもりだ。そもそも FPV においては、死を何らかの状況とか状態として自分で理解したり想像するなどということは(死んでいる以上、いくら頼まれても)不可能だからだ。我々が自分自身の死に関して、単なる概念や記号の操作ではなく FPV としてどうなるのかを推測したり想像できるのは、飽くまでも死へと至るまでのプロセスの一部だけである。実際に死ぬ直前においては FPV における意識もなくなってしまい、FPV から何かを想像したり語るための認知能力そのものが失われてしまう。したがって議論している僕自身に対しても混乱しないように何度か繰り返す必要を感じるのだが、本稿で問題にしているのは飽くまでも thanatophobia であって死ではない。

もちろん、人はいつ死んでしまうか分からない。それは確かだが、いますぐに死ぬ状況に置かれているわけでもなく(本当にそうなのかどうかはともかく)、こうして「死を恐れるということ」について文章を書く余裕がある者にとっては、無駄であろうと、あるいは何らかの精神疾患を示す兆候であろうと、自分がやがて死ぬという厳粛な事実について FPV で感じる thanatophobia を、二言三言の寸評だけで意識の脇へ気軽に片付けたり意識の奥へ直ちに仕舞いこめるわけでもない。もしそんなことがヒトという生物の認知能力や文化によって簡単に処理できていたなら、私見では宗教は成立しなかったかもしれないと思う。死はまさしく FPV において最後の状況に至るまで自分がどうなっていくのか経験できない事柄であり、いつそういう事態となるかも分からないが、thanatophobia は、これもまさしく死んでいない状況で FPV としての認知が維持されているからこそ起きるものだからだ。ありふれていて誰もが逃れられないにもかかわらず、FPV としての報告が誰からも得られない経験が死ぬということであるから、これを FPV として思い描いたり理解するには、いまでも大多数の人にとっては自らの思弁なり小説や絵画や映画による疑似体験(それも結局は制作者の思弁による)以外に方法がない。そして、そういう「分からなさ」を不安に感じることが異常だという理屈は成り立たないだろうし、「気にするな」などと言って済むような話でもなかろう。

そして、「分からなさ」の一つとして追記できる重要な点がある。それは、僕が FPV として認知しているとき、そのこともまた端的に言って自然現象に他ならないということだ。そして同様に重要なことは、その自然現象である FPV としての認知を可能にしている条件(神経細胞の電気化学的な反応や外界からの刺激を処理する仕組みを始めとした諸々の事柄を可能にしている生理的・物理的な諸条件)そのものは FPV として認知不能だという事実である。僕がいま自分のパソコンで文字をタイプしているとき、僕の脳で起きている(恐らくは膨大な数の)神経細胞の活動を、僕は FPV として感じたり観察したりできない。以上に同意できる限り、FPV をどれだけ強調しても独我論的な一元論など帰結しない(それどころか、いま述べたような事実があるにも関わらず FPV を基準にして論考することが即座に独我論だと断じることこそ、ヒトの認知能力や諸条件が事実として FPV における認知現象の基礎になっているという supervenience を否定する、ただの思弁的な思い込みを前提にしているだけだろう)。先に thanatophobia をもたらしうる「分からなさ」の一つとして挙げた、経験内容についての無知から生じる不安の一部は、いま述べたような事実、つまり経験内容がどういう諸条件によって成立するのかが(理屈としても)分からないし、実際に自分で様子を眺めたり操作するわけにもいかないという、自分自身の身体の仕組みでありながらも正確な仕組みや状況が分からないという事実が含まれるのだろう。もし、fMRI などを使って自分自身が何かを認知している状況を測定し、モニター画面へ視覚的な図像として映せるとしても、そこで測定しているのは「A を認知している状況」ではなく、「『A を認知している状況』をモニタリングしている状況」である。「河本孝之がリンゴを眺めている」状況を、その状況に介入するような影響を与えずに当人がモニタリングするには、厳密には時間軸で後の時刻でなければならないだろう。例えば10分ほどリンゴを眺めている状況を測定してから、その後でモニタリング結果を眺めるという具合である。しかし、そのような方法しかないなら、もちろん誰が測定するのであろうと、自分自身が死んでゆく様子を測定して、その当人が死んでしまった後で自分の FPV で何が起きていたかをモニター画面で本人が呑気に眺めるなどという構図は、いまどき小学生向けの漫画雑誌ですら恥ずかしくて描けないであろう、全くの茶番でしかない。

それから僕が強調しておきたいのは、FPV という僕自身の観点なりスタンスについて、僕はそれを個人の観点としてユニークな何かであるとか、あるいは FPV として認知する内容が single-case であるといった、形而上学的に特別で特権的な何かだと考えているわけではないということだ。三浦俊彦さんが指摘しているように、「死生学に限らず、一人称からの考察というものは、いかなる分野においても論理的整合性を持ちうるし、有意義である」[渡辺 et. al, 2017: 219]。だが問題は、FPV による考察や推論の結果を、当人ですら正確かつ十全に言語や図像といったパブリックな伝達手段において表現できるとは限らないということなのだ。そして、そのような限界(経験が教える「限界」であるばかりか、原理的な「制約」とまで言えるかどうかはともかく)があるという前提や理解をもとにして FPV のようなスタンスなりアプローチを維持するということは、我々自身の認知内容なり認知プロセスが、自分たちで思い描くものとは全く異なりうるという可能性を許容するということであり、ここから独我論など帰結するわけがない。thanatophobia に関するどのような「解決」が提案されようと、それがヒトという生物なり個体の認知能力に限りがあるという事実にもとづく混乱や錯覚でないと、いったい誰が保証できるだろうか。そのようなヒトという生物に特有の事実を越えて何かを言い得る可能性について思考するために、FPV なり一人称の視点は導入するものである。したがって、FPV や一人称の視点をわずかでも立論において採用する者は独我論に陥るという批判は、およそ維持することが困難な仮定を当人が同時に主張していない限りは、ただのシャドウ・ボクシングでしかない。

[...] 実際には、一人称的議論が唯我論的枠組みを要請するなどと素朴に信ずる論者はほとんどおらず、日常生活で唯我論に従って生きることも不可能である。したがって、以上の論証は藁人形論法的な過剰防衛というか、一種の杞憂であったとも言える。しかし論理的·学問実践的にはともかく心理的には、「一人称視点」から「一人称定位」そして「一人称優位」「一人称のみ」「唯我論」とすべり移ってしまう事例が容易に考えられるため、注意が必要なのである。

[渡辺 et. al., 2017: 219]

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VI

ここで、既に認知科学や生理学や医学の知見として信頼しうると言える事項を確認しておこう。まず、thanatophobia が対象にしたり想定している過程、つまり自意識の消失から生体として全ての機能が停止して「死」に至るまでの「死ぬ」という過程は、睡眠に入る過程とも違っているし*18、麻酔を施される際の過程とも違う。しばしば、死んでゆく過程を「眠るようなもの」などと言う人がいるけれども、その根拠を FPV としては無論のこと、RPV である科学の知見としても正確に説明できる人は多くないし、大多数の人々は両者を文芸作品等からの類推で勝手に想像しているだけなのである。そういう想像で済ませておきたいという動機に thanatophobia があると想定することはたやすいが、そのような態度の原因や理由を追求したところで、FPV として僕がどういう態度を取れるかを考えるために資するものがないと思うので、これ以上は検討しない。本稿はあくまでも FPV としてどういう結論が出せるかという一点に集中する論説であって、thanatophobia を感じる人に同情するための論説ではないからだ。

*18例えば「もうすぐ死ぬという恐れや、その自覚はあるかもしれないが、死の瞬間を自覚する瞬間は、寝る瞬間の自覚がないのと同様、絶対にやって来ないのだ」[前野,2017:235] という説明が示唆するように、睡眠への移行と昏睡状態や死への移行とを同じような推移だと言われても、RPV としてはもちろん違うのは明白だが、FPV として違うのかどうかも立証などできない。thanatophobia とは、この「分からなさ」によるとも言いうるので、睡眠に至るプロセスと死へ至るプロセスとを根拠なく似たようなこととして扱うのは論点先取であろう。

睡眠は「単なる活動停止の時間ではなくて,高度の生理機能に支えられた適応行動であり,生体防御技術でもある」[井上,1999]。レム睡眠であれノンレム睡眠であれ、現在ではそれぞれの働きがあると考えられており、特にレム睡眠の生理的な活動状況は起きているときと変らないくらいの活発さだが、その理由や役割は殆ど分かっていない(そして、「殆ど分かっていない」ということも重要な知見である)[Hayashi, et. al, 2015][林, 2017]。FPV として深い眠りに入って「意識を失う」と言い得る状態になることはあっても、大脳皮質では依然として活発な反応が続いている。もちろん、我々は自分の脳で起きている反応の殆どを FPV として認知できないのだが(そもそも起きて覚醒していようと、脳の神経細胞の相互作用や電気的な信号伝達を「体感」している人などいない)、寝ている状況・状態を自分にとって FPV としては何も認知できないからといって、死んでいるのと同じだとは言えない。また、睡眠中の無呼吸症候群で死んでしまうような不幸はあるが、それは寝ている過程から死んでしまう過程への不幸な推移であって、通常は寝ることと死ぬことが同じだと考える人はいまい。したがって、「意識がなくなる」という雑な表現や FPV での理解によって、「死ぬのは眠るようなものだ」と言われることもあるが、現代の科学の知見では全く違うと明言してよいのである。なるほど、それらを同一視したくなる動機の一つは、僕自身が FPV として想像してみれば thanatophobia によると考えられるので、「眠るようなもの」と思って安心したいのは分かるが、これもまた通俗的でカジュアルで、しかし思想としては「悲惨」としか言いようがない自己欺瞞の一つである。そして、本当はどうなのか分からないにも関わらず、死ぬということをそういうものだと思わざるをえない悲惨さを耐え忍ぶという、無教養な人々に特有の演歌的な自意識に没入して刹那的なセンチメンタリズムへ陶酔するのも暇つぶしとしては結構だが、そのようなことを人生訓や「哲学」などと言って他人へ伝えようとするのは文化的な犯罪である。

次に、死ぬという過程になぞらえることがある(全身)麻酔による昏睡について確認しよう。もちろん、全身麻酔という処置の不手際によって死んでしまう事故も稀にあるが、それは麻酔を施されている過程から死ぬ過程への異常な推移であって、通常は全身麻酔を施される過程そのものが直ちに死ぬ過程と同等であるはずはない(もしそうなら、つまり全身麻酔の処置とは蘇生が成功しやすいというだけで実質的に死ぬ過程と全く同じであり、麻酔薬を投与したり吸入させることが意図的に死ぬ過程の一部を操作して導入いるだけの措置であるなら、多くの人は全身麻酔を望むかどうか分からないと言えるだろう。「麻酔処置とは 40 % くらい死にかけることだ」などと言われて、誰が処理を望むだろうか)。

僕は大腸の内視鏡検査を受けた際に全身麻酔を施されたことがある。確か点滴を注射されたことまでは覚えているが、次に記憶があるのは施術ベッドの上で医師から検査した結果について説明を受けたときだった。内視鏡検査を受けている間の記憶どころか生理的な何らかの反応をした覚えすらないのだが、しかしこれは普段から床に就いて眠ってしまい翌日の朝に目を覚ますまでと同じである。どちらも、もちろん呼吸はしているだろうし、寝ているときは自分で寝返りを打っていると自覚することはあるが、たいていは寝ている間の覚えなどなく翌日になっている。よって、FPV では何の意識内容もないが、RPV としては生体反応が継続しているのだろう。でなければ、ここでこうして文章を書いている筈もない。寝ている間や麻酔がかかっているあいだの生理的な反応が抑制されるからといって、死んでいる状態と同一であるわけがない。我々は、クオリアをもっているだけのゾンビではないのと同じく、目を覚まして動いているだけの死体ではないのだ。

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VII

thanatophobia について考えをめぐらしている機会があれば、その何回かに一回では thanatophobia の「解消」とか「解決」というものがありうるのかという疑問が起きる。たとえば、FPV として thanatophobia を認知しなくなりさえすれば FPV としては何も頓着したり固執しなくなって「良い」のではないかという発想がありうるのだ。よって、thanatophobia をそういう脈絡において FPV として認知したり感じなくなるという状況を一つの「解決」だとすることが(道徳の理論として、あるいは他人から判断してどうなのかはともかく)当人にとって最善だと言い得るなら、thanatophobia にまとわりつかれて精神を病んでいる人や、現実に死を迎えつつある人に対して、何らかの外科的あるいは薬理学的な処置や処方を施してしまうことは妥当だと言いうる。そして安楽死も、そういう処置・処方の一つだと言ってよいのではないのか。

しかし我々が経験してきている他人の死のいきさつ、つまり死にゆく経過を RPV として知りうる範囲で言えるのは、寧ろ圧倒的多数の人々は「解消」とか「解決」などということへ頓着していないかのように死んでゆくということだ。これまで生まれて死んでいったヒトの個体は、累計では夥しい人数になる。そして、決して全てとは言わないまでも少なからぬ割合の人々について、全く何の憂いも不安も恐怖もなしに死んでいったらしいという報告や記述が残されている。それが thanatophobia の一つの「解消」なり「解決」だと言い得るのであれば、そのような心境が何らかの錯誤や思い込み、あるいは既に錯乱状態に陥った結果でない限りは、その条件を特定することにも一定の価値があるのかもしれない。しかし、いまの僕に言える限りでは、そういう心境へ至ることが「解決」なのかどうかは分からないし、そのために座禅を組んだり素人まがいの詩を作ることが効果的だとは思えないのであって、もしかするといまここでやっているような思索を続けた末に至る心境なのかもしれないと思う方が、まだマシである。

それにしても、これまでに人はどれくらい死んだのだろうか。もちろん、寝ている間に亡くなった人や、テロの爆発で即死した人のように、自分が死ぬことを想像もしなかった人々はいただろうし、そもそも「自分が」死ぬという観念をもつための自意識とか、あるいは何かを想像することすらできていたのかどうかも分からない幼児期に亡くなった人もたくさんいただろう。しかし、それらの人々は一部の例外と言ってよく、圧倒的な割合で膨大な数の人々が静かに亡くなっているように思える。そういう人々の心境 ⸺ それが、もし認知能力の低下や錯乱の結果ではないなら ⸺ が何らかの推論や想像といった知性のはたらきで可能であるなら、確かにそれらは一つの「解消」とか「解決」と言ってよいものかもしれない。なるほど、その対極として、たかだかコンピュータ産業の景気が良いというていどの理由で「不死」を達成できるかのようなファンタジーに没入する人々も多くいるが、少なくとも物理的に我々が消え去る可能性は常にあるし(今から30分後に北方より核兵器が飛来して来ないという 100% の確証は、論理的にも物理的にも政治的にもない)、もっと遠い将来のことを言えば、バカバカしい限りで指摘するまでもないにせよ、宇宙が終焉を迎えても生存し続けることは不可能であろう。

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VIII

死んだら終わりであるということを、ひとまず認める。そして NDE やら死後の世界などというものを無視して議論を進めると、ここで thanatophobia に対する強力な論評あるいは反論として、「死んだら終わりなのだから、怖がっても仕方が無い」という議論がありうる。こういう議論に対して、そう言われてみれば確かにそうなのかもしれないと FPV で理解しようと望むべきなのだろうか。それとも、そんなことを言っても死ぬまでのあいだの恐怖はなくならないのではないかと説明して、迷惑なことかもしれないが、相手に thanatophobia を感じさせるくらい説得するべきなのだろうか。もちろん、死ぬ前の段階においてすら FPV としての全ては終わる。thanatophobia も何も感じなくなるだろう。ひょっとすると、thanatophobia を恐れる人の中には、それゆえに即死できる手段で自殺した人がいるのかもしれないし、割り切った心境でいるうちに死を選びたいと安楽死を望んだ人がいるのかもしれない。しかし、本稿で FPV という基準を使っていようと、僕にはそういう主観的な「処断」が thanatophobia に対する自分なりに満足のゆく、いや満足が目的や動機なのかは自明ではないが、ともかく主観的に恐怖を感じない手段で死んでしまえば、何らかの脈絡で良いという思考は受け入れ難い。なぜなら、もしそのような思考が受け入れられるなら、人が積極的に自殺することを思いとどまらせるような、説得力のある議論は無くなってしまうのではないかと思うからだ。生きている限り、良いこともあれば悪いこともある。しかし、何かに打ちひしがれて悩んでいる人にとって、これから良いことがある保証などないが、死ねば良い悪いの価値そのものが FPV としては確実に消失するのだ。その圧倒的に確実な無をこそ望む人に、その願望が間違いだと言って、どうやって違う思考の可能性を示せるだろうか。

死という確実な無の方が良いと考えている人(ただし、生きていくのに窮している人の多くは発作的に死んでしまうこともあるため、ここでは自分の結論が本当に正しいのかどうか吟味してみるだけの冷静さを持っている人に限るのかもしれないが)に再考を促すには、どういう判断基準を提案して吟味してもらえばよいだろうか。まず、自分がこうありたいと望むことと、自分さえ良ければそれでいいということは別の筈である。そして、自分が望むことを達成できるなら他の何がどうなろうと構わないとまで、その人が頓着もなく割り切っているのかどうかを問える。人の死は他人を悲しませるとか、場合によっては自分の死のうとする行為が他人を巻き込んで、他人も死なせる可能性があるのだと想像させられるかどうかということだ。

それから次に、自然科学者、とりわけ生命科学者のエッセイでしばしば見かける議論として、生命という仕組みが成立するために必要だった自然の諸条件を考えたり、ヒトという種のそれぞれの個体として我々自身が生まれてくるまでに必要だった条件が満たされるために途方もなく低い確率での「幸運」が必要だったと説明する手段があろう。この世に生を受けて、こうして自分自身の死についてすら思いをはせているような存在として生きていられることの重大さを強調するわけである。よく、「生きているだけでもめっけもの」などと言われる理屈だ。しかし、この説明に説得力があるかどうかは、実はこのような説明を聞いている方の想像力や価値観に大きく依存するのである。そして、非常に低い確率で起きたことを、それだけで「幸運」だと解釈するような或る種の思い込みで納得してしまうくらいなら、そのような人は最初から人生そのものに絶望などしないと思われる。

あるいは、宇宙論的なスケールの論証を持ち出さなくても、次のように真摯に、そして力強く論じてもよい筈である。

[...] 生が内含しているそのような善きものは、幸福の条件であると同時に不幸の条件でもある。また、個々に生起する悪があまりにも多いために、ときにはそのような善きもののもつ価値など眼に入らなくなることもあるだろう。それにもかかわらず、その種の善きものは、それ自体としては巨大な恩恵であると広く認められているのである。思うに、このことが、たとえつらい人生であっても、生きることはそれだけでよいことである、という考えの意味するところであろう。事情は大略次のようなものであろう。それが起こることで人生がよいものになるような要因が存在し、逆に、それが起こることで人生が悪いものになるような要因も存在する。しかし、これら二種の要因を取り去ったとき、後には単に価値中立的なものが残るわけではない。残るのはあくまでも積極的な価値をもったものなのである。だからこそ、たとえ悪の要因に満ちあふれ、善の要因が少なすぎて単独では悪の要因を凌駕できない状況にあっても、やはり人生は生きるに値するのである。

[Nagel, 1989: 2f.]

宇宙論的なスケールで言えば、我々の誕生は一つの厳粛な偶然である。それどころか人類の進化や発生も偶然だったろうし、存在論的な観点に進むならば、宇宙の誕生という物理的な事実どころか、「ある」ということが成立したということ自体も偶然の結果だったと考えてよいだろう。このように我々が個々人としてこうして生きて、何かを考えたり担っているということは、数学としては確かに有限な範囲で計算可能な確率において生じた出来事にすぎないわけだが、他に比較する対象を思いつくのが難しいくらいの途方もない偶然の結果であることは確かだ。それに対して、いまのところ我々の死は一つの厳粛な必然である。何をどう喚こうと、いまのところは逃れられないだろう。そして存在論的な観点からは、どういう技術や医療を発明しようと、未来永劫においても個体として生存し続けたり、いや何らかの別の様態に「変換」したまま何かを維持し続けられたとしても、それが物理的に成立しなくなる状況へ至る可能性は常にあろう。このように非対称の厳粛な事実に向き合ってみると、なるほど生まれてきた事実を「幸運」と考えるのはたやすいし、死んでゆく事実を「不幸」だと考えることもたやすい。そして、生まれてきたことが幸運であるがゆえに(死ぬまでに)出来ることをやるとか、死ぬことが不幸であるがゆえに(生きているうちに)出来ることをやるというのは、それらを理屈として定式化しようがしまいが知恵として多くの人々に共有されている。このような、圧倒的な偶然と幸運、そして圧倒的な必然と不幸という非対称を弁え、どちらにしても抗いようもない圧倒的な摂理に挟まれながらも生きてゆくしかないという見識なくして死生観を論じるのは困難だろう。このような視野においては、もちろん我々は既に誕生という幸運は享受しているのだから、死という圧倒的な必然に対してどう生きて考えるかによって納得する他はない。本稿も、結局は FPV としてそういう意図をもっていると考える他はないのだろう。単に死への恐怖を哲学っぽく怖がるというだけなら、そのような自己欺瞞を抱えたまま生きてゆくのも気晴らしの一つかもしれないが、幸か不幸か、僕はそんなことで安心できるほど無能ではない。

また、生物学や宇宙論というスケールで生死を語る生命科学者らの多くは、「いまどう生きるかが重要だ」という心構えのような結論に議論を収束させたがる。しかし彼等と同じく進化や地質変動も含めて何千万年や何億年のスケールで考えてみると、自然科学者の議論は我々自身の無能や矮小さを知る人々によるセンチメンタリズムや無為の表明であるとも解釈できる。恐らく人類は、あと何年のあいだ繁栄するなり種として継続するのかは分からないが、遅かれ早かれ何らかの原因で衰亡なり死滅なりすると思われる。想定できる原因は数多く指摘されており、もちろん現代の宇宙論が正しければ熱的な死を迎えるかビッグクランチへ巻き戻るのだから、人類だけが宇宙とは別に生きながらえるなどということは(いまのところ SF 的な仮説を除いては)ない。この前提から始めるなら、生命科学者が論じている死生観には「人類が滅亡する時に自分はいない」という特別な前提が加わっているとすると、自分が死んだ後のことは絶対に他人事だからこそ、いま現在の自分の価値観に固執できるとも言い得るのだ。

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IX

thanatophobia を否定したり過小評価する批評の一つとして、自分が死んでゆく経過を体験することが「楽しみ」だと言う人がいる。このような人は、もちろん但し書きとして、その経過が痛みや苦しみを伴わなければと言い添えるのが常であり、それゆえ全く自分にはあずかり知らぬ将来についての単なる願望を表明しているにすぎないと考えられる。しかし、多くの事例において人は苦しんだり痛みながら死んでゆくだろう。そして、残された人々は「死によって当人はやっと痛みや苦しみから解放された」という詭弁しか言うことがなくなるという、僕からすれば悲惨としか言いようがない状況を残して、多くの人々は再び何事もなかったかのような生活に戻るしかなくなる。はっきり言っておくが、興味深い経験として死を待ち望んでいるなどという、世迷い事としか思えないことを口にしている人々というのは、死ぬまでの経過が穏やかであるための条件というものが、いまや大多数の場合においては金の問題に帰着するという事実を誤魔化しているのである。高度な医療を受けられる境遇だとか、凄惨な状況で死に瀕するような出来事に巻き込まれないとか、つまりは縁側で猫をなでながら静かに息を引き取る老人のような「漫画的」とでも言える印象を思い描いているのだろうが、そういう限られた者だけが享受できる条件を望ましい前提とした上で thanatophobia という心理を惹き起こすには及ばないと主張することは、本稿が必ず避けなくてはならない自己欺瞞というものの極致であろう。なぜなら、そういう「漫画的」な前提が無効の状況で自分がどうなるかを語ることを最初から避けているからだ。なぜ避けるのかと言えば、それはとりもなおさず thanatophobia が生じるかもしれないと最初から分かっていて、恐れているからだろう。

では次に、これから全身麻酔を処置する前の(全身麻酔のリスクに疎い、無頓着な)人々が示すカジュアルな態度のごとく、自分自身が死ぬということを気楽に、そして何も深刻ではないと信じることは可能なのだろうか。やや漫画的だと言いうるにしても、丸の内あたりの田舎者サラリーマンが残った仕事を非正規社員や下請け会社に丸投げしては「お先っ!」とか「お疲れっ!」などと軽快に職場を後にするのと同じように(その後で新宿のキャバクラへ行こうと自宅近くの保育園に行こうと、所詮は文化的田舎者の自意識プレイという意味では同じことだが)、死の間際において「お先ね」と平気で言える心境をつくりだすことは可能なのか。もちろん、僕は FPV でこんな心境にはなれないからこそ「つくりだす」ことが可能なのかどうかを問う。そして恐らく、このような心境なり態度をつくりだす経路や手法が存在しないなら、FPV において無自覚のうちに当該の心境に至る唯一の道は、恐らく或る種の麻薬を始めとする薬品の服用くらいしかないだろう。実際、ターミナルケアの一つの手段は麻薬の服用だからである。

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X

生命科学者を始めとする自然科学者の著作で頻繁に見かける議論として、宇宙のあらゆる次元における広大さや長大さとヒトという生物個体の有限性とを比較して、その圧倒的なまでの矮小さゆえにヒトは自然の摂理に打ち勝てないとして、中にはユーモラスと言ってもよいほどの論調で、個体どころか生物種としての存続に固執することすら愚かであると説く人々がいる。前野隆司さんの「自分の小ささを客観視する道」という論説も、この種の議論と同じ趣旨で展開されていると考えてよいだろう [前野, 2017: 209-222]。しかし、そういう比較によって thanatophobia を解消したり感じなくなるかどうかは、自明ではないだろう。なぜなら、概念としての無限と有限を比較しつつ、死によって失われる何かの巨大さ(それらは善悪や優劣の価値を含まなくてもよい)を想像する限り、その圧倒的な可能性を喪失することこそ thanatophobia を感じる一つの主要な理由だと言ってもよいからだ。もちろん、それは単なる論理的な可能性であり、物理的な可能性になり得ぬ妄想かもしれない。しかし、それを説得力をもって否定し、ヒトとしての有限さを自ら正しく理解するための議論やクリエーティブを考え出したり、世の中へ提供できない限り、thanatophobia に対する何らかの対処(解決や対策や処方)は、各人の思い込みや強迫観念に委ねられる他はなくなる。

また、自然科学者が生命科学に関連して通俗書を書く場合、自分自身がヒトという色々な意味で有限かつ無力な生体であるということを、敢えて事実というよりも「真実」として(つまり、多くの人が敢えて避けてきた何か大切なこととして)描写することがある。そして、そういう生体が FPV として「恐れ」という反応を実感したり、(生体という「意味」ではない)「自分自身」という何かが無くなるという想像について複雑な認知プロセスを惹き起こすことが、手元から放り投げた生卵が地面に落ちて砕け散る際に中身が一定の振動を起こすことと変らない物理現象であると強調する。個体としてのヒトの死は、その個体の生体活動の単なる停止である。それ自体について、当の生体が「怖がる」などという反応を事前にいくら惹き起こしても物理的には無意味である ⸻ なるほど。確かに物理的には無意味なのだろう。しかし、物理「学」ではなく物理としては自然現象に「意味」などないのは当然なので、いまのような論評が結局はただのトートロジーを繰り返しているだけに過ぎないのは明白であり、無関心のようなものを装う自己欺瞞の一種であるという可能性も拭いきれない。僕は、このような議論によって thanatophobia というものが FPV において「消失する」とか「解消される」などとは思えず、文字通りそのようなことを「物理的」にやろうとすれば、薬理的にわざと認知症を惹き起こすか、ロボトミー手術を施すか、あるいは全身麻酔をかけてから安楽死に至らせるしか手段はないと思う。

僕が生命科学者や生物学者の議論に、それぞれの学術分野の成果としては興味深い関心をもっていても、彼らの「生命」や「死」に関する議論(あるいは日本の生命科学の教科書がそうであるように議論を完全に避けること)を基本的に不愉快だと感じている理由は、彼らの手による通俗書のお決まりの展開として、ヒトの生体の生理的あるいは生化学的な仕組みや働きを描きつつ、死とは全くもって生き物にありふれた出来事にすぎないとか、個体の死には生態系としてこれこれの役割があると論じておきながら、巻末に近くなると、それでも我々の生(人生)には「意味がある」などと言い始めるからだ。生物学として論述することと、生物学「者」として論述することの違いを自覚しない著者の手による通俗書ともなると、その自己欺瞞のていどは悲惨とすら言える。

更に、生物学者や生命科学者による著作の中にしばしば見かけるのは、「死」を生物という仕組みや生物の種の保存にとって必要なことだという議論である。

遺伝子にとっては、後世に子孫が残っていくこと、つまり、自分の直系の遺伝子が殖えていくことは好ましいことである。極言すれば、個体は遺伝子が殖えていくための「乗り物」にすぎない。自分の遺伝子を持った子ども、さらに孫ができるような年齢になると、適当なところでプログラムどおりに死んだ方が子孫の負担は軽く、彼らも元気に生きていける。また、子どもや孫たちが元気でいるのを見ながら死を迎えることは本人にとっても得なことなのだ。

[日高, 2017: 181]

このような、不妊症患者の差別へと簡単に滑り落ちるような恥ずべき議論(あるいは自民党の陣笠議員が、何か重大な局面から国民の注意を逸らすために昔からやってきた観測気球的な暴論というパターンで LGBTQ の人々を「生産性がない」と扱き下ろした議論)は、日本の論壇でも長らくマスコミに重用されてきた高名な生物学者のものである。40代を過ぎて結婚した人々や、収入などの点から言っても子供を育てようがない人々が増えている昨今、こういう小市民的な(まさに昔なら「プチブル的」と罵倒されたであろう)偏見を生物学の成果と混同して論じるような手合いが、日本の自然科学者には散見される*19。もちろん哲学者である僕は、このように安っぽい議論が thanatophobia について何かを教えるとは全く考えないが、彼が麻酔や生物について解説している具体的な事実や成果は正当に評価したい。しかし、正当に評価できる議論に差し挟まれる含意があまりにも酷いので、こうして警告せざるをえない。僕は生命科学者や生物学者、あるいは自然科学者全般や医者による死や生についての議論は、理論的な成果を可能な限り取り除いた後の、学術的成果に差し挟まれた当人の偏見や思想を明確に分けて評価しなければ(一見すると客観的なことを書いているように見えるし、本人すらそう錯覚する場合があるので)危険だと思う。

*19この著作では、更にドーキンスの「ミーム」を次のように解している。

ミームを持つ点において、人間は他の動物とは違う。「個体は単に遺伝子のヴィークル(乗りもの)にすぎない」というと、「人間はほかの動物とは違う」と思いたがる人間の反発が必ずある。こうした意見に対して、ドーキンスは「ミーム」といういわば逃げを打ったのだろう。

[日高, 2017: 192f.]

もちろん大多数の人々は、ヒトが有限で脆弱な生物種の一つに過ぎないという事実を生物学や医学など勉強しなくても理解している。しかしそういう事実を説明しても、ヒトが(この手の下らない)生物学談義を紙に印刷して小銭を稼ぐといった瑣末な事例に代表される文明や文化をつくって継続できたのはなぜかということを、我々自身の認知能力において納得できるために(まさにヒトの文明の一つである学問によって)説明するということとは別なのである。そして、そのような認知能力を発達させた末に「意味」のような概念を使う伝達手段で「ミームという観念(個々のミームの事例ではなく)」がようやく成立する。よって、自然科学者にありがちな上記のような議論は、一見すると客観的で合理的かつクリアにものごとを理解しているような体裁に見えるが、自らを棚に上げて出版文化の是非を議論している書籍とか、PHP というプログラム言語が致命的に劣っているという非難を WordPress のブログで書いているデザイナーの類と同じである。そういう軽口が「意味」を為して出版社から発行され多くの人に読まれているのは、ヒトが文明や文化をもつからだという(実のところ自然科学者がまともに定式化したり説明できた試しなどない)事実に、彼らが経済的にも行政的にも、そして学問という文明の歴史においても完全にフリーライドできているからなのである

同様に、免疫学のウィリアム・クラークは上記と似たような議論を展開している。彼の著書から明解に示されている箇所だけを抜き出しても、次のとおりだ。

われわれ人間の身体も他の動物と違うところはない。われわれの体細胞はすべて老化して、やがては死ぬ。セックスは生殖細胞を救うが、「われわれ」を救うことはできない。ゾウリムシのような単細胞の真核生物では、セックスをすることによってその生物自体が若返るのであるが、それは、これらの生物では生物体と生殖細胞とが同義だからである。生物体(体細胞)DNA と生殖 DNA とが別の細胞に区分けされてしまうと、セックスは必須であり、楽しみでさえあるが、しかし決して体細胞に、つまりわれわれに若返りをもたらすものではない。

[Clark, 1997: 92f.]

体細胞、したがってその必然的な死が出現したのは DNA が生殖以外の目的で使われるコピーを作るようになってからである。このことはヒトにとってはどういうことを意味するのかというと、自分自身の生殖 DNA が次世代に伝えられるように、適切な数の生殖細胞が安全に自分を離れて生存することが確かになれば、残り⸺つまりわれわれの身体それ自身⸺はまったくの余計な荷物になってしまう。これが老化と死の生物学的な根元である。

[Clark, 1997: 124]

われわれ人類の DNA はウイルスの DNA に比べると、ちょっと自らについて自信に欠けている。そこで DNA は、正確なコピーをほんのわずかだけ次世代に伝えるという目的のために、数百兆のコピーを作る。身体を構成する全細胞をそれぞれに一セットずつ。次に、DNA は次世代に伝えられたコピー以外の数百兆のコピーを壊すように指令する。それがわれわれの死である。

[Clark, 1997: 182]

われわれは自分たちが単なる DNA の運び屋以上のものでありたい、たとえほんのわずかな間でもそうありたいものだと熱望している。それでも、体細胞はそれが昆虫の翅のものであろうと、人間の脳のものであろうと、各世代の終わりには死んでしまう。われわれはいずれ死を理解するようになるかもしれない。しかし次のような唯一、単純な事実は変えることはできない。自然の大きな仕組みのなかでは、体細胞の一部がわれわれ自身にとって、もっとも愛しく思うさまざまな能力をすべて含んでいるというようなことは、まったくとるに足らないことなのだ。

[Clark, 1997: 207]

クラークの文章に比べて、日本の生命科学者や生物学者や脳神経科学者による、生物個体の死の意味合いについて書かれた文章が軽薄に見えるのはなぜなのか。たいていは言葉や観念に捉われた雑文にしか見えず、せいぜいていどの低い僧侶が口にする、諦観のようでいて実はただの「考えないからこそ口にできる強がり」のように思えるのは、どうしてなのだろうか。

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XI

次に、既に指摘した「分からなさ」にまつわる不安と thanatophobia の関わりについて、同じ不安は生まれた直後の新生児にも言えるという議論がある。例えば、次のような事例を見てみよう。

胎児は、まだ言葉はあまりできませんが、出てきたときにだいたいギャーッと泣きますから、そのときにものすごく怖い体験をしていると思います。それは、われわれが漠然と死というものを考えていて、死のときには怖いにちがいないというふうに思っているのと、ちょうど同じくらい怖いんだと思います。体内から出たときというのは、そうとう環境が激烈に変わりますから、それはものすごく怖いことだと思います。ですから、人間がまるでほかの世界へ行ったみたいに怖いことというのは、たぶん人生で二回経験するので、それは生まれたときと、死ぬときだろうと思います。[...]

[中略]

死ぬということを漠然と怖いものだと思っているのは、それはただ思っているだけで、じぶんがほんとうにやってみたら、存外そうじゃないのかもしれません。究極的にはじぶんでじぶんの死はわかりませんから、ほんとうは怖いもなにもないわけです。〈死〉の構造はそういうふうにできています。それが死のいちばん根本にある構造ではないでしょうか。

[吉本 et. al., 1988: 13-16]

常識的な理解では、生まれてきた新生児は、お腹が空いたり、部屋が眩しすぎたり、暑かったり、背中が痒かったり、ウンコをしたり、ともかく快適で違和感のない状況に少しでも変化があれば、それを危険と感じたり不快を感じて泣くものだ。したがって、吉本さんがこれを雑に「怖い」とだけ表現することには同意しかねるが、状況によっては、確かに自分がどうなってしまうのか分からないという不安にもとづく恐れから泣く場合もあるだろう。したがって吉本さんが、これから起きることの分からなさに対する怖さ(の物凄さ)について、新生児と成人とが同じていどに怖がるという比較をしたくなる事情は分かる。しかし、彼の議論が述べているのは結局のところ強度の比較だけであって、その理由なり原因について何かを述べたり説明しているわけでもなければ、それらの内容を比較しているわけではない。「どちらも同じくらい怖い」と言っているだけなのだ。どちらも同じくらい怖いからといって、その怖さの原因が同じであるかどうかは分からないし、何について怖がっているのかも一致するとは限らない。上記の引用で略した箇所には「〈死〉についての怖さというのと、生まれたとき、あるいは〈誕生〉についての怖さというのは、構造は同じだろうと思う」と述べられているが、その根拠は(それらがどちらも「怖さ」だからというトリヴィアルな根拠、あるいは論点先取を除けば)示されていないのである [吉本 et. al., 1988: 14]。

この事例が示すように、死への恐れを否定したり軽視したり過小評価したり、あるいは一定の理解のもとでは恐れるに当たらないとする議論の中には、生まれてくるときの不安と死に臨んでの不安とを同一視して、どちらも自分自身が経験していないことへの不安だが(なぜかはともかく)恐れるには及ばないと述べるものがある。しかし、新生児はそもそも「不安」と呼べる心理を感じるものなのか。それは我々成人にとっての「不安」と同じなのか、あるいは単に新生児の心理学でもはっきりと分かっていないことに、差し当たりとして外挿しているだけなのではないか。もしそうであれば、新生児が不安に感じるという状況なり現象と成人が不安に感じるという状況なり現象とが「構造」において同じだと言われたところで、そんな比較ができる「構造」などあるのだろうか。僕には、このような出生と死の「対称性」だとか「類似性」と称される何事かに訴える議論は、一方において我々が確実に知っていて経験している「出生した後の人生」という後知恵によって、死んだ後について何事かを期待させる宗教的な願望や錯覚を惹き起こしてしまう自己欺瞞を誘うものでしかないと思う。そして、そもそも出生と死が構造において類似していようと対称性をもっていようと、それがいったいなんだと言うのか*20。このような議論は、少なくとも僕自身においては thanatophobia に対して何の効力もない。

*20更には、そもそも「〈誕生〉についての怖さ」と「〈死〉についての怖さ」には、トリヴィアルと言い得る類似性や対称性しかないのではないかというのが僕の意見だ。仮に両者に類似性があるとすれば、それは「宿題を忘れたときに先生にどれだけ怒られるか図り知れないという怖さ」との類似性でもあり、あるいは「自信満々でセットアップしたサーバの設定が、後から酷い間違いだったと知ったときの取り返しがつかない怖さ」との類似性でしかない。寧ろ、我々は死について考えたり想像することを、こういうトリヴィアルな事例との類似性を押し付けることで、あたかも一過性の心配のようなものと扱えるようにしてきたのではないのか。実際、僕自身もこの箇所を書いたり修正した後は、仕事や他の用事に関心を移すことだろう。

また、この手の議論に付随する想定として、哲学であれ思想であれ宗教であれ、ともかく死について何事かを弁えたり納得したり悟るということは、つまるところ経験できない筈の自分自身の死について何か特別なことを理解するということなのだとされているようである。そして、それが「真理」であれ「事実」であれ、あるいは何と呼ばれる観念であろうとも、それを死に先立って了解することこそ、いわゆる「死の練習」と言われる一つの達観なり到達点のように思われている節がある。恐らく、そうした観念のうちで最も手軽で分かり易いものが死と出生の比較なのであろう。もちろん、これもまた馬鹿げた錯覚であり、事例によっては気の毒だと言ってもよいが、総論としては死の恐れについて冷静な思考を維持できなかった末に生じた自己欺瞞や自己催眠や自己暗示の結果でしかないと評しておきたい。

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XII

本稿を拡充する一つの道筋として、もちろん死生観や生命に関心を持つ人ならご承知のとおり、デイヴィッド・ベネターの反出生主義(anti-procreation)をどのように評価するかという問題に取り組むのは、恐らく自分自身の死を考えるために有益だろう。自分自身の死、あるいは死すべき運命というものが、FPV において認知できる最も強烈で絶望的な予想なり事態であるとすれば、そもそもそういう感情を惹き起こすような生体としての構造と機能と入力条件をもたらした外界の物理的な事実、個別的な発生プロセスや一般的な進化プロセス、そして哲学としては究極と言える存在論的な根拠に「別の仕方でもありえた」と言いうる根拠があり、別の仕方では上記のような認知内容が少なくとも成立しないのであれば*21、そちらの方が好ましいと考える人がいてもおかしくはない。これだけ死について恐怖を感じたり、自らだけではなく家族の死についても思い悩まなければいけないくらいなら、こんな世界は無かった方がいいのではないかと、この世界の存在論的な根拠そのものを「憎む」というスタンスがあっても不思議ではない。自らの死について FPV としての耐え難い不安に押し潰される人の中には、どうして宇宙は(「どうして神は」と言う人もいるだろうが、結局のところ同じである)誕生し、数々の元素を始めとして惑星や生命を作り出し、自意識を成立させるような進化を促し、そういう個体を再び生み出す生殖機能と発達をもたらしたのか。そんなことがそもそもなかったなら、こんな思いはせずに済むというわけだ。

*21自らの死を、逆に最大の幸福だと感じるような認知プロセスの生体があってもいいわけだが、実はそういうスタンスは単なる錯乱との区別がつかない。もちろん人によっては一つの逃避行動として、特殊な処方薬や覚醒剤を使って自ら命を絶つ場合もあるからだ。

死に際して進行する認知プロセスの多くが「臨死体験」として証言されるような恍惚感を伴うことから、例えば [立花, 2018: 128] では、死んでゆくプロセスを FPV として正確に理解することで逆に死は怖くなくなると述べている。しかし、それをそれぞれの人がどう解釈するかは各人に委ねられているのであり、科学としてどういう結論が出ても各人の解釈を強制できるものでもないという。それは、或る意味では肯定するべきことなのかもしれないが、或る意味では無知による不安から死を無闇に恐れるという態度へと人を駆り立てる余地を残すということでもあろう。

とことん有限であり、宇宙を支配する法則に比べれば微力としか言いようが無い、少し奇妙なサルの個体が何を言おうと、しょせんは無駄である。死すべきものは死ぬし、どういう根拠であれ既に(存在論的・存在的という二重の意味で)存在して何ごとかを認知しているものが、何をどう怖がろうと同じことだ。僕は明々後日の7月3日に大腸の内視鏡検査を受けるが、麻酔の事故でそのまま死んでしまう可能性もある。麻酔薬を注入された後は、何をどうしようと自分自身では何もできないのであって、死生観も哲学もヘチマも無い。しかし、だからといって自分自身をゲームの主人公のように「あーあ、死んじゃった。教会でリセットかよ」などと扱うわけにはいかないのも事実だ。FPV であれ自意識であれ、たとえそういうものを生み出した世界を憎もうと、それ自体が自分自身の認知能力がもたらす結果だからである。それならば、自分が物理的に許容される何かとして存在してしまっている状況を、考えられない確率で起きた不幸として恨んだり憎んで一生を終えるよりも、まさに全く同じ確率で起きた幸福として理解するように努める方が、そのような世界に対する憎しみのようなものを少しでも和らげるだろう*22

*22本稿では、こう考える方が「親御さんにとっても、あなたを産んだことを後悔させずに済む」とか、こう考えさせる方が「自暴自棄になって犯罪を企んだり発作的に暴力を振るう者が減る」などという理由を持ち出すことは控えたい。そう考える社会的な理由や効用というものは、もちろん哲学をやっている者にとっても無関係ではないが、哲学的に言って考慮に値するかどうかは自明ではないからだ。やはり哲学するということは、人としての良識や人倫をひとまずは脇へ置くような思考でしか厳密かつ妥当に遂行できないと思う。

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XIII

この節で扱うようなテーマを一つの章節で議論できるとは思えないが、本稿の範囲(どういうわけか「射程」と言いたがる人が日本に多いのだが、何の比喩なのだろうか。無意味に軍事用語を使いたがる三流経営学者と同じく、「概念の高射砲」でもどこかへ撃ち込みたいのか)をあらかじめ述べておくために概略として話を切り出しておく。死への恐れという観念(もちろん RPV つまり認知の仕組みとして扱うなら概念でもある)を正確に FPV として理解するための論説を組み上げようと思いついた際に、すぐさま論点として含めようと思ったわけではないのだが(もちろん単独で論じるべきことだと思っていたからでもある)、やはり多くの方にとっては強い結びつきがある議論に思えるだろう。それは、不死という観念である*23。古来より、死にたくないという感情とは別の不死という観念は多くの権力者や成金、あるいは文化人によって想像されてきたし、昨今では「(技術的)特異点」や「シンギュラリティ」という流行語によって、テクノロジーを盲信する人々や IT ベンチャー企業の経営者たちが、先進国のカーゴカルトとも言うべき状況にあって、AI を利用した創薬などにより生物学的な不死を達成するだとか、あるいは脳科学とニューロ・コンピューティングによってヒトの意識を別の物理的なデバイスに「移して」不死を達成するといった SF: scientific fantasy を、小規模なセミナーや大規模なカンファレンス、あるいはテレビ番組や出版物で普及させようとしており、果ては専門の研究機関や「大学」を名乗る団体まで設立して展開している。

*23この宇宙がヒトの生存できる条件を維持したまま無限に存続するわけではないという知見を受け容れるなら、不死は世界のいかなる特性や事実にも該当しない。よって、これはヒトが想像しているだけのことがらなのだから、観念でしかありえまい。逆に言って、不死をどのように理解しても、この宇宙がヒトの生存できる条件を維持したまま存続する限りにおいて妥当するといった制約が不死の必要条件だと言い得る根拠は何もないので、たとえ宇宙がビッグクランチを迎えたり熱的な死へ至るとしても、制約条件が成り立たなくなるまでは妥当するのだから不死は「概念」であると言ったところで、そのような有効期限のある概念など哲学として重要とは思えない。もっとも、そうした有効期限が切れる時点まで、何事かを哲学的に有益かどうか思い悩んだり、そうした有効期限が切れる様子を実際に観測したり観察できるような存在者が宇宙に存在するかどうかは怪しいが。

不死は、自然において一定の条件が満たされれば成り立つ事象に対応した概念ではなく、そういう条件とは無関係に我々が想像しているだけの観念である(もちろん「想像する」という認知プロセスそのものは概念によって説明できる自然現象だ)。こうした区別には厳然とした根拠がある。僕ら自身の命つまり生体なり意識としての存続に(社会的な価値はともかくとして)どれほどの主観的な価値があり、自分では自分自身や肉親の命が尊いと思っていても、地球が急に色々な厄災なり天変地異に見舞われて、ヒトどころか地球上の生命が全て死滅する可能性は幾らでもありうるのだ。僕は床に入って寝ようとするとき、稀におかしな想像をしてしまうことがある。たとえば、いまこの瞬間に宇宙の仕組みに変化が生じて等方性が失われ、宇宙の全ての物質が宇宙の底へ向かって(実際にはヒトが使うどんな観測機器でも検知できないくらいの僅かなスケールで)落ちて行っているとしよう。これから僕らの社会が、どれほどお互いに愛を語り、肉親や他人に助力を尽くしつつ、安らかで有益な人生を送れる素晴らしいものに進展していったとしても、やがて数百万年後には無視できないほどの影響が宇宙の全ての領域に生じて、全ての生物は死滅してしまうかもしれない。たとえ人類に並外れた科学・技術があって、「落下」に逆行するロケットのようなものをどれほど開発しようと、宇宙の全ての物質が「落ちてくる」のを避けて上昇したところで、先には何もないのだ。そこにあるのは逃れられない死滅である。どれほど我々が「善い人」であろうと、それは生物としての何らかの特性のことではあるまいし、ましてや何らかの物理的に特別な性質のことではありえない。善良な人間になったからといって 100 m を 1 秒で走れるわけでもないのと同じく、善良な人間になろうとなるまいと宇宙の全ての物質を巻き込む破壊的な変化には何の抵抗もできないし、そういう破壊的な変化の影響を被らずにやり過ごせる「宇宙論的優待パス」とも言うべき、逃げ道への切符など存在しない(ここでも、並行宇宙へ逃げるという可能性は無視する)。僕には、こういう非対称性(“supervenience” という業界用語はあるが、あまりよい訳語がないので、意味の一部を共有している概念の訳語を使っておく)は、あからさまな自然主義を奉じたり唱えるかどうかはともかくとして、否定することが難しい事実だと思える。もっと簡単に言えば、どれほど「善い人」であろうと、どのみち死ぬのだ。したがって、生の尊さは死ぬまでの尊さであり、それがいつまでなのかを決める基準がないなら、これは単なる同語反復にすぎない。とは言え、これを決める基準は自然の特性のうちには見つけられないだろうし、自然の特性を記述する概念によっては定義できない。死は厳然たる自然現象として記述しうる生命活動の停止だが、その限界条件(いつまで生きていることが尊いのか)は、もしそれを不死の観念によって想像だけで無限に延長していくことが何らかの意味で理想的であるなら、自然の特性ではないからだ。

もちろん、個々の研究成果や提言・提案の中には、哲学として、そしてもちろん個々の専門の学術研究分野において厳密かつ正確な検討に値する知見も多くある(たいてい、偽科学や代替医療やカルトも前提の一部だけは正しかったりするものだ)。しかし、自分の死という非常に大きなリスクを伴う検証実験しかできないような仮説のゲームにおいては、色々な分野の研究者が関われるので新しい発想を呼び込むという効用がありうる(それこそダイバーシティだ)のと同時に、素人やアマチュアやカウンセリング関連の山師、そして無能の学術研究者や見識ある文化人ヅラした物書きどもが簡単に参入できてしまうという脆弱性がある。現在のところ、僕の所見では、そうしたイカサマ師や無自覚な無能研究者や見識の足りないアマチュアを排除するために一定の要件を満たした人々からなる学術研究コミュニティのようなものは成立していないと思うし、そういう学術コミュニティを形成するためにどういう要件を満たすべきかについて納得できる議論を展開している人物も殆どいないと言ってよい。(そもそも、不死を実現するためにシンギュラリティなど必要ないと言っている人もいる。)

不死という観念は、自然科学の範疇においてはもちろん、思想としても何千年の昔から殆ど洗練されていないと言える。もちろん、このような実状の理由として、単に死にたくないという情念だけで観念を弄ぶ無能が何をどれだけ書こうと無意味であったという当然の事情もあるだろう。そして更に、このような観念を厳密に検討しようとすると、遅かれ早かれ、このような観念を精緻に考察したり論述することに何の意味や効用があるのか、だんだん分からなくなってくる人が多いのかもしれない。なぜなら、少なくとも宇宙の行く末に関する宇宙物理学者の予測を真面目に受け止めるなら、定常宇宙論を支持するのでない限り、宇宙は冷え切って熱的死を迎えるか、もしくは収縮に転じてビッグクランチに至るのだから、生物的どころか物理的に存続することすら不可能な状況に至るので、不死が自然において一定の特性で描写しうる概念ではなく、我々が想像する範囲での観念でしかないのは明らかだからである*24。あるいは、並行宇宙なるものに脱出して生き続けるといったファンタジーを追加の仮説として導入することも可能だとは言え、そもそもこういう御伽噺を思い描いているあいだに自分自身は死んでしまうのだろうから、このような考察が自分自身に資するところは何もないと言える。つまり、自分が何かを頑張ったら不死になれるなどということはありえない。たとえ頑張って何かの自然科学ないし医療や応用技術のエキスパートになったとしても、それだけで自足的に、全く他の誰の成果もなしに不死が達成できる見込みなどなかろう。更に、他の必要と思われる成果を出してもらうために、科学技術への支援とか教育に関わる政策を推し進めたり、特定の研究機関に対する税制上の優遇措置や公的補助や寄付をたくさんの人に協力してもらうとか、そうした活動をアメリカの IT 成金のようにやれる人がどれだけいるだろうか。もちろん、やみくもに寄付したり支援していては色々なリソースが無駄になるので、やはり原則に立ち返って不死とは何を実現することを意味するのかを厳密に考えなくてはいけないのだろうが、実はそれは現時点での科学や技術の成果という所与を前提にすることでしか考えられないものなので(たとえ考えた結果が現時点の成果の枠内に留まらない新しいアプローチを導入していても、所与の成果と全く無関係ではありえない)、どういう意味にせよ不死を実現するために必要な理論的あるいは概念的に十分と言い得る水準にまで、我々の科学や思想が達していない可能性がある。確かに、このような限界は、もちろん認知的クロージャとは違う。しかしながら、もし不死の観念に「意識の(FPV における)存続」という必要条件があるなら、認知的クロージャによって意識が何であるかを原理的にヒトが理解したり納得できない可能性があるまま、意識を存続させると称する医療や技術のプロジェクトを公に繰り出してみても、それらのプロジェクトに誰がどういう見込みでコミットすればいいというのだろうか。

*24不死が観念であり、この宇宙で成立することは物理的にありえないとすれば、もし我々が不老不死ならどうなるのかという一連の議論は、どう展開しても観念を操作しているとしか言えなくなる。もちろん、それとして正しく自覚していればアナロジーや思考実験としての効用はあるかもしれないが、無自覚に概念だと見做して死や生存と同等に物理的に可能な一つの状態であるかのように議論することは、全くの混乱だと言える。たとえば、ネイグルと共に、生存という状況を奪われたり失うこと(“deprivation or loss”)が死であり、死はそういう生存状況の喪失ゆえに悪なのだと考えてみる。加えて、そういう生存の時間が長いほど良くて、短いほど悪いとすれば、不死によって我々は最大の善と最小の(つまりはゼロの)悪を享受することになるのだろうか。これに対して、ご存知のようにバーナード・ウィリアムズは不死を退屈であり精神の死であるとして、必ずしも不死が最大の善になるとは限らないと論じるのだが、不死は死や生と同列に論じうる物理的な状態ではない。我々は、不死とはどういう状況のことなのかを全く理解していない可能性があるのだ(もしこの宇宙の終末に際しても、何らかの超物理的な手段で死を回避できるなら、もはやそんな状況や手段を概念として定式化することは、現時点の自然科学の知識や哲学の概念操作や・・・マンガ的あるいは SF 的な想像力を使っても困難だろう)。このような事例も、“ethics in, ethics out” の論点先取にすぎない。

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XIV

死に関する古典的な論説に含まれる個々の議論や論点を丁寧に取り上げてみよう。既に本稿でも引用したネイグルの「死」という論文は、次のような論点についても検討に値するだろう。まず、死が悪であるのは、死によって達成され成就する何らかの積極的な事柄によるのではなく、死によって奪われたり失うような、生存という状況それ自体の(あるいは生きていることで為しえる何かの)価値ゆえにであるという仮説を立てる。すると、剥奪されるとか失う(“[de]privation or loss”)ということ自体に困難が生じるとネイグルは述べる。

[...] 何ごとであろうと、ある人にとって積極的に不快であることなしに、その人にとって悪い事態であるようなことがありえようか、という疑問が立てられうる。もっと立ち入って言えば、可能性としての善きものが剥奪されることにのみその本質を置き、誰かがその剥奪に嫌悪感をもっていることには基づかないような悪というものがありえようか、という疑問である。

[Nagel, 1979: 4; 1989: 6]

たとえば、制度的な差別が放置されていても該当者に自覚がなくて不快に感じていなければ、そういう制度を悪いとは言えないのだろうか。誰かが周囲の人間から陰口を叩かれていても、当人に特別の不利益がなく嫌悪感も感じていないなら悪いと言えないのか。ここで注意しておきたいのは、ネイグルの論説では本稿の用語で言う RPV の観点で死や死の良し悪しを論じているため、この「悪」とか「不快」とか「嫌悪感」という語句は全て誰かが感じることであって、それが客観的に言って妥当であるかどうかとか、自然の性質に対応する何らかの特性を表しているかどうかは分からない。ここでネイグルが問うているのは、死によって剥奪されたり喪失する対象だと見做される、生存することの「望ましさ(desirability)」というものは、それを被ったり担うべき当人において自覚され理解されている必要があるのかということであろう。もし、望ましさに生存本能のような生物として生得的な水準と言えることがらが含まれないなら、幼児や重度の認知症を患う高齢者には死によって奪われる何かの望ましさが分からないのだから、少なくともそういう人々において、つまり当人の FPV において死は善悪の判断の対象ではなく、恐れるべきものでもない(もちろん、周囲の人々にとってどうなのかは別だ)。しかし、それは当人の FPV において恐れるべきものとしての死が自覚されたり理解されていないということだ。あるいは、死によって奪われる何ごとかだけでなく、それを剥奪されるということ自体の良し悪しが判断できないか、判断するための基準がなく、そもそも物事の善悪を区別する動機が存在しないということでもあろう。

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XV

前野さんの著作で冒頭に紹介されているが、死を恐れる人と恐れない人とでは水掛け論にしかならないのだろうか。仮に以下のような会話を想定してみよう。

死ぬのは怖いわ。なんでかって、自分ちゅうもんの意識が無くのうてしまうんやから。

死ぬときに何が起きるかということには同意するけど、でもそれが怖いとは思わないな。だって、その「怖い」と思う自分自身の意識が無くなるんだから。

いや、そうなるまでのあいだは怖いやろう。

まだそういう事態に至っていないからなぁ。それに、事故などで急に死んだら怖いも何もないしね。

そやから、どうなってもええように、「死の教育」とか終末期医療のケアがあるんやろう。

もちろん時間があれば慌てたり悲観するだろうけど、しょうがないじゃん。現段階で治しようがない病気は幾らでもあるわけで、あと何千年の時間が経過しても、人類が病気や老化や死をどうにかできるとは思えないよ。そういう不可能なことと比べて悲観しても無意味だね。だから、何かを教えてもらうとしても、遺品の処分とか言伝とか何をしておいたらいいのかを教えて欲しいよ。心のケアなんて、亡くなった人を見すぎたせいで自分自身のカウンセリングとして哲学や宗教にハマった看護士やカウンセラーの自己催眠や気晴らしではないの。余計なお世話だね。

でも、慌てたり悲観はするんやろ。そら親しい人と別れるのは最大の悲しみやろう。それ以外に何を恐れることがあるんやろうか。

うん。悲しいのは同意するけど、でも怖いということとは違う。悲しいだろうし、何日も泣くかもしれないけれど、怖がってどうなるのさ。怖いと喚き散らして何になるっていうんだい? それで病気が治るわけでもなし、何にもならないよ。いや、そのせいで精神が崩壊したら怖いも何もなくなるのかもしれないけどね。実際にそういう悲惨な最期を遂げた人の話は本で眺めたことはある。でも、そういう悲惨な最期を遂げる方が恐ろしいよ。死ぬまで時間が残ってるのに、いま自分がどういう状況なのか、あるいは自分の家族のことも誰が誰なのか分からなくなってしまうわけだから。

そうや。どういう人やろうと、最後の段階にはそうして段々と物事が分からんようになるんやろう。その前に意識が無くなるかもしれんけど、そのこと自体が怖いとは思わへんのかな。

自然なことだったら、もうそれは仕方ないと思うね。そして、それを今から恐ろしいと言っててもしょうがないし。

単純にしょうがないとだけで済ませられるんかな。死んだら燃やされるんやで。もう取り返しがつかへんやん。途中で生き返るとは思わんけど、もう身体として消え去ってしまうわけやから。それこそ「無」やな。無くなるって、そら怖いやろ。なんで怖ないのかが分からんわ。

うーん。殺されるのは怖いよ。死んでゆくのも、怖いかもしれない。でも、死んでしまうという将来とか運命とか生物としての限界というのは、人が何をどうしても変えられないことじゃないか。それをわざわざ取り上げて喚いたところで、何も建設的なことはないと言ってるんだよ。そんなことが動機で医者や科学者になっても不老不死が実現するわけないし、病気を治せるとも限らない。そして、僕自身について言えば、死ぬのが怖いからといって、これから勉強して医者や科学者になるのかって話だよ。完全にナンセンスだね。そんなことにクヨクヨしたりおののいて自然の成り立ちや法則、あるいは運命に腹を立てる方が馬鹿げているよ。

でもなぁ、ニック・レーンとかの本を読んでも、どう見ても怖いちゅう感情を自分で鎮めるために、わざと無機質いうか冷酷な筆致で書いてるようにしか見えへんねん。テーマが酸素やろうとミトコンドリアやろうと、必ず本の最後に「死」という一章をもってきてはるけど、あれこそ自己催眠やと思うんやけどなぁ。君がいま言うたような、いかにも自然科学者とかが言いそうな仕方の割り切り方っちゅうのにしても、ホンマは怖いのをわざと淡々と自分に言い聞かせるように喋ってるように聞こえるねん。まるで病人の傍で聖書を読んでる牧師や。それが悲惨に思えるんやわ。

いや(笑)。別に無理にこう考えたり喋ってるわけじゃないよ。でも、こう考えることで整理はできるね。それが本当は怖いからなのかどうかと言われると、それはもう僕自身には分からないよ。カウンセリングでも受けてみないと分からない。

そしたら、改めて聞いとくけど、まず何かが恐ろしいとか怖いという感情はあるわな(笑)。人間やし。で、死ぬということがどういうことかも、お互いにおかしな宗教に帰依してるわけでもないんやから、科学的ゆうか客観的な意味については共通の認識があると考えてもええわけで・・・

ねぇ。でも、死ぬとはどういうことなのかについて、本当に僕らは科学的に分かってるんだろうか。というか、客観的には、それこそ脳死の話題をめぐって色々な分野で何十年という議論の蓄積があるわけだけど、それでも医学や生理学の問題としてだけ判断すればいいというわけでもないよね。例えば脳死を確定するために二回の判定が必要で、二回目は一回目から6時間後に判定するから、最短でも脳死かどうかの判定には6時間かかるわけだけど、不可逆性の判定に6時間の間隔でいいかどうかは自明とは言えない。特に幼児については二回目の判定まで24時間以上を空けるらしい。それに、そもそも脳死判定された後も心停止せずに生命活動が維持される事例がたくさんある。すると、死ぬということについて他人の価値観とか現在の科学の成果という制約から離れて議論できるのは、実は僕たち自身が自分の死をどう体験するかってことだけじゃないのかな。となると、君が恐れおののいている「死」の観念ってなんなのだろうって思うんだよね。それは、君が被る死を本当に意味しているの? 僕にはそれが分からないんだよ。まだ死んでないし(笑)。だから、分からないことに恐れおののくのは馬鹿げてるとも思う。終わることが、宗教に帰依してる人たちが言うような素晴らしいものだとは思わなくても、少なくとも恐れおののくような体験ではないという可能性もあるのでは?

それは、そう思いたいというだけちゃうか。論理的にありえることを並べたら、そら幾らでも違う可能性はあるわ。死ぬプロセスが途方もない幸福感をもたらす可能性もある、ゆうわけやろ。でも、実際には多くの人らはそんなプロセスは経てない。死ぬときは家族と別れる悲しみの方が強く残るような人も多いわけや。もしヒトっちゅう独特の生き物の認知内容である主観として、死ぬプロセスに特定の感情の抑揚を惹き起こす作用みたいなもんがあるんやったら、誰にでもそういう作用がある筈やないのか。よって、可能性に頼る反論だけやと、なんで、恐れおののくような体験ではないような最後を迎える人と、そうでない人の違いがあるのかが分からんわ。或る人は恐怖に打ちひしがれつつ死んで、別の人はそうでもなく死ぬ。その違いが分からんのであれば、僕や君がどちらの死に方をするのかも分からんやろう。その分からなさこそが怖いとは思わんのかな。

ということは、君も死ということがどういうことなのか、実際には分かっていない、特に自分の主観としてどうなるのかは分からないということには同意するんだよね。

うん。それはそうや。その分からなさも怖いっちゅう理由の一つやからな。

そして、自分の主観において最後に自分がどういう心持ちになるのかも、前もっては分からない。そうだね。

そう。わからん。そして、死ぬゆうことは、自分自身がそうやって死んでゆくときに何かを感じてるちゅう認知能力そのものが失われる、要するに無になるいうことやから、それが怖い。

うん。でも、最初に話が戻るようだけど、その怖さも失われていくわけだよ。つまり怖くなくなっていくプロセスでもあるとは言えないのかな。

うーん。たぶん、ここでまた話が元に戻ってるような気がするゆうことは、僕は死にたくないゆう思いが強くて怖いという話をし続けてるからなんかもしれへんな。

そうね。僕は、死ぬのは避けられない、どうしようもないということから出発してる。もちろん僕だって死にたくはないよ。明日までの命だと言われたら、そりゃ酷く狼狽はするし悲しい。でも、そういうことになっているのであれば、どうしようもない。それが60年後なのか明日なのかという違いは大きい。もちろん大きな違いなんだけど、しかしいずれにしても最後は同じなんだ。

すると、死ぬのが怖いと思ってる僕らのような人にとっては、どうしうるんやろうか。読書とかでどうにかなるとは思われへんし、何かの「解決」なんてあるんかいなと思う。もちろん、僕が生きてる間に不老不死どころかアルツハイマーの治療すら進展せえへんとは思うけど、どうしたら割り切ったり諦められるんやろうか。そのうえで、真面目に生きていく心積もりとかができるようになるんやろうか。いっそ、いまでも怖いわけやし、何かの薬とか脳外科手術で感情を抑制するような処置を受けた方がええんかなとすら思うわ。

いや、そんなことは望まない方がいいよ。僕が思うには、死ぬということについて、人によって色々なことを感じたり考えるということ自体が、それぞれの人の多様な生き方の原動力になると思うんだよ。怖いからこそどうするとか、怖くないからこそどうするとか、人によって受け止め方が色々とあって、それに応じて人生観とかが変わることに何か意味があるように思う。もちろん、社会学者ぶって俯瞰したところで、死ぬのが怖い人にとっては何の慰めにもならないかもしれない。それは君と話してよく分かる。でも、恐らく人はどのみち死ぬのだし、死ぬまでにこういうことを何度も考えるんだろう。そして考えた挙句にどう生きるかということにしか答えはないと思うんだ。でなければ、敢えて逆説的に言うけど、死ぬのが怖すぎて死んでしまうような人になりかねない。

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XVI

このような考察や論考は、そもそも何かの「境地」や「悟り」が目的なのだろうか。

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XVII

thanatophobia を強く感じる機会の一つは、もちろん葬儀の前後だろう。今月の初旬(2018年10月)に母親が亡くなったのだが、病院で遺体を見たときや火葬場で母親の骨を見たときに、僕は改めて thanatophobia を感じた。蓮如の「白骨の御文章」さながら、昨日の夕方まで生きていた人間が、翌日の朝には「遺体」となっている。家族の誰も臨終にいないまま亡くなっており、当人がどういう最後を迎えたのか知る由もない。そして、肉体は二日後には所定の手続きに従って火葬の扱いを受けて消失する。FPV としては既に認知機能は停止しているため、FPV として怖いとか痛いとか焼かれて熱いとか、そんな感覚や観念はない。しかし、遺族にとっては遺体を目の当たりにしているという点で実体としての対象は存続していたものが、火葬が終わると幾つかの骨だけとなる。これも確かに本人の一部ではあるが、一部でしかないということも事実であり、本当に不可逆的な段階に至ったのだということがはっきりと分かる。ここから後は、宗教上のストーリーなりミームのような疑似社会科学の理屈なり、あるいは遺伝学に訴えるセンチメンタルな気休めが幾らでも語られるのだろう。僕も社会人としての節度においては一定の儀礼的な対応をするのが望ましい。しかし、そのようなことで thanatophobia が、死んでしまった当人にとって納得ゆく何かで消えたり和らげられるわけでは断じてない。既に当人は死んでしまっており、FPV も納得も何もないからだ。

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XVIII

幾つかの論説とかエッセイからの引用とかを読んでいると、やはり現在のところ thanatophobia に対する最強の反論は、「《死ぬ》のは怖いかもしれないが、《死》は怖くない」というものになるのだろう。死ぬ、つまり死んでゆくプロセスは痛かったり辛かったり悲しかったり恐ろしいかもしれないが、死、つまり死んでしまえば痛いも辛いも悲しいも怖いもヘチマもないということだ。これは伝統的にエピクロス派の倫理として知られている考えに近く、論理的には、確かに反論の余地がない。死、つまり死んだなら怖いとか恐ろしいと感じる主体がそもそもなくなるのだから、後はどうなろうと(皮肉を込めて言えば)死んだ者の知ったことではないというわけである。ということは、thanatophobia は死に対する恐怖(つまり死んでしまうという絶望的な将来についての恐れ)というよりも、死んでゆくプロセスがどうなるのか分からないという不安であり、それがいつのことなのか分からないという不安なのだろうか。そして、thanatophobia に対する唯一の処方箋があるとすれば、それはやはり限りある命をどうのこうのという自己欺瞞ではなく、自分が死すべき運命にあることを諦めるということしかないのだろうか。

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XIX

これまで少しずつ言及してきたように、死を扱う議論において最も強力と思われるのは、エピクロスの議論であろう。

[...] 人間の霊魂にとっての最大の動揺は、霊魂が諸天体をば、至福なものであり不死のものであると判断しながら、しかも同時に、意志だの行為だの動機だのという至福や不死とは正反対のものをもっているかのように判断するところに生じるのであり、また、神話の物語るところにしたがったり、あるいは、死んで感覚の失われること自体をあたかもわれわれ人間にかかわることででもあるかのように思って恐怖したりなどして、死後に果てしなくつづく恐ろしいことを、たえず予期し懸念するところにも生じるのである。また、霊魂の最大の動揺は、それがこのような判断をすることによってばかりでなく、或る不合理な勝手な妄想をいだくことによって、そのような恐ろしいことを予期し懸念するにいたるところに生じることもある[、]この場合には、それゆえ、この恐ろしいことに何らの限界もつけないでただいたずらに妄想するがため、人間は、さきのように判断することによって恐ろしがる場合と同じほどの、或いはそれ以上でさえあろうところの動揺を受けることになる。だが、心境の平静とは、これらのすべてから全く解放されていることであり、全般的でしかも最も重要な事柄をたえず記憶していることである。

[Epicurus, 1959: 39f.; “[、]” は Unicode に存在しない「ナカテン」という中間的な区切りを表す記号の代用である。本来は白抜きの読点である。]

以上は「ヘロドトス宛ての手紙」という文書の終わりに近い一節である。「死後に果てしなくつづく」という表現があるとおり、ここでは既に人生とその(前)後を直線状のシーケンスのようなものとして捉えているように思える。そして、人の生涯は死んで感覚の失われる時点までの ●=====● といった閉区間のように想定されている。それに比べて(もちろん、エピクロスはこういう想定や想像を否定しようとしているわけだが)、死後は ●=====●----------- [...] --- という比較するにも動揺を覚えるほどの無である。しかし、このような比較は間違っており、「アタラクシアー」とルビが振られている心境の平静においては、このように不合理な想定からもたらされる霊魂の最大の動揺はないという。

これに対して、心境の平静を得るためには、現前する感情と感覚に注意を払って、「人々を極度に恐怖させているあらゆる事柄にかんしてその原因を研究することによって、霊魂の動揺と恐怖とのよって生じ来った原因を正しく究明し、この原因をわれわれ自身から遠ざける」ことが重要なのである [Epicurus, 1959: 40f.]。すると、エピクロスが感情と感覚に注意を払って、死の恐怖という動揺の原因を見出さんとするとき、そして例の有名な議論(「メノイケウス宛の手紙」)を展開するときに、そこでは立論に必要とされるどのような set-up が成立しているのだろうか。

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未完

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暫定的な所見

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参考文献

Eben Alexander

2018

プルーフ・オブ・ヘヴン』, 早川書房(ハヤカワ文庫NF, NF515, 8131), 2018 (1st., 2012).

臨死体験そのものは全く信じていないが、そのような議論の一例だけでも知っておく必要はあると思って、ちょうど新刊として発売された本書を一読した。もちろん臨死体験に関する僕の結論なり評価は本書を読もうとぜんぜん変わらないが、宗教や SF やゲームやアニメ(そして或る種の哲学)をはじめとして、ファンタジーに埋没してしまいたくなるヒトという生物の弱さというものは、確かに thanatophobia の一つの要因なのかもしれない。
William R. Clark

1997

死はなぜ進化したか⸺人の死と生命科学』, 岡田益吉/訳, 三田出版会, 1997 (1st., 1996).

本書の「死」は進化によって獲得された死だけではなく、延命治療や脳死という話題において決められる死も意味している。よって、邦訳の題名だけで、死が進化によって既に獲得された生命現象であるというという過去完了のニュアンスと、死が現在進行形の概念であり進化の途上にある(社会が決める死について「進化」という言葉を使っていいかどうかはともかく)というニュアンスの両方を読み取るのは非常に難しいが、一読した後であれば、よく考えられた秀逸な書名だと分かる。
Daniel Clement Dennett III

2002

解明される意識』, 山口泰司/訳, 青土社, 2002 (1st., 1991).

土肥修司

2015

麻酔中の意識と記憶」,『日本臨床麻酔学会誌』, Vol.35, No.1 (2015),pp.001-014.

Epicurus

1959

『エピクロス 教説と手紙』, 出 隆・岩崎允胤/訳, 岩波書店(岩波文庫), 1959.

林 悠

2017

林悠准教授インタビュー:「睡眠とはこのためにあったのか」と、誰もが納得する答えをだしていきたい -前編-」, IIIS Blog, (April 27th, 2017); https://blog.wpi-iiis.tsukuba.ac.jp/2017/04/27/1/ (accessed on November 21th, 2017).

Yu Hayashi, Mitsuaki Kashiwagi, Kosuke Yasuda, Reiko Ando, Mika Kanuka, Kazuya Sakai, and Shigeyoshi Itohara

2015

Cells of a common developmental origin regulate REM/non-REM sleep and wakefulness in mice,” Science, Vol.350, No.6263 (November 2015), pp.957-61.

日高敏隆

2017

人はどうして老いるのか』, 朝日新聞出版(朝日文庫, ひ 4-3), 2017 (1st, 1997).

Jules Howard

2018

動物学者が死ぬほど向き合った「死」の話』, 中山 宥/訳, フィルムアート社, 2018.

まず本稿のテーマについて「参考になる」著作を求めている方には、お勧めしない。本書は生物の死体にかかわる「他の生物の行動や反応」に焦点を当てた著作であり、FPV の観点は「怖い」といった感想の他には殆どない。自分自身の死について感じたことの説明よりも、寧ろアンチエイジングのイベントに出かけた際に発したパニック障害の方が詳細に描かれているくらいだ。そしてきわめつけは、帯に書かれた「死なないように進化できないのはなぜか?」という問いを始めとする進化論や生理学に関する議論の殆どが、恐らくはニック・レーンの著作を読めば済むようなことしか書かれていないという点である。
池田清彦

2006

脳死臓器移植は正しいか』, 角川書店(角川ソフィア文庫, 332; 角川文庫, 14289), 2006 (1st., 2000).

井上昌次郎

1999

睡眠科学の基礎」, 第4回「睡眠科学・医療専門研修」(日本睡眠学会第24回学術大会), 1999.

Elisabeth Kübler-Ross

2001

死ぬ瞬間 ― 死とその過程について』, 鈴木 晶/訳, 中央公論新社(中公文庫, キ51), 2001(1st., 1969).

前野隆司

2017

霊魂や脳科学から解明する 人はなぜ「死ぬのが怖い」のか』, 講談社(講談社+α文庫), 2017(1st., 2013).

本稿で取り上げている幾つかの論点は、「はじめに」でも書いたように本書を読んで設定している。通俗本ゆえに個々の議論は雑で何の根拠もないが、論点を設定するよい参考にはなった。
森岡正博

1991

脳死の人 生命学の視点から』, 福武書店(福武文庫, も0501), 1991(1st., 1989).

Thomas Nagel

1979

Mortal Questions, Cambridge University Press (Canto edition, 1991), 1979.

1989

コウモリであるとはどのようなことか』, 永井 均/訳, 頸草書房, 1989 (1st., 1979).

本書は [Nagel,1979] の翻訳。なお、本稿では「ネイグル」と表記している(ついでに、科学哲学者の Ernest Nagel はドイツ人なので、本稿で彼に言及する機会はないと思うが、僕は彼の名前は「ナーゲル」と表記するようにしている)。
中島義道

2001

哲学の教科書』, 講談社(講談社学術文庫, 1481), 2001.

冒頭、第一章で「死」について議論されている。2018年3月10日に(おかしな言い方だが、積読してあったのを)自宅で見つけて目を通してみたところ、大森荘蔵やネイグルらの見解が紹介されており、本稿の内容と大きく乖離した着眼点ではないことが分かる。話題を提供するだけの本なので、中島さん自身の議論は殆ど展開されていない。よって、本稿を読んでもらえば本書の第一章を読む必要はないと思う。
鈴木貴之

2001

デネットの意識理論?」, 『哲学の探究』, No.28, 2001, pp.113-125.

立花 隆

2018

死はこわくない』, 文藝春秋(文春文庫, た 5 25), 2018 (1st, 2015).

元になった単行本に対するアマゾンのレビューには辛辣な意見も多いが、実際に一読すると本稿で論じているスタンスと意外に近く思えたし、通読するだけなら1時間もあれば十分なほど異様な活字の大きさには驚いたが(笑)、読み応えはあった。僕が本稿で対話形式を使って「人はどのみち死ぬのだし、死ぬまでにこういうことを何度も考えるんだろう。そして考えた挙句にどう生きるかということにしか答えはない」と述べたが、やはり死生観や死生学の議論がおおむねそうであるように、本書も最後は「どう生きるか」に戻る。そして、最後は死を当然のこととして受け入れ、気にしなくなるというものらしいので、本稿のような議論は、まだまだ若造のものということになろうか。ただ、東大で勉強したのは何度も語られているものの、ウィトゲンシュタインの言葉を引く典型的な一知半解のレトリックなどを見ると、ご自身では東大哲学科の教員くらいは勤まると自負しておられるようだが、我々のような哲学者には程遠いと言わざるをえない(もちろん資格が必要だと言いたいわけではないが、何が哲学教員と哲学者を分けるのかに気づく力は必要だ。そして、この違いは優劣でもなければ何かの進度でもない)。
Lev Nikolayevich Tolstoy

1973

イワン・イリッチの死』, 改版, 米川正夫/訳, 岩波書店(岩波文庫, 赤619-3), 1973 (1st., 1886).

Giulio Tononi and Marcello Massimini

2015

意識はいつ生まれるのか 脳の謎に挑む統合情報理論』, 花本知子/訳, 亜紀書房, 2015 (1st., 2013).

Mark Twain

2017

人間とは何か』, 大久保 博/訳, 角川書店(角川文庫, 20261), 2017 (1st., 1906).

上田一作

2006

麻酔の作用機序 麻酔研究50年の蓄積』, 真興公交易株式会社医書出版部, 2006.

渡辺恒夫, 三浦俊彦, 新山喜嗣

2017

人文死生学宣言 私の死の謎』, 春秋社, 2017.

自分自身が死ぬということをあからさまに哲学や生命倫理の議論として展開する立論を模索した本と言ってよく、本稿を書き始めてから書店で見つけて感心した。もちろん内容は個々に批評するべき点が分かれるけれども、既存の死生学や死の思想や生命科学が人(あるいは個体としてのヒト)の死と称して実は他者の死だけを論じる自己欺瞞に陥っているという指摘には、文句なく共感できる。
柳澤桂子

2010

われわれはなぜ死ぬのか 死の生命科学』, 筑摩書房(ちくま文庫, や33-2), 2010(1st., 1997).

吉本隆明, 竹田青嗣, 芹沢俊介, 菅谷規矩雄, 川上久夫, 田口雅巳

1988

人間と死』, 春秋社(シリーズ〈「生きること」と「死ぬこと」〉), 1988.

1987年に神奈川県逗子市で開催された連続講演会の記録を元にしたアンソロジーだ。竹田さんが「核爆弾か事故で突然死ぬのが理想」と奇妙なことを書いているのが気になる。(もちろん、苦痛なく急激に死ぬ原因として脳や心臓の急性疾患などご存知だろうに、なぜわざわざ核や事故を必要とするのかが理解不能だ。)
養老孟司

2004

死の壁』, 新潮社(新潮新書), 2004.

本稿は冒頭で述べたように学術論文ではないので、本書のような通俗書で展開される通俗的な議論も敢えて参照した。どうして通俗的な議論や凡庸な思考や我々の観念には、あれやこれやの限界や弱点があるのか。それを知ったり、自分たちの認知能力の限界をわきまえるために、このような通俗書の議論は「押しピン」のような役目を果たしていると思う。もちろん学術的には何の必要も価値もない著作だが、こうした通俗書を現に読む人がいるという事実を無視して公衆に持論を問うのは、独りよがりというものだろう。

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