死を恐れるということ

Takayuki Kawamoto

Contact: takayuki.kawamoto [at] gmail.com

ORCID iD iconorcid.org/0000-0002-7867-2654, Google Scholar

初出: 2017-10-20,
改訂: 2018-01-10, 2018-02-03, 2018-03-06, 2018-03-10, 2018-03-12, 2018-03-18,
最終更新: 2018-04-22.

はじめに

以下の内容でお分かりのとおり、このページで僕は学術論文を書くことは目的としていないので、既に分子生物学なり死生学なり精神医学で色々な成果があるのは分かっていても、まずは僕自身が何をどう考えたかを一つのケースとして公表することとした。これが、誰かの役に立つかどうかは分からないし、万一役に立ったとしても何らかの精神状態の一例として参照されるだけかもしれないが、少なくとも僕自身の考察として公表することにも何ほどかの意義はあろうと思いたい。

もともと本稿は、死と生について考えてみようと思い当たり、雑文の寄せ集めとして書き始めた文章ではあったが、途中で前野隆司さんの『霊魂や脳科学から解明する 人はなぜ「死ぬのが怖い」のか』を読んだことがきっかけとなり、特に thanatophobia(本稿で説明している意味での)だけを取り上げて論じることにした。なお、本稿は今後も追記したり推敲を重ねていく予定なので、ローマ数字で節を表してはいるが、既存の文章に新しく文章を追加する可能性があるため、II と III の間に新しい III が入り、それまでの III が IV に、そしてそれ以降の節を順番に改めてゆくかもしれないので、このローマ数字が特定の議論と対応関係をもつという想定で本稿を扱わないよう、ご承知おき願いたい。

memento mori Wikimedia Commons contributors, "File:Memento Mori (8577784015).jpg," Wikimedia Commons, the free media repository, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?title=File:Memento_Mori_(8577784015).jpg&oldid=233775388 (accessed March 7, 2018).

I

人々は、自分には心的イメージ、苦痛、知覚体験、およびその他もろもろが備わっていて、しかも<こうした>事実――人々が自分の信念を表明するときに、みずから信念を通じて報告する当のことがらをめぐる諸事実――は、心をめぐるどんな科学理論でも当然説明してくれるはずの現象だと、明らかに信じている。そこで私たちは、こうした現象に関する自分のデータをまとめて、理論家のフィクションに、つまりはヘテロ現象学的世界の「指向的対象」に仕立て上げる。そしてこのとき、このようにして描き出された品目は、はたして脳のなかの――さらに言えば、魂のなかの――現実の対象、出来事、状態として、実在しているのかどうかという問いが、それ自体探究されるべき一つの経験的問題となるのである。もしもこれだといった具体的候補の実態があらわになれば、私たちはそれらを、長いこと求めてきた、被験者の言葉に当たるものと認めることができる。もしもあらわにならなければ、なぜそうした品目が被験者には実在するように思われたのかを、あらためて説明することが必要になる。

[Dennett,2002:124f.]

僕は、何かをきっかけとして死を恐れることもあるが、実はそれは錯覚かもしれないと漠然と感じるときがある。どちらにせよ、僕にとっては蔑ろにできないことではあるから、そろそろ少しずつでも論考としてまとめておきたい*1。とは言え、ターミナル・ケアに携わる人々や終末期の医療を受けている当事者を始めとして切実な状況に置かれている人々にとっては、どういう意味合いにせよ死を「課題」などと余裕をもって取り扱う心境にはなれないかもしれない。もちろん、それぞれの人が置かれている状況を無視して気楽な思弁を展開することが本稿の目的なのではない。本稿は、あくまでも(いまこうして書いている現状では、ひとまず死に瀕してはいない)僕にとっての考察であり、そうである他はないとだけ注釈しておく*2

*1死への恐れと、それが錯覚かもしれないという感じ(念のため書いておくが、ここで「錯覚」と書いているのは、死への恐れが錯覚によるものではないかという意味であって、死すべき運命にあることを錯覚だと思っているという意味ではない。それこそ明白な錯覚だろう)の双方について、僕が興味を惹かれる脈絡や理由は、それぞれ違っているかもしれない。また、それぞれそう感じる生理的な原因も違っているかもしれない。更には、それぞれそう感じるということついて興味をもつ生理的な原因も異なる可能性はある。しかし、そうした違いがあろうとなかろうと、僕にとっては自分なりに幾らかでも考えておきたい課題であることに変わりはない。

*2しばしば、誰かの参考になるかもしれないという期待を込めて、このような文書を公にする理由を書く場合はあるが、妄りに公表された文書は他人の思考を不当に混乱させる可能性もある。僕は、思索の成果を公表すること自体に何か無条件の効用があるなどと考えてはいない。したがって、一定の責任として、このような文書は何度も繰り返して(たぶん死ぬまで)推敲しなくてはならないと思うし、何らかの正当な理由があって僕が納得すれば、本稿を取り下げて公表を止めるべきだとも思う。

いずれにせよ、死について考え始めると色々な問いが出てくるものであり、このように自分自身で恐れたり不安を覚える死とは何であろうか、そして死を恐れるということはどういうことなのだろうかという問いに、僕は強い関心を持ち続けている。なぜ僕を含めて多くの人々は死を恐れたり、可能であれば幾らでも先送りにしたいと望むのだろうか。他の人々は僕と同じように死を恐れたり不安に感じるのだろうか。それとも人によって恐れ方や不安にも色々あるのだろうか。逆に、「もうそろそろ死んでもいい」と気楽に言っているように見える人々の心境とはどういうものだろうか。それは、死を恐れる人々が手本にするべき態度なのか、それとも一つの錯乱を示す症例と見做して無視した方がよいのだろうか*3。しかしながら、そういう判断はそもそも客観的な指標によるべきなのだろうか。もし、錯乱だろうと正当だろうと当人にとってさえ納得できればよいという基準が全てであれば、他人がどう言おうと自分で納得して心穏やかでいられたら十分であり、人には、生存権があるのと同様に、たとえ錯乱していようとそのまま死んで構わないという意味での権利があるのではないか。また、僕が錯乱していようといまいと死について何かを感じている状況について、何らかの論証や説明を読んだり、自ら想像したり推論したり、あるいは誰かから説得してもらえば、それがどういう意味にせよ「なんとかなる」ことになるのだろうか。つまり、このような思索の目的とか最終地点を考えられるのだろうか。このような論考で、僕は死への恐れを含む何かについて「大したことない」などと安心したり達観したいのか、それとも死への恐れが増幅される可能性を承知しつつ何かを弁えたり心得たいと思っているのだろうか。そもそも、死とは、それがどういうことなのか当人が正確に知っているからこそ怖いものなのか、あるいは正確に知らないからこそ怖いものなのか。そして、このような場合に僕が感じているのは恐れなのか、不安なのか、それとも別の何か特殊な心境なのだろうか*4

*3世の中には、死は恐れるに及ばないという趣旨の本がたくさんあって、何もスピリチュアル・カウンセリングのヒーラーや宗教家や小説家だけが書いているわけではなく、生命科学の研究者や哲学者も死は怖くないという趣旨の文章を書いている。当人がそうして納得していれば、それはそれで結構なことかもしれないが、当人にとっての結論をいきなり書名で見せられたところで仕方がない。誰しも人は弱いのだし、多くの人がたぶん(僕と同じようにかどうかはともかく)死について恐れや不安を感じているだろう。しかるに、怖くないという何か都合のよい理由があれば、それにしがみつきたくなるのは平たく言って「人情」というものである。そして、世の中の数多くのカルトや詐欺師というものは(自分が他人を騙していることに無自覚な人々も含めて)、そういう人の弱さに付け込んでしまう。しかし、いくらそんなものを「読書」したところで納得できるわけがないだろうと思える根拠は、死を恐れるには及ばないと自分自身や人を納得させる決定版とも言うべき論証が人類史に存在しないというトリヴィアルな事実を指摘するだけで十分だろう。

*4僕は、本稿の全体を通じて、僕自身の考察において必要とされるまでは「人が生きたり死ぬということの意味」について問うことを慎重に禁じたり避けるという方針を採っている。このような話題について考察する際に多くの人が陥りがちな(と僕には思える)誤りは、安易に「~の意味」を想定して、例えば「僕が死ぬということには、どういう意味があるのか」という具合に議論を展開してしまうことである。しかし、これは僕が死ぬということについて所定の範囲で考えたり議論するという枠組みを簡単に外してしまう呪文のようなものであり、もちろん外すことに一定の価値や正当性はあるが、それは飽くまでも一定の条件が満たされた末に他の枠組みが必要だと判断できる限りにおいてである。そして、実際には既存の枠組みだけでなく他の枠組みも参照して考えるという条件を指定できるなら、意味など持ち出さなくても、今度は生化学として、あるいは社会学の観点から死を考えるという具合に進むだけでよい筈なのである。そのような枠組みを理解していないか、既存の(自分が知っている範囲の)枠組みに飽き足らなければ、そこで必要なことは、第一に何が不足しているかを特定することである。つまり、考察を進めて論点を更に展開したり、あるいは逆に自分がそう考える根拠を定めるべきであればそうするだけでよいのであって、「意味」という何か不特定の目標みたいなものがどこかにあると仮定する必要はない。そして第二に、不足していることが或るていどは特定できたのであれば、端的に言って知らないことは学ぶべきである。手持ちの知識や情報だけを組み合わせているうちに、まるでジグソーパズルのごとく「意味」という絵柄が最後に確定し、もし自分が生きているうちに絵柄が確定すれば、その絵柄について自分自身が十分に疑問の余地なく納得できる筈だなどという仮定は、哲学する者として完全に間違っていると思う。

さて、次節からの議論を始めるに当たって、あらかじめ幾つかの注意事項を述べておきたい。まず、本稿が改訂を続けたとしても全く相手にしない議論というものがある。例えば、死について凡人が往来で交わす議論のうち、これまで建設的な成果が誰のプライベートな日記や手紙や告白でも報告された試しなどない、いわゆる早熟自慢だ。この手のたわごとは、要するに学歴とか身分に関するコンプレックスから口にされることが多く、「そういうことは中学で卒業だろう」などと軽口を言うのは、たいていホストとか IT オタクとかネトウヨとか成金の大学生とかヘゲモニーの獲得に必死なリベラルどもとか、要するに何の資格も証明もなしに「マウンティング」と呼ばれるレトリックを弄する連中である。僕は、本来はこの手の無意味な議論を本稿のような論説でわざわざ取り上げるほど暇ではないが、それなりに多くの人が同じような話を聞かされているのは事実であり、しかも哲学や倫理学のプロパーが表立って批評したことが殆どないために、市井の人々の中で声が大きいというだけの無根拠な自信に溢れた自己啓発セミナー講師や新興宗教の勧誘員やマルチ商法の企業経営者みたいな連中と同類のクズどもが、レトリックだけで多くの人々を説き伏せてしまっていると思える。もちろん、死や死への恐れというテーマは誰もが関心をもちうるものである。したがって、本当に中学生の頃に何かを考えたという人物がいても驚くには当たらないが、やはり謬見や思い込みを避けるには一定の努力が必要なのであって、言ってみれば中学生(しかも、その中学時代に世界中の大学や研究機関からオファーを受けるような成果を挙げたわけでもない凡庸な子供)が考え終わったていどの地点など、はっきり言えば誰でも後から追いつき追い越せるような、教科書で言えば「単元のまとめ (1)」ていどでしかない。そして、その手の早熟自慢は、誰にも証明できない「死について考え始めた年齢」というものを参照するのだが、そのこと自体に議論を正当化するような根拠はない。死について幼児期に考えていようと、あるいは老人ホームに入居して『超訳ニーチェ』を読んでから考え始めようと、愚かな議論を弁解することはできないし、一定の説得力がある議論を更に確証するわけでもない。

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II

カイウスは、実際、死ぬべきものである。したがって、彼が死ぬるのに不思議はない。しかし、自分にとっては、無数の感情と思念をもったワーニャにとっては、イワン・イリッチにとっては――ぜんぜん別問題である。自分が死ななければならぬというようなことは、しょせんあり得べきはずがない。それはあまりに恐ろしいことである。

[Tolstoy,1973:61f.]

まず僕に言えることは、僕は僕自身が死ぬのは怖いと感じるということだけだ。僕は、他人が死について(それが他人自身の死であれ、他人が感じる僕の死であれ)どう感じるのかを、個々の人物に成り代わって考えたり表現できるとは思えないし、そこからの外挿と思われる一般的な話についても、僕が何か答えられるとは思えない。確かに、他人の死を伝えられたり自分で目の当たりにしたとき、僕は悲しいとか惨いと感じる。しかし、それは飽くまでも誰か他人が亡くなったという事実について、当人からすれば別人である僕が事後に感じることなのであって、他人にとっての終末を別人である僕が代行することは不可能なのだから、他人の代わりに当人にとって死ぬこととは何かを感じたり考えることと、他人が当人として感じたり考えることが同じだとは言えないだろう*5。更には、他人にとってであれ自分にとってであれ、或る人が亡くなるということについて、死んでしまった当人が亡くなった本人として何かを感じたり考え得る可能性もない。そのような可能性を想像してみても、しょせんは空想的な条件を仮定し、論理的に可能だというだけで言葉と概念を弄ぶことと同じである。あるいは、それは「あの世でも自分の死を恐れたりするのかどうか」という錯乱した想像(僕にはそうとしか思えない)と同じ矛盾である*6

*5或る人物にとって何かを感じることと、他人にとって何かを感じることの同一性は、仮に第三者の観察から何かを言えたとしても、お互いに相手の立場から判断しうるわけでもないという困難があるため、どのような条件が立てられようと「『私は』そうは思わない」という批判に打ち勝つことは難しい。もちろん、しかるべき意味や条件における両者の同一性を、論理的に不可能だと否定したいわけではない。コウモリどころか、同じ人間にあって誰それという他人であることはどういうことなのかすら、僕たちはどのように理解すればいいのか分かっていない。しかし、だからといって原理的に理解不能だと言い得る根拠もないであろう。

*6ましてや特定の誰とも関係のない一般的な死を恐れるということがどういうことなのかを理解するのは困難だし、「死なるもの全般を恐れる(to fear for the deaths)」という表現は、僕にはカテゴリーミステイクとしか思えないのである。もちろん、自分が死を概念として思考の対象としているという状況とか、自分が死について何か一般的な内容を考えている事実から、何かを恐れる感情が引き起こされるのは確かだろう。しかし、その場合でも、考えていることが自分自身にも当てはまる筈だという仮定を伴うからこそ怖いと感じるのである。ましてや僕自身どころか誰か他人の死でもなく、更には生きている何かが死ぬという事実ですらない、死という概念を恐れることは意味を為していない。

そこで、僕が僕自身の死を恐れるという意味だけに限定して “thanatophobia” という言葉を採用しておこう(もちろん本来は、臨床死生学や発達心理学ではもっと適用範囲が広い言葉である)。最初に指摘できることは、僕は常に thanatophobia を感じているわけでもなく、thanatophobia という感じ方には或る種の強度や深刻さという違いがあるということだ。もちろん、いつでも thanatophobia を感じていては日常生活や仕事など手に付かなくなるし、落ち着いて眠ることすらできなくなるかもしれないが、いまのところそういう深刻な状態には至っていない。具体的には、小説やテレビで生き物や人が死ぬ場面を観たり、生きているものの死という条件を置いて初めて語りうるような話題を口にしているとき、そして本稿のような論考を進めているときには、thanatophobia を感じることはある。しかし、食材(それは、たいてい死体である)についてありふれた会話ができなくなるとか、死に関する論考を進められなくなるほどゾッとして怖くなったり憂鬱になるとか、そういったことはない。

thanatophobia について次に指摘できるのは、それが必ず自分自身が実際に死ぬよりも前に起こる不安や恐れだということだ。つまり、まだ死んでいない当人であるからこそ感じたり思うことなのである。何をきっかけとしてこのような恐れや不安を感じるようになるのか定かではないし、thanatophobia を感じるケースによって原因や様態は違うのかもしれないが、少なくとも僕自身が死んでしまうよりも前にしか起きないことだという点は動かし難い。逆に、thanatophobia を感じるということは、僕がまだ死んでいないと自分自身で思える一つの証拠だとも言える。もちろん分析哲学ではお馴染みの BIV (brain in a vat) の議論など知らなくても、自分自身がまだ死んでいないと思えるということが錯覚である可能性は残ると考える人はいよう。しかし、少なくともいまの僕は自分自身の思うところが錯覚だとは考えられないし、そういう錯覚を作り出す巧妙な仕掛けがあったり、もしくは『省察』に登場する狡猾な悪魔がいるなら、僕がそういう仕組みや悪魔に気づけないのは、それらの巧妙さや狡猾さゆえに当然だろう。しかし、少なくとも僕の思う範囲で何か重大な不整合が生じるわけでもない*7

*7ここで、巧妙あるいは狡猾に仕組まれた状況設定 (set-up) さえあれば、既に死んでしまっている人が主観としてはいまだに生きていると感じるかもしれないと仮定してみよう。そして、その当人が主観において認知すること全てが、そういう状況設定の可能性についての真偽に関わらず同じままで維持できるなら、高校の教科書でもお馴染みの『荘子』に出てくる「不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与」というフレーズに underdetermination を認めざるを得ないのと同じく、単に僕自身が thanatophobia を感じるというだけでは、その「僕自身」がスーパーコンピュータ上に構成されている何らかのシステムが出力しているデータとシステムそのものから成る状況のことであるかどうかを決定するには足りないとも言い得る。なんとなれば、僕が何についてどう思ってみても、「そう作られている」と言われたら、それに対して「僕が思うこと」を証拠にして反論しても堂々巡りになるだけだからだ。

ところで、これは由々しきことだろうか。もちろん、このような議論によって「どう考えてもよい」などと結論づけることは僕の意図に反しているし、そもそも作り物の知能だったとしても僕自身が納得できない。なぜなら、thanatophobia が本当にスーパーコンピュータ上で実行される一つの処理、もしくは何らかの処理を実行した際の副作用であろうと、それが分かったところで thanatophobiaスーパーコンピュータ上で起きなくなるわけではないからだ(もし、実行すれば二度と thanatophobia が起きなくなるような、そんな歯止めになる特別なコマンドでもあるなら教えてもらいたいくらいだ。いや、thanatophobia は起きなくなる方が「良いこと」なのかどうかすら、まだ分からないが)。

更に付け加えておくと、このような議論もまた、僕が支持している “cognitive closure” の概念を分析するための手掛かりになると思う。もし何らかの巧妙な仕掛けによって心のはたらきや意識が成り立ちうるとかもたらされうるのであれば、その「によって」という仕組みやプロセスを物理的に記述することで hard problem が解決すると考える人もいよう。しかし、thanatophobia が神経細胞のこれこれの働きで起きる現象だと言われたところで、それが神経細胞の働きそのものなのか、神経細胞の働きから起きる何かなのか、それともそうして起きたところの何かを主観的に捉えたときの何かなのかは、その説明だけでは分からない。そして、hard problem が “hard” である理由とは、まさしく「何が答えになるのか」という条件が分からないことにあり、hard problem に対する一つの答えと見做される cognitive closure のポイントとは、その条件を特定したり固定できないかもしれないということにある。

そして、既に十分に述べてはいるが、thanatophobia は僕自身の死について僕が恐れるということなので、thanatophobia について考えるということは、thanatophobia の客観的な意味について考えたり、誰か他人の死や他人にとっての thanatophobia を想像したり考えることではない。これをはっきりさせるために、ここで僕がいま論考している際の一人称的な観点と、それ以外の全ての観点とを区別して指示するために “FPV” 及び “RPV”(the first-person view vs. remote-person view, 遠隔操作の視点を表す用語として、それぞれ “FPV,” “RPV” と略称される)という言葉を導入しておこう。FPV は、そのときの認知内容を処理する観点であるから、これを経て文章としてここに何かが書かれているときには、既にそれを書いている観点は FPV ではなく、自分自身がどう思ったり感じたのかという記憶について、RPV として記録したり説明していることになる。あるいは、FPV において感じたり思ったことによって惹き起こされ、ここで何かを書いているまさにそのときに FPV において認知している、別の感情や感想や印象を記録したり説明していることになる。どういう意味合いにせよ、そうして作られた文章は、他人が読むにせよ自ら読むにせよ既に RPV において理解するしかない。つまり “FPV” とは一人称的な観点という概念を指しているわけではなく、僕が或るときに何事かを感じたり恐れたり楽しがるという具体的な状況を指している*8。そして、まず本稿で僕が問うているのは、FPV で僕自身が納得できる thanatophobia の説明がありうるかどうかなのである。概念の解明としてどれほど筋が通っていようと、FPV で僕自身が納得できないままであれば、それこそ僕にとって死よりも難しい謎が残ってしまう(これから議論していくが、死そのものは実に簡単なことでしかなく、哲学者が議論したり考察して説明したり定義するようなものではない)。そして、それが解明の間違いによるわけではなく、僕自身の愚かさや不勉強によるのであれば、そういう愚かさや不勉強を解消したり乗り越えることも、僕が生きる目的の一つになりうる*9

*8ここで、個々の場面に FPV で僕が感じたり思うことと、それを RPV で自ら理解したり解釈したり思い出したり記述するということには、どういう違いや関係があるのだろうか。

まず、FPV で僕が感じる thanatophobia と、thanatophobia の概念とのあいだには、トークンとタイプとの対比や、特殊的なものごとと一般的なものごととの対比が考えられる。もちろん、個々に FPV で惹き起こされる thanatophobia が「thanatophobia というもの」として一般化しえない独特の恐れであれば、僕は thanatophobia を感じるたびに thanatophobia1, thanatophobia2, thanatophobia3, ... などと記述しなければならなくなる。しかし、そもそも、それらがどういう添付数字を付けていようとも thanatophobia のバリエーションであるとどうしてわかるのか。それは、既にこういう対比について考えていること自体が RPV の観点で考えたり語っていることになるのだという事実によって説明することができる。もちろん、僕は個々の場面に FPV で thanatophobia を感じる。しかし、それが thanatophobiax であるのか、それとも別の何か特殊な、つまり今まで感じてきた一連の thanatophobia1~n とは区別しなければならない独特の感情や感覚であるのかは、僕にも正確なところは分からないのである。そもそも分かっているなら、本稿のような論考は不要であろう。ひとまず、僕が “thanatophobia” と表記している際に僕が FPV において念頭に置いていた感情や印象あるいは思考が、トークンとしてそれぞれ異なるのは当然としても、それらが何らかの基本的な特徴によって等しく “thanatophobia” と書かれるべきことがらであるかどうか、あるいは等しく “thanatophobia” だと考えられてしかるべきことがらであるかは、僕自身にとってすら保証の限りではないとだけ保留しておきたい。

私たちが被験者に向かって、あなたのいまの言明は、あなたがいま体験していたことがらの究極の真実を十分尽くしているかどうかと尋ねたところで、私たち部外者にくらべて被験者の方が優れた立場にいるわけでもないのである。

[Dennett,2002:293]

*9強調しておくが、本稿のような論考を経て thanatophobia について僕が何かを納得したからといって、そこから直ちに死ぬことを諦めるとか割り切るという結論は出てこないであろう。

次に、thanatophobia を FPV において僕が確実に感じられるのは、もちろん(上記の定義から言っても)僕自身の死についてのみである。thanatophobia が、いまこうして FPV で感じたり考えたり思いを巡らせている僕にとって(それが、可能なら薬などで消し去るべき何かであれ、あるいは一定の正当な理由があって生じている何かであれ)特定の説明や推論で納得できるためには、もちろん「僕自身」とか「僕の」という表現で意味する何かが FPV で僕にとって明瞭に理解できなくてはならない。そこで、「僕自身にとって」という表現について分かるのは、僕自身というのは端的に死を恐れている当の何か、あるいは主体や主観などと呼ばれてきた何かだろう。

もちろん、ここから即座に「死を恐れるという感情をもつような何かであるからこそ、我々は死を恐れるのだ」とか、“Timeo, ergo sum”(我恐レル、故ニ我アリ)と言ってみたところで、このような表現は見かけの再帰的な表現から受ける複雑な印象で何か深遠な意味をもっているかのように人を誤解させることはできるが、厳密に思考する者には殆ど何の効力もない。差し当たっては、FPV で感じたり納得するという段階で済ませておけば、それが何らかの(もちろん錯誤はありうるとしても)自意識や主体によるのかどうかを決定しないままにしておいてもよい*10。そう考えると、thanatophobia を FPV で感じるという経験だけでなく、そのことを「意味合い」として自分自身で RPV で振り返りながら納得するということも、全て僕の認知能力の限界内で僕が RPV で理解したり納得するという経験を目的にしているということだ。これは、僕自身が納得できなければ仕方がないという主観的なスタンスの話をしているだけではなく、恐らくヒトの認知なり認識について客観的に、つまりは一般論として当てはまるような話でもあろう。なぜなら、いまのところ恐らく我々の誰一人として、何かを理解したり納得するときに自分自身の脳で起きている現象を自分で観察しつつ「ああ、これがしかじかについて僕が『納得』しているということだ」と指で示せるわけではないからだ。もっとはっきり言えば、仮に意識なるものが脳の何らかの物理的な現象なり作用であるとしても、僕らはそれを痛みや空腹のように自分の脳で起きている神経細胞の反応としては自覚しないのである。thanatophobia が脳で起きる何らかの化学反応(あるいはその結果)“X” だとしても、thanatophobia を FPV でまさに感じているということが X を感じていることと同じであるとは言えない(それに、いまのところ僕には X という化学反応を感じたりはできないし、それが FPV としてどういうことなのかも、たぶん数億個単位の神経細胞の相互作用かもしれないが、ともかく FPV としてどう受け取るかは想像不能である)。我々は、自分の脳にある膨大な数の神経細胞の働きを自分の脳において、そのまま感じるということはできない。それはそのはずで、ちょうど、或るサーバにインストールされている OS が、仮想 OS ではない、まさしくその OS 自体をアプリケーションのように扱えないのと同じようなものだろう。

*10ここでこのような保留を置くのは、少なくとも僕に意識があるのかどうかという議論をしなくても thanatophobia について考察できると思うからだ。もちろん、だからといって意識に関する何か特定の仮説を実は隠蔽しているにもかかわらず、thanatophobia について何か納得できる結論が欲しいと思考を短絡するための言い訳をしたいわけではない。僕は自分には意識が「ある」と考えているが、それは従来の多くの人々が抱いているような、何か自律していて脳の中で僕を操作している主体、つまりは特撮ヒーローものの巨大メカの頭部コクピットに搭乗している何とか戦隊のようなものではなく、脳で起きているさまざまな反応の副作用が交錯している「状況」ではないかと思っている(したがって、どこか特定の部位や機能やその特定の結果が意識なのではなく、意識とは脳で起きている色々な生化学反応の結果が組み合わさること、あるいはそれらの副作用として、どこか指し示せるところにあるのではなく、成立しているのだと考えている)。

したがって、僕は FPV として納得するということ(そして可能であれば、それが RPV の観点から評価して妄想に類するような錯乱による思い込みではないこと)を目標としているが、それは意識について何かが解明されるということを必要条件や十分条件としているわけではないと考えている。たとえ意識が幻想であっても thanatophobia が FPV として起きるのは事実だし、意識が僕の考えるような(既に誰かが同じ見解を主張しているなら、別に独自性や新規性を言い立てる意図はないので、「僕が支持する」と言い換えてもよい)脳神経系で起きるプロセスの副作用からなる、いわば中心や主体のない composition にすぎないとしても、だからといって thanatophobia が僕の FPV において起きなくなるよう、何らかの薬理的な「処置」をすることが望ましいかどうかも分からない。

なお、恐らく気にされる専門家のために注釈しておくと、僕はデネットの「ヘテロ現象学」というアプローチを否定するつもりはないが、最終の判断は FPV において僕自身が納得するかどうかにかかっていると思うので、RPV つまり三人称の観点において解釈され定式化されたものを天下り式に受け取るだけで十分であるかのようなアプローチでは不十分だと言いたい。無論、そこには常に自己欺瞞が生じうる。それゆえ三人称的なアプローチを FPV での経験や報告に対して適正に運用しながら維持しなくてはならないと思うのだが、このようなアプローチは得てして逆の極端、つまり FPV を軽視して thanatophobia を他人事のように気軽に語ったり考察してしまう、学部のゼミでケーススタディを議論しているようなスタンスに陥る危険性もあると言いたい。どちらのパースペクティブも尊重するべきだとは思うが、自分自身の生死に関わる事案ついては、自分自身で責任を負えること(この場合、それはどういうことだろうか)が望ましいと信じる。

なお、「ヘテロ現象学」というキーワードについては、どういうわけか「ヘテロ現象学とは、意識内容に関する被験者の発話報告(および意識に関わる非言語的行動)を手がかりにして、彼の意識内容を一つのヘテロ現象学的世界なるものとして理解するという方法である」[鈴木,2001:114] などという、意味不明というか同語反復のような貧弱な説明をネットでも頻繁に見かけるのだけれど、僕の理解では意識「についての」観察報告という挙動それ自体が三人称的考察の対象であり、科学の対象として検討されなくてはいけないというポリシーを表していると思う。そういう学問があるわけでもないし、名前が誤解を招きやすいけれども現象学の一派でもない(そもそも「現象学」という語はフッサールを始祖とする意味合いだけではなく、ヘーゲルが使った脈絡においても頻繁に使われるし、“phenomenology” の用法としては「現象論」や「現象主義的アプローチ」の代用として使われることも多々ある)。

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III

加速度をもって飛ぶように落ちてゆく石の象が、彼の心にしっかりと食い入った。いや増しに増してゆく苦痛の連続である生命は、しだいしだいに速力を増して、最後の点へ――最も恐ろしい苦痛へと落ちてゆく。『おれは落ちているのだ……』彼は思わずびくりとして身を動かして、抵抗しようと試みた。しかし、抵抗することができないのは、もはや彼自身にもわかっていた。

[Tolstoy,1973:93]

更に thanatophobia、つまり僕自身の死について FPV で僕が恐れるとはどういうことなのかを分析してみよう*11。さて、「死」とは何であるか。これには先人たちの膨大な思考の蓄積があって、幾つかの観点によって異なる定義や議論が可能だろう。いま暫定として僕が思うところでは、死とは、端的に言って僕の生命活動が停止することである*12thanatophobia は FPV を基準にしているが、死については FPV を基準にしていない。それは、FPV としての認知機能が働いていなくても生体としての活動が存続しているという状況も考えられるからだ。意識の定義によっては、FPV として何も認知できなくなっていても生命活動が続いているという事例、例えば植物人間と言われる状況はありうる(意識があっても周囲からは植物人間と見做される、いわゆる「閉じ込め症候群」のような状況は除く)。そこでは thanatophobia を感じるような認知活動もないので、怖いも何も感じることすらない。これを「死んだも同然」と表現することはできるかもしれないが、自分自身つまり FPV の観点からすれば、「同然」かどうかなどと比較すること自体が意味を為していない。そして、意識が戻る可能性がある場合は、少なくとも近親者から見れば決して「死んだも同然」とは思えないかもしれない。

*11ここで「僕自身の死について云々」と書いている時点で、既に RPV で思い出したり理解している様子を記述していることになる。こういう文章を書いて論考している最中は、実のところ thanatophobia を FPV としては殆ど感じないからだ。しかし、だからといって他人事だと見做しているわけでもない。

*12これは、確かに自分自身についてだけでなく、他人についても同じように成立する状況だと言える。僕にとってだけ成立し、他人にとっては別のように成立するとか、他人にとってだけ成立し、僕にとっては別のように成立すると考える根拠はない。誰にとっても同じように成立すると考えるのが妥当だ。寧ろ、誰にとっても同じように成立するという仮定があるからこそ、人は他人の死を悼み、残された親族に同情するのであろう。もし他人にとっての死は自分にとっての死とは実際にも違っているという可能性があれば(例えば、壺を買ったり、あるいはアメリカ軍の敷地に地雷を抱えて突入した或る特定の人々は何か楽園のような場所で自意識を保持できるが、他の人々は意識が消失して永遠に失われるとか)、そんな相違がどうして起きるのかという不条理について全ての人が悩むという非効率によって文化や文明は失速してしまう可能性もある。皮肉な言い方だが、思考を節約するために画一性を導入することは、それが擬制であろうと効率を高める一つの手段であり、動物としての生存や種の存続に貢献する知恵であるとも言いうる。

人によっては、死とは当人の生物としての生命活動が止まることだけではなく*13、当人が生きていた世界が当人の死んだ後も存続するという事実を意味に含めるとか、あるいは当人が生きていたという脈絡での世界が同時に消失することも死の意味に含まれると言われる。しかし FPV の観点から言えば、僕が FPV として死んだ後にも世界が存続するとか、僕が FPV という観点から経験してきた限りでの世界が同時に消失するとか、そんなことを定義したり議論していったい何になるのかという強い疑問がある。世界が客観的には存続するとか主観的には消失すると主張することによって、あるいはそれぞれを論証することによって、僕が自分自身の死について学ぶことや納得できることがありそうだと期待できるだろうか。僕には全くそうは思えない。なぜなら、客観的な世界が存続しようと主観的な世界が存続しまいと、死んでしまっている僕にとっては(「FPV において」という条件すら不要の強い意味で)どうでもよいことだからだ。それどころか、死ぬとは「どうでもよい」などと判断すること自体が不可能な状況に至ることなのである。何らかの呪術やシンギュラリティや神の御技によって、FPV として麻酔から覚めた患者みたいに再スタートを切れるという生理的な可能性があればともかく(その場合、何らかの意味での連続性は必要だろうか)、現在の科学の知見においては、それこそ昔から言い古されてきたように「死んだら終わり」でしかない。

*13これを「停止する」とか「終える」などと能動的に表現することには強い違和感がある。殆どの場合において、誰もが自らスイッチを押すように死ぬわけではないからだ。たとえ尊厳死を選んで自ら生命維持装置の電源を切るという動作が選べたとしても、死とは「死んでしまった状況」のことなのであって、まだ死んでいないうちから死んでいるなどという含意の定義を持ち出すことは、ここで扱っている議論に何か情緒的な自己欺瞞をもたらすようなニュアンスを持ち込み、thanatophobia が相対する厳粛な事実から気を逸らすものでしかないと思う。

「死んだら終わり」という主張に対する明白な反論として臨死体験(NDE)を語る人はいる。『プルーフ・オブ・ヘヴン』の著者であるエベン・アレグザンダーの話を例に採ると、この著書の大半は著者の生い立ち、あるいは NDE を解釈するための脈絡の説明に費やされているわけだが、それは当人が「そういうこと」だったのだとして自分の記憶を理解したり納得するための都合がいいお膳立てであって、我々他人が理解するための状況証拠ではない。なぜなら、それらの事実と彼自身の体験したこととが、そもそも関連するかどうかを確かめる客観的な方法(つまり他人が確かめる手立て)は存在せず、それらが関連するかどうかの正否は著者自身にしか基準がないからだ。

これは、日本で通俗的な意味合いで流布している「クオリア」に関連した、哲学とか思想とか認知科学の議論だと自称する与太話の類と同じである。正確に分析したり測定できないという、ヒトがやっていることにすぎない科学の成果に限界があるからといって、科学が対象としている宇宙や世界には限界がある(科学では突き止められない類の世界がある)と考えたり、科学は科学として分かる範囲の世界しか相手にしていないから限界があるなどと考えるのは、全くの詭弁でしかない。なぜなら、後者はただの同誤反復にすぎない(仮に科学で捉えられない「世界」なるものがあるとしても、後者は「科学は科学の対象を対象としている」というトートロジーなので、何も批判される謂れはない)し、前者は証明不能なことを前提にして後者のトートロジーを批判しているだけだからだ。この事例は世界や宇宙についての詭弁だが、同じように我々自身の印象とか感情が我々にとって大切であったり否定しようのないものであるということを、通俗的なクオリア弁士たちは何か(少なくとも現行の)科学として分析不能な特別の何かであり、自分はそういうかけがえのないことを体験したり、そういうことを体験する何か特別な感受性を持っているのだと言う。しかし、理解しておくべきなのは、我々が置かれている正確な状況というのは、現代の科学においてすら理論や実験・測定方法が未整備だったり未熟なことが数多くあるということである。そして、それら科学の研究や研究成果の正確な理解や進展には、時間や人手や金がかかる。進化論が提唱されてから100年以上が経過しても、まだ人がいきなり「ヒト」という生物種として発生したとでも思い込んでいる人々が数多くいるのだ。我々自身の認知内容に関する理論や解釈や理解あるいは説明方法にしたところで、まだまだ研究や洗練の余地は幾らでも残っている。しかし、自分が自分自身の体験を端的かつ正確に理解する方法がないという現実を目の当たりにした人々は、苛立ったり耐え切れなくなって、自己正当化や自己欺瞞へ陥り、自分に都合が良い思考の枠組みを維持したり整形し、特定の都合がいい出来合いの観念にしがみつく。NDE を伝えるアレグザンダーにしても、科学的に「考え難い」ことが起きたと言うのだが、逆にその特殊な体験を我々自身の認知能力や言語において説明し得るという都合が「考え難い」とも言いうるわけで、どちらが偏見なのかは定かではない [Alexander,2018:192]*14

*14先に *7 で言及した “cognitive closure” は、アレグザンダーの以下のような説明で正当化できるわけではない。

[...] だが現時点でこの知識を伝えようとするのは、たとえて言えば、一日だけ人間になって人間のすばらしい知恵をすべて体験してきたチンパンジーが、群れに帰ってからロマンス語系の言語の違い、微積分、壮大な宇宙について語ろうとするようなものなのだ。

[Alexander,2018:118]

これはおかしな比喩だ。文明や文化の差によって、彼が体験したことと我々の現実との差を説明しようとしているのだろうが、寧ろ異なる文明についてサルだろうと人間だろうと一日で習得する方が現実離れしている。認知クロージャのアイデアは、寧ろヒトという生物種の生理的・生化学的な限界とか、眼や脳という器官のはたらきによる限界を指しているのであって、要するに知能や知性そのものが世界や宇宙の理解(「理解」という概念には、それが限られた知能や知性の範囲で達成されるべきことだという含意があるのだろうか)にとっての必要条件や充分条件になりえるのかどうかを疑っているのだ。

或る著名な哲学者いわく、世界は主観的に構成された何かでしかなく、自分自身と一緒に消え去ってしまう、だから死ぬのは怖くないのだそうな。しかし、それは論理の飛躍などと指摘する以前に子供騙しでしかなく、端的に言って自分自身が感じる thanatophobia という恐れを、概念の分かりにくさや表現の複雑さで誤魔化すという自己欺瞞だと思う。伝統的な宗教が膨大な分量の経典や理論書や宗教音楽や儀礼や建築物を積み上げることによって、thanatophobia から人々の気を逸らすことに腐心してきたのと同じく、thanatophobia が分かり難くなれば、そこに含意される straightforward な意味合いも分かり難くなるので、その恐ろしさもまた RPV としての意味合いだけに限らず実質的に(つまり精神医学上の働きとしても)弱くなったり、FPV として軽減されると思いたいのだろう。しかし、世界なるものが存在するとして、それが FPV で何かを感じたり思う僕が生存するための必要条件であるかもしれないが十分条件ではないということさえ理解できれば、僕が死んでも世界が存続するという事実に何も変化はないだろうし、僕の死と同時に僕が記憶や想像によって維持している世界の意味とやらが消失するということも同時に当たり前だと分かる。そんな事実や意味は、哲学や宇宙物理学など学ばなくても、たいていの人は誰でも分かっているのだ。そして誰もが心得ている筈のこと(それが「真実」であるかどうかは、FPV においてはどうでもよい)を、一見すると深い意味がありそうに思える言葉や、その組み合わせから構成された語句・文章によって、確からしさを疑える(多くの人は thanatophobia を感じるのだから、そうやって疑える余地があればいいのにと思いたくなる動機がある)ていどに相対化してしまうことを、僕は「自己欺瞞」や「自己催眠」などと呼んで差支えないと思う。そして宗教の大多数は、そのような自己欺瞞の巧妙で壮大な心理的パフォーマンスの劇場であるにすぎない。

上記の議論は、外界、そして外界を認知する主体としての自分自身の両方が消失するという状況を描いている。しかし、もっと明け透けに「死ぬのは怖くない。なぜなら、死んだら『怖さを感じる』ということ自体が不可能になるからだ」と言い換えてもよいだろう。そして、これは「主観的な世界」などという概念を仮定する必要がなく、少なくとも僕にとっては FPV が成立しているという事実と将来の状況についての推論だけで想像できるのだから、見かけにおいては一定の説得力がある。しかし、これも上記の議論と同じように、僕自身が死んでしまった時点で FPV が成立しなくなった状況を RPV として説明しているにすぎず、FPV としての thanatophobia を第三者の観点から眺めて描いているに過ぎないのであって、これも自己欺瞞だと思う。このような単なる RPV としての解説だけで thanatophobia を感じなくなったり納得できるのであれば、全く同じように未だ生まれていない人物についても同じことが言えるだろうし、もしお望みなら既に死んだ人についても同じことが言える筈である。死ぬのは怖くない。なぜなら、生まれてもいない人にとっては『怖さを感じる』ということ自体が不可能だからだ。死ぬのは怖くない。なぜなら、既に死んでいる人にとっては『怖さを感じる』ということ自体が不可能だからだ。それはそうだろう。そんなことは、誰かの死んでゆく姿を傍らで眺めているだけの人間になら幾らでも言えるのだから。

自分自身の死についての想像は未来に自分が被る何かについての RPV における認識でしかありえないということは正しいし、更に議論すべき点だろう。いまこのように自分が将来においてどうなるか(もちろん死ぬと思っているからこそ thanatophobia をテーマにしている)という想像は、あくまでも想像にすぎない。何月何日の何時何分に自分自身が死ぬかを予測することは(少なくとも現時点の情報や技術や学術成果の範囲では)不可能であり、実際には明日の 0:00 きっかりに北の方角から飛来したミサイルが大阪市の中心部に着弾して、僕は消え去るかもしれない。即座に消え去ってしまう(しかも 0:00 だから就寝中だろう)者にとっては、死にゆく状況を恐れる暇もないのは確かである。しかし、だからといって、まだそうなっていない現時点においても thanatophobia を感じずに済むという理屈は成り立たない。そのような理屈が死ぬまでの全ての時刻において言える(いや、それどころか FPV として納得できる)ためには、各時刻において「次に1秒が経過したとたんに、自分が死ぬ」という可能性を常に想像していなければいけないのではないか。t1 においては t1 + 1 秒後(= t2)の死を考えて納得し、t2 においては t2 + 1 秒後(= t3)の死を考えて納得し、t3 においては t3 + 1 秒後の死を考えて納得し・・・などと、延々と続けたらよいというわけである*15。しかし、まったく常識的な判断として、これは単なるパラノイアである。thanatophobia も一種の「症状」とされる場合があるが、それを回避するために別の症状を引き起こすことになど、恐らく救いはあるまい(もし「そういう」手段しかないなら、我々は何らかの薬理学的な手法によって自意識を消し去りミジンコのように生きる道を選んだ方がマシだろう)。

*15後述するが、この議論は「次の瞬間」をどんどん短くしていけるので、前野隆司さんが言及しているゼノンのパラドクスと似たレトリックを使えば、幾らでも可能性の議論を押し進められるように見える。しかし、thanatophobia を感じうるチャンスを無制限に短くできるという理由で thanatophobia を無制限に過小評価するような議論は、thanatophobia が死ぬまでの時間の長さに依存してその強度が代わるという、それ自体は否定する必要のない特徴に依存していても、その依存関係が正しく扱われていないように思える。医者から死期を知らされて、もうあと限られた日数しかないと知った場合の thanatophobia は、なるほど「余命50年」と言われた場合と「余命1ヶ月」と言われた場合では異なるだろう。そして、ごく常識的に言えば余命の期間が短いほど thanatophobia は切実で強く感じられるのではないか。キューブラー=ロスのモデルを使って、或る段階を過ぎると逆に thanatophobia は過小評価されてゆくと言い得るかもしれないが、それは同時に他の感情や生きる意欲の喪失も伴うのであって、thanatophobia だけが消え去るというわけにはいかない。もちろん、それこそが求めることだという人も(例えば仏教徒には)いると思うが、僕は本稿ではそういうことを目指していない。それは、あたかもヒトが情動を失って玄武岩のようになるのが理想だと言っているようなものだからだ。

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IV

自分自身がまだ死んでいないからこそ、自分自身の死について人は想像したり thanatophobia を感じたりする。すると、その想像されている「死」が(自分は死ぬという予想の確からしさについてはともかく、FPV として想像しうる経緯については)妄想や勘違いの産物ではないかと疑うことも可能だろうし、もちろん疑ってみるべきだろう。なぜなら、いま生きているあいだは「自分はこのように死ぬんじゃないか」などと FPV としての経過を想像できるとしても、実際には交通事故などで即死するかもしれないからだ。では、その想像、つまり自分自身が死んでゆく経過を FPV で経験しているかのように自ら心で思い描くということは、どういう条件で妥当なのだろうか。そして、その妥当性とは、何に対する妥当性なのか。自らの抱く thanatophobia が FPV において正常な反応であるとか、治療を要する反応であると判定できるためにであろうか。

多くの文学作品や映像において、登場人物が死んでゆく様子を FPV として描くという事例は容易に見つけられるので、それが多くの人にとって関心事であり、そして試みに色々な仕方で描写しうるのは確かだ。非常に通俗的で粗雑な描写では、何かテレビのスイッチを切る様子のような隠喩で表現されるのだが、FPV の消失はテレビの電源を消す状況とは全く違う。つまり、スイッチが切られて「プツン」という小さな音とともに画面の光が小さくなって最後に闇が残るという状況を経験することすら、恐らく FPV では不可能なのだ。なぜなら、テレビのスイッチを切るという隠喩では、その状況が展開してゆく様子を RPV として、つまり第三者の観点から眺めている僕らの認知能力は正常なまま維持されているが(そして、それゆえに第三者として眺めていられるし、こうして話題にできる)、自分自身の死においては認知能力そのものが急激に、あるいは徐々に低下したり、状況によっては部位ごとに失われてゆくだろうから、死に至る過程(それがいつからなのかはともかく。分子生物学や進化論の観点では「生まれた時から」と言えなくもないが)の中で最終局面の一定時間は、FPV で自分自身が死につつあるということすら認知できなくなると思われる。したがって、同じ理屈で言えば、死に至る最終局面の一定時間は、どれほど心配したり恐れていようとも、thanatophobia すら感じようがなくなると言ってよいだろう。

最後の局面では thanatophobia すら感じようがなくなるからといって、「だから死は怖くない」と言えるだろうか。少なくとも僕は全く納得できない。死へ至る経過の不可避的な結果として認知能力が低下することにより FPV で何も認知できなくなってゆくからといって、いま現在の僕が thanatophobia を感じなくなるわけではないからだ。そして、死にゆく或る局面に至ると thanatophobia を感じなくなるから、死にゆく或る局面では thanatophobia を「感じなくてもいい」とか、「感じる必要はない」とか、「感じなくならざるをえない」などと様相を言い換えてみたところで意味のある議論は引き出せないと思う。あくまでも thanatophobia が成立するという、少なくとも生理的な条件が満たされた状況を想定して考えなくてはならない(寧ろ、そのような状況において起きるのが thanatophobia である。そして、死が目前に迫っている状況と、いまのように「死を恐れるということ」などという文章を書いている状況とでは FPV において色々な違いがあるだろう)。そうでなければ、どれほど深刻ぶって文章を書いたり悩んで見せようとも、そのような想像や議論は冒頭で否定したことと同じく「あの世で thanatophobia を感じるのかどうか」という混乱した思考、あるいは「死んだ者にとって死は恐れるに足らない。ゆえに死は怖くない」という愚かな議論と同じである。そのような混乱に逃げて thanatophobia をまるで他人事のように(それこそ哲学の教科書に出てくる演習問題のように)扱えるようになったからといって、自分がいずれ死ぬという冷徹な事実、そしてそれが端的に言って怖いという thanatophobia について、何らかの態度を決めたり、適切に検討できるようになるわけではないだろう。

ここで更に、前野隆司さんによる議論を参照してみよう。

過去の記憶を思い出そうとしてみると、過去の時間は対数軸上に並んでいるようにも感じられる。今に近い時間は拡大され、過去に行くほど圧縮されて、記憶の量と質が違うからだろう。最近の記憶は大量に覚えているが、過去にさかのぼるほど記憶の量は減っていく。

[...]

未来も、同様だ。いや、正確には、同様ではないが、似ている。

[...]

客観的には、これから何億年もの間、時間は一定速度で流れていると考えるのが普通だろう。しかし、それは主観的には意味を持たない。主観的な時間は、未来になるほど圧縮されるのだ。死んだあとなのだから当然だが、死後には、主観的な時間は流れないのだ。

[...]

「死」とは想像上の産物に過ぎない。客観的には、あなたが未来に死ぬ瞬間は、未来の年表のある点にいつか黒い丸で記入できるのだが、主観的な時間軸はひずんでいて、先の時間は圧縮されてつぶれているから、死の瞬間は記入できない。あなたには、生前も死後もないのだ。

[前野,2017:230,231,232,234]

まず、過去の記憶が量や質として減ったり情報量として曖昧になったり一部が欠落するといったことは、本当に「対数軸上」に並ぶと言いうるほどの指数関数的な変化なのだろうか。このような前提には脳神経科学や生理学の根拠がない。

第二に、過去の記憶に関する劣化と、未来の想像に関する何らかの主観的な心理なり感情の減衰(もちろん、前野さんが言う「クオリア」でもいいし thanatophobia でもよいだろう)とが、正確に同一でなくとも「似ている」と言いうる根拠がない。もちろん同じようにして説明できるという事実から推定するのは自由だが、それはその説明が十分な explanatory power を現実にもつと評価できる社会科学的あるいは社会心理学的な論証や証拠があっての話だ。そして、もしそのような根拠に訴えるのであれば、FPV として我々が納得できるのかどうかという基準の議論にとっては致命的な弱点をもつことになる。なぜなら、それは thanatophobia が「民主的に怖い」から怖いだけだとか、「統計的に怖い」から怖いだけだとか、あるいは(ややカリカチュアとして表現すると)「世の中的に怖い系、みたいな」ことだから怖いと言っているだけになるからだ。そのようなことは、少なくともここで FPV として僕自身について考察している限りでは、全く認められない。

第三に、未来に向かって想像しうる主観的な内容はどんどん圧縮され、最後の「死」に到達できないという論証は、前野さん自身が100ページほど遡った箇所で論破した「アキレスと亀」の話と全く同じではないのか。前野さんは、こう述べている。

つまり、「アキレスは永遠に亀に追いつけない」のではない。「追いつく瞬間までの間には、アキレスは亀に追いつけない」というあたりまえのことを、追いつく瞬間までの時間を細かく切り刻むことによって示しているに過ぎない。

[前野,2017:120]

したがって、僕は上記の議論を使って前野さんにこう反論できる。「我々は主観的に永遠に死へ到達できない」のではない。「死ぬ瞬間までの間には、我々は死んだりしない」というあたりまえのことを、死ぬ瞬間までの時間を細かく切り刻むことによって示しているに過ぎない。このような、形式的に不可能であることや形式的に否定しただけのことをヒトの認知能力の限界と取り違えて、或る概念の対象に存在論的な身分まで押し付けるという初歩的な誤りが、最近の流行哲学にもたびたび見受けられる。たとえば、「世界」はヒトの認知能力を超えている全体であるがゆえに存在しないといった極めつけの議論などは、学部で数理論理学や critical thinking だけではなく philosophical logic も教育することの価値をあらためて思い起こさせてくれるだろう。(そのような最新哲学を奉じる人々は、偶数の集合に属している数を全て言えたり、「2000年1月1日以降に東京都世田谷区で出生届を出している男性(もちろん未来も含めて)」の名前を全て言えるのだろうか。言えないからといって、それらは集合として存在しないのか。試しに中学生にでも尋ねてみればよい。)

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V

これまでの議論で僕が判断の基準にしてきた FPV は、現実に僕が何かを感じたり思うときの認知内容そのものを指し示すためのマーカーのような意味もあるが、そういう特定の観点なり位置取りといった意味もある。しかし、FPV そのものについての議論は thanatophobia に関する論考からの逸脱が生まれやすく、thanatophobia を切実に感じる人の多くは、そのような話題に自らを無自覚に誘導して thanatophobia にとらわれる状況から注意を逸らしたいという動機づけに晒されやすい。僕も恐らくは(ヒトという生物の平凡な個体である以上は)、そういう一人なのだろう。したがって、これまで FPV についての詳細な議論はしなかった。しかし、死あるいは thanatophobia に関わる著作物や芸術作品や市井でのありふれた言い回しには、確かに thanatophobia に対する人の弱さゆえに一つの知恵と思える工夫も感じられるものの、あまりにも馬鹿げた観念や言葉を振り回す事例も多々ある(その良くも悪くも極め付きは宗教だが)。したがって、僕自身にとっては既に解決済みであり、FPV として本稿を書き進めながら改めて納得する必要などないが、本稿の内容を正確に伝えるには「僕が何を言いたいか」だけではなく、「僕が何を言いたくないか」も併せて明確に記述しておくのが望ましい。

まず何度も強調しておくべきなのは、FPV において僕が感じたり考えることを記述する場合、FPV は僕が自意識を現に維持しつつ何かを感じたり考えている当の個体、つまり本稿で「僕」と称している者にのみ適用できる。他者にとっての FPV という概念は特に想定していないし、それがどういうものなのかを考える必要も、いまのところはない(実際、これを考える必要すらないのに、他の生物としての自意識がどうなっているかとか、コウモリとしての FPV などというものを、必要も根拠もなく想像する必要も暇もない)。いま本稿で「FPV において云々」と記述しているのは、それの RPV としての解釈なり理解なりを経た結果である。そして、RPV としての何らかの記述や論説だけが FPV とは独立に展開されるような議論は避けるという方針を採っている*16。いまこうして書いているときも、「FPV について議論するとはどういうことなのか」を、FPV として違和感を生じないような RPV のスタンスを維持しつつ書いている。恐らくこのようなことは、日記(自分が経験した事柄についてどう思ったかを書く場合)を書いているときには多くの人がやっていることだろう。もちろん、そこでは thanatophobia を感じたという経験について、自分自身の RPV としての捉え方が後から変わることもあるだろう。僕が本稿の冒頭で書いたように、thanatophobia を感じるときは、自分が死んでゆく過程を思い描きつつ、死んでゆく当人として感じる恐れや不安についての恐れや不安が想像や思考にしがみついて、眠れなくなることもあった。しかし後から RPV として自分の thanatophobia という経験を思い返して描きなおしてみると、幾つかの不安や恐れは単なる思い込みではないかとか、実際にはそういう経験をしないのではないかという反省が生じることもある。更には、それについての価値判断(例えば、宇宙論的なスケールでは人の生死など些末な事象にすぎないから人の死は恐れるに足りないといった判断。なお、今後の追記で前野さんを始めとする自然科学者や宗教家の著作を取り上げる際に詳しく論じるが、僕はこれも自己欺瞞の一つだと思う)すら行う場合もある。

*16FPV とは無関係に展開してしまう議論としてよくあるのは、FPV としてどういうことになるかを自問したり議論する必要を感じていないのに、「分析哲学ではこういう論点がある」という教科書的な手順を踏むことだ。もちろん昔から積み上げられてきた論点や議論の蓄積を軽視してはいけないが、だからといって、哲学するに及んで約束事のようにハードプロブレムはどうだ、multiple realizability はこうだと単に口先で論じてみても、それは自己欺瞞というものである。そのような約束事のように並べてあるステップを踏むことで哲学的な課題や問題が「どうにかなる」という思い込みこそ、もちろんコミットメントとして肯定されるべき場合もあると思っているが、批判を要する態度であろう。

次に、FPV に限らず「主観」と呼ばれるような観点を前提にして自分自身の生死を論じたり語るにあたって、人がしばしば口にする言葉の彩とも言うべき表現が幾つかある。僕は、例えば「死んだらどうしよう」などという、落語にでも出てきそうな馬鹿げた言い回しを本稿で取り上げる必要は全くないと考えている。もちろん、このような混乱した(としか僕には思えない)発言について、シニシズムなど何らかの含意をもつ performative action として人が口にせざるをえない心理や状況とはなんであるかを分析することは、発達心理学や臨床精神医学や社会学の研究としては意義があろう。しかし僕にとっては、その含意なり心理が分かったところで、thanatophobia とは何なのかを FPV で理解したり納得する助けにはならないと思う。僕は、そういう言葉の彩やレトリックの表面的な難しさや禅問答のような逆説的効果に逃避したり埋没して事足れりと割り切れるほど、thanatophobia を自分自身で正確に理解するということに絶望したり、thanatophobia について僕がどういう態度を取れるのか(あるいは、取るべきなのか)という考察を諦めるつもりはないからだ。FPV という認知能力の欠損や消失に始まって生体としての機能が全て停止するまでの過程を死ぬことだと考えるなら、認知能力(の一部)が失われ FPV として何かを感じたり思うことができなくなった時点で、人は自分自身の死を最初から最後までは経験できない [養老,2004:78 では「一人称の死」として語られるもの]。したがって、thanatophobia の一つの理解には、自分自身が死ぬという過程を FPV として最初から最後まで経験し得ないという事実が示す分からなさや、その分からなさを理解したり思うことから生じる不安が含まれているのだろう。

ここで「分からなさ」の意味合いを詳しく確かめてみよう。すると、第一に死ぬという過程がどのように FPV として進行し、やがては FPV を成立させる認知能力が消失してゆくのかが分からないという経験内容についての無知から生じる不安(しかも不可避的に不十分なままに終わる)がある。第二に、その過程がいつ始まるのか分からないという唐突さへの不安もある。場合によっては、多くの人がそうであったように、健康診断をきっかけにした精密検査で重篤な状態と分かったとき、何ヶ月も前から病気が進行していたことに自分が気づかなかったという事実を知って酷く落ち込むかもしれない。そして、我々はそういうことが自分にも起こりうると小説やテレビドラマや映画などで何度も自覚させられたり想像させられる。そして第三に、死へ至る過程の多くは病気による肉体の苦痛を伴うため、どんな痛みや辛さを被るのか分からないという苦痛の程度や種類についての不安もあるだろう。それから [養老,2004] においても、「一人称の死」より「二人称の死」(本稿の表現を使うなら、家族や知人にとっての RPV という観点から経験する僕の死)を考えるべきだと強調されていたように、自分を看取る人々へどういう負担をかけたり悲しませることだろうかという他者へのインパクトという不安も意味合いとして含まれうる。

まず、死についての「分からなさ」をどう評価するかについて、[養老,2004] で繰り返し語られている点に言及しておく。FPV として認知不能な自分自身の(「一人称の」)死、ここでは死ぬという過程ではなく、その結果として生体の機能が完全に失われた状況のことだが、そういう自分自身の死について考えても仕方がない(「死んだらどうしよう」という問いは、表面的には馬鹿げている)からといって、死についてそもそも考えても仕方がないのだろうか。僕としては、上記の区分で「経験内容についての無知」という分からなさから生じる不安を理由とする thanatophobia は、無駄な心配であるにすぎないといって感じずにいられるかといえば、そういうわけでもないと思う。そもそも「しょうがない」とか「仕方がない」というのは、起きた後の状況を FPV としてどうなるかと想像してみた末に諦めることだが、そんな状況などあり得ないのであって、自分の死んだことを FPV としてどう思うかについて RPV として想像しても、それこそ「しょうがない」のである(まるで、自分が死んでいる状況をどこからか自分自身が眺めて、「あーあ、しょうがねぇなぁ」と呟くようなものだ。それこそ下手な落語でしかあるまい)*17

*17本稿では、自分自身が死ぬということを FPV としてどう感じたり思うのか、つまりはそこで起きる thanatophobia を RPV として叙述した議論だけを問題にしており、何らかの状況(situation)や状態(state)として実体化した僕自身の死を RPV として叙述したり議論することは避けているつもりだ。そもそも FPV においては、死を何らかの状況とか状態として自分で理解したり想像するなどということは(死んでいる以上、いくら頼まれても)不可能だからだ。我々が自分自身の死に関して、単なる概念や記号の操作ではなく FPV としてどうなるのかを推測したり想像できるのは、飽くまでも死へと至るまでのプロセスの一部だけである。実際に死ぬ直前においては FPV における意識もなくなってしまい、FPV から何かを想像したり語るための認知能力そのものが失われてしまう。したがって議論している僕自身に対しても混乱しないように何度か繰り返す必要を感じるのだが、本稿で問題にしているのは飽くまでも thanatophobia であって死ではない。

もちろん、人はいつ死んでしまうか分からない。それは確かだが、いますぐに死ぬ状況に置かれているわけでもなく(本当にそうなのかどうかはともかく)、こうして「死を恐れるということ」について文章を書く余裕がある者にとっては、無駄であろうと、あるいは何らかの精神疾患を示す兆候であろうと、自分がやがて死ぬという厳粛な事実について FPV で感じる thanatophobia を、二言三言の寸評だけで意識の脇へ気軽に片付けたり意識の奥へ直ちに仕舞いこめるわけでもない。もしそんなことがヒトという生物の認知能力や文化によって簡単に処理できていたなら、私見では宗教は成立しなかったかもしれないと思う。死はまさしく FPV において最後の状況に至るまで自分がどうなっていくのか経験できない事柄であり、いつそういう事態となるかも分からないが、thanatophobia は、これもまさしく死んでいない状況で FPV としての認知が維持されているからこそ起きるものだからだ。ありふれていて誰もが逃れられないにもかかわらず、FPV としての報告が誰からも得られない経験が死ぬということであるから、これを FPV として思い描いたり理解するには、いまでも大多数の人にとっては自らの思弁なり小説や絵画や映画による疑似体験(それも結局は制作者の思弁による)以外に方法がない。そして、そういう「分からなさ」を不安に感じることが異常だという理屈は成り立たないだろうし、「気にするな」などと言って済むような話でもなかろう。

そして、「分からなさ」の一つとして追記できる重要な点がある。それは、僕が FPV として認知しているとき、そのこともまた端的に言って自然現象に他ならないということだ。そして同様に重要なことは、その自然現象である FPV としての認知を可能にしている条件(神経細胞の電気化学的な反応や外界からの刺激を処理する仕組みを始めとした諸々の事柄を可能にしている生理的・物理的な諸条件)そのものは FPV として認知不能だという事実である。僕がいま自分のパソコンで文字をタイプしているとき、僕の脳で起きている(恐らくは膨大な数の)神経細胞の活動を、僕は FPV として感じたり観察したりできない。以上に同意できる限り、FPV をどれだけ強調しても独我論的な一元論など帰結しない(それどころか、いま述べたような事実があるにも関わらず FPV を基準にして論考することが即座に独我論だと断じることこそ、ヒトの認知能力や諸条件が事実として FPV における認知現象の基礎になっているという supervenience を否定する、ただの思弁的な思い込みを前提にしているだけだろう)。先に thanatophobia をもたらしうる「分からなさ」の一つとして挙げた、経験内容についての無知から生じる不安の一部は、いま述べたような事実、つまり経験内容がどういう諸条件によって成立するのかが(理屈としても)分からないし、実際に自分で様子を眺めたり操作するわけにもいかないという、自分自身の身体の仕組みでありながらも正確な仕組みや状況が分からないという事実が含まれるのだろう。もし、fMRI などを使って自分自身が何かを認知している状況を測定し、モニター画面へ視覚的な図像として映せるとしても、そこで測定しているのは「A を認知している状況」ではなく、「『A を認知している状況』をモニタリングしている状況」である。「河本孝之がリンゴを眺めている」状況を、その状況に介入するような影響を与えずに当人がモニタリングするには、厳密には時間軸で後の時刻でなければならないだろう。例えば10分ほどリンゴを眺めている状況を測定してから、その後でモニタリング結果を眺めるという具合である。しかし、そのような方法しかないなら、もちろん誰が測定するのであろうと、自分自身が死んでゆく様子を測定して、その当人が死んでしまった後で自分の FPV で何が起きていたかをモニター画面で本人が呑気に眺めるなどという構図は、いまどき小学生向けの漫画雑誌ですら恥ずかしくて描けないであろう、全くの茶番でしかない。

それから僕が強調しておきたいのは、FPV という僕自身の観点なりスタンスについて、僕はそれを個人の観点としてユニークな何かであるとか、あるいは FPV として認知する内容が single-case であるといった、形而上学的に特別で特権的な何かだと考えているわけではないということだ。三浦俊彦さんが指摘しているように、「死生学に限らず、一人称からの考察というものは、いかなる分野においても論理的整合性を持ちうるし、有意義である」[渡辺・三浦・新山, 2017: 219]。だが問題は、FPV による考察や推論の結果を、当人ですら正確かつ十全に言語や図像といったパブリックな伝達手段において表現できるとは限らないということなのだ。そして、そのような限界(経験が教える「限界」であるばかりか、原理的な「制約」とまで言えるかどうかはともかく)があるという前提や理解をもとにして FPV のようなスタンスなりアプローチを維持するということは、我々自身の認知内容なり認知プロセスが、自分たちで思い描くものとは全く異なりうるという可能性を許容するということであり、ここから独我論など帰結するわけがない。thanatophobia に関するどのような「解決」が提案されようと、それがヒトという生物なり個体の認知能力に限りがあるという事実にもとづく混乱や錯覚でないと、いったい誰が保証できるだろうか。そのようなヒトという生物に特有の事実を越えて何かを言い得る可能性について思考するために、FPV なり一人称の視点は導入するものである。したがって、FPV や一人称の視点をわずかでも立論において採用する者は独我論に陥るという批判は、およそ維持することが困難な仮定を当人が同時に主張していない限りは、ただのシャドウ・ボクシングでしかない。

[...] 実際には、一人称的議論が唯我論的枠組みを要請するなどと素朴に信ずる論者はほとんどおらず、日常生活で唯我論に従って生きることも不可能である。したがって、以上の論証は藁人形論法的な過剰防衛というか、一種の杞憂であったとも言える。しかし論理的·学問実践的にはともかく心理的には、「一人称視点」から「一人称定位」そして「一人称優位」「一人称のみ」「唯我論」とすべり移ってしまう事例が容易に考えられるため、注意が必要なのである。

[渡辺・三浦・新山, 2017: 219]

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VI

ここで、既に認知科学や生理学や医学の知見として信頼しうると言える事項を確認しておこう。まず、thanatophobia が対象にしたり想定している過程、つまり自意識の消失から生体として全ての機能が停止して「死」に至るまでの「死ぬ」という過程は、睡眠に入る過程とも違っているし*18、麻酔を施される際の過程とも違う。しばしば、死んでゆく過程を「眠るようなもの」などと言う人がいるけれども、その根拠を FPV としては無論のこと、RPV である科学の知見としても正確に説明できる人は多くないし、大多数の人々は両者を文芸作品等からの類推で勝手に想像しているだけなのである。そういう想像で済ませておきたいという動機に thanatophobia があると想定することはたやすいが、そのような態度の原因や理由を追求したところで、FPV として僕がどういう態度を取れるかを考えるために資するものがないと思うので、これ以上は検討しない。本稿はあくまでも FPV としてどういう結論が出せるかという一点に集中する論説であって、thanatophobia を感じる人に同情するための論説ではないからだ。

*18例えば「もうすぐ死ぬという恐れや、その自覚はあるかもしれないが、死の瞬間を自覚する瞬間は、寝る瞬間の自覚がないのと同様、絶対にやって来ないのだ」[前野,2017:235] という説明が示唆するように、睡眠への移行と昏睡状態や死への移行とを同じような推移だと言われても、RPV としてはもちろん違うのは明白だが、FPV として違うのかどうかも立証などできない。thanatophobia とは、この「分からなさ」によるとも言いうるので、睡眠に至るプロセスと死へ至るプロセスとを根拠なく似たようなこととして扱うのは論点先取であろう。

睡眠は「単なる活動停止の時間ではなくて,高度の生理機能に支えられた適応行動であり,生体防御技術でもある」[井上,1999]。レム睡眠であれノンレム睡眠であれ、現在ではそれぞれの働きがあると考えられており、特にレム睡眠の生理的な活動状況は起きているときと変らないくらいの活発さだが、その理由や役割は殆ど分かっていない(そして、「殆ど分かっていない」ということも重要な知見である)[Hayashi, et. al, 2015][林, 2017]。FPV として深い眠りに入って「意識を失う」と言い得る状態になることはあっても、大脳皮質では依然として活発な反応が続いている。もちろん、我々は自分の脳で起きている反応の殆どを FPV として認知できないのだが(そもそも起きて覚醒していようと、脳の神経細胞の相互作用や電気的な信号伝達を「体感」している人などいない)、寝ている状況・状態を自分にとって FPV としては何も認知できないからといって、死んでいるのと同じだとは言えない。また、睡眠中の無呼吸症候群で死んでしまうような不幸はあるが、それは寝ている過程から死んでしまう過程への不幸な推移であって、通常は寝ることと死ぬことが同じだと考える人はいまい。したがって、「意識がなくなる」という雑な表現や FPV での理解によって、「死ぬのは眠るようなものだ」と言われることもあるが、現代の科学の知見では全く違うと明言してよいのである。なるほど、それらを同一視したくなる動機の一つは、僕自身が FPV として想像してみれば thanatophobia によると考えられるので、「眠るようなもの」と思って安心したいのは分かるが、これもまた通俗的でカジュアルで、しかし思想としては「悲惨」としか言いようがない自己欺瞞の一つである。そして、本当はどうなのか分からないにも関わらず、死ぬということをそういうものだと思わざるをえない悲惨さを耐え忍ぶという、無教養な人々に特有の演歌的な自意識に没入して刹那的なセンチメンタリズムへ陶酔するのも暇つぶしとしては結構だが、そのようなことを人生訓や「哲学」などと言って他人へ伝えようとするのは文化的な犯罪である。

次に、死ぬという過程になぞらえることがある(全身)麻酔による昏睡について確認しよう。もちろん、全身麻酔という処置の不手際によって死んでしまう事故もあるが、それは麻酔を施されている過程から死ぬ過程への異常な推移であって、通常は全身麻酔を施される過程そのものが直ちに死ぬ過程と同等であるはずはない(もしそうなら、つまり全身麻酔の処置とは蘇生が成功しやすいというだけで実質的に死ぬ過程と全く同じであり、意図的に死ぬ過程を操作しているだけの措置であるなら、多くの人は全身麻酔など望まないだろう)。

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VII

thanatophobia について考えをめぐらしている機会があれば、その何回かに一回では thanatophobia の「解消」とか「解決」というものがありうるのかという疑問が起きる。たとえば、FPV として thanatophobia を認知しなくなりさえすれば FPV としては何も頓着したり固執しなくなって「良い」のではないかという発想がありうるのだ。よって、thanatophobia をそういう脈絡において FPV として認知したり感じなくなるという状況を一つの「解決」だとすることが(道徳の理論として、あるいは他人から判断してどうなのかはともかく)当人にとって最善だと言い得るなら、thanatophobia にまとわりつかれて精神を病んでいる人や、現実に死を迎えつつある人に対して、何らかの外科的あるいは薬理学的な処置や処方を施してしまうことは妥当だと言いうる。そして安楽死も、そういう処置・処方の一つだと言ってよい。

しかし我々が経験してきている他人の死のいきさつ、つまり死にゆく経過を RPV として知りうる範囲で言えるのは、寧ろ圧倒的多数の人々は「解消」とか「解決」などということへ頓着していないかのように死んでゆくということだ。これまで生まれて死んでいったヒトの個体は、累計では夥しい人数になる。そして、決して全てとは言わないまでも少なからぬ割合の人々について、全く何の憂いも不安も恐怖もなしに死んでいったらしいという報告や記述が残されている。それが thanatophobia の一つの「解消」なり「解決」だと言い得るのであれば、そのような心境が何らかの錯誤や思い込み、あるいは既に錯乱状態に陥った結果でない限りは、その条件を特定することにも一定の価値があるのかもしれない。しかし、いまの僕に言える限りでは、そういう心境へ至ることが「解決」なのかどうかは分からないし、そのために座禅を組んだり素人まがいの詩を作ることが効果的だとは思えないのであって、もしかするといまここでやっているような思索を続けた末に至る心境なのかもしれないと思う方が、まだマシである。

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VIII

死んだら終わりであるということを、ひとまず認める。そして NDE やら死後の世界などというものを無視して議論を進めると、ここで thanatophobia に対する強力な論評あるいは反論として、「死んだら終わりなのだから、怖がっても仕方が無い」という議論がありうる。こういう議論に対して、そう言われてみれば確かにそうなのかもしれないと FPV で理解しようと望むべきなのだろうか。それとも、そんなことを言っても死ぬまでのあいだの恐怖はなくならないのではないかと説明して、迷惑なことかもしれないが、相手に thanatophobia を感じさせるくらい説得するべきなのだろうか。もちろん、死ぬ前の段階においてすら FPV としての全ては終わる。thanatophobia も何も感じなくなるだろう。ひょっとすると、thanatophobia を恐れる人の中には、それゆえに即死できる手段で自殺した人がいるのかもしれないし、割り切った心境でいるうちに死を選びたいと安楽死を望んだ人がいるのかもしれない。しかし、本稿で FPV という基準を使っていようと、僕にはそういう主観的な「処断」が thanatophobia に対する自分なりに満足のゆく、いや満足が目的や動機なのかは自明ではないが、ともかく主観的に恐怖を感じない手段で死んでしまえば、何らかの脈絡で良いという思考は受け入れ難い。なぜなら、もしそのような思考が受け入れられるなら、人が積極的に自殺することを思いとどまらせるような、説得力のある議論は無くなってしまうのではないかと思うからだ。生きている限り、良いこともあれば悪いこともある。しかし、何かに打ちひしがれて悩んでいる人にとって、これから良いことがある保証などないが、死ねば良い悪いの価値そのものが FPV としては確実に消失するのだ。その圧倒的に確実な無をこそ望む人に、その願望が間違いだと言って、どうやって違う思考の可能性を示せるだろうか。

死という確実な無の方が良いと考えている人(ただし、生きていくのに窮している人の多くは発作的に死んでしまうこともあるため、ここでは自分の結論が本当に正しいのかどうか吟味してみるだけの冷静さを持っている人に限るのかもしれないが)に再考を促すには、どういう判断基準を提案して吟味してもらえばよいだろうか。まず、自分がこうありたいと望むことと、自分さえ良ければそれでいいということは別の筈である。そして、自分が望むことを達成できるなら他の何がどうなろうと構わないとまで、その人が頓着もなく割り切っているのかどうかを問える。人の死は他人を悲しませるとか、場合によっては自分の死のうとする行為が他人を巻き込んで、他人も死なせる可能性があるのだと想像させられるかどうかということだ。

それから次に、自然科学者、とりわけ生命科学者のエッセイでしばしば見かける議論として、生命という仕組みが成立するために必要だった自然の諸条件を考えたり、ヒトという種のそれぞれの個体として我々自身が生まれてくるまでに必要だった条件が満たされるために途方もなく低い確率での「幸運」が必要だったと説明する手段があろう。この世に生を受けて、こうして自分自身の死についてすら思いをはせているような存在として生きていられることの重大さを強調するわけである。よく、「生きているだけでもめっけもの」などと言われる理屈だ。しかし、この説明に説得力があるかどうかは、実はこのような説明を聞いている方の想像力や価値観に大きく依存するのである。そして、非常に低い確率で起きたことを、それだけで「幸運」だと解釈するような或る種の思い込みで納得してしまうくらいなら、そのような人は最初から人生そのものに絶望などしないと思われる。

あるいは、宇宙論的なスケールの論証を持ち出さなくても、次のように真摯に、そして力強く論じてもよい筈である。

[...] 生が内含しているそのような善きものは、幸福の条件であると同時に不幸の条件でもある。また、個々に生起する悪があまりにも多いために、ときにはそのような善きもののもつ価値など眼に入らなくなることもあるだろう。それにもかかわらず、その種の善きものは、それ自体としては巨大な恩恵であると広く認められているのである。思うに、このことが、たとえつらい人生であっても、生きることはそれだけでよいことである、という考えの意味するところであろう。事情は大略次のようなものであろう。それが起こることで人生がよいものになるような要因が存在し、逆に、それが起こることで人生が悪いものになるような要因も存在する。しかし、これら二種の要因を取り去ったとき、後には単に価値中立的なものが残るわけではない。残るのはあくまでも積極的な価値をもったものなのである。だからこそ、たとえ悪の要因に満ちあふれ、善の要因が少なすぎて単独では悪の要因を凌駕できない状況にあっても、やはり人生は生きるに値するのである。

[Nagel, 1989: 2f.]

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IX

thanatophobia を否定したり過小評価する批評の一つとして、自分が死んでゆく経過を体験することが「楽しみ」だと言う人がいる。このような人は、もちろん但し書きとして、その経過が痛みや苦しみを伴わなければと言い添えるのが常であり、それゆえ全く自分にはあずかり知らぬ将来についての単なる願望を表明しているにすぎないと考えられる。しかし、多くの事例において人は苦しんだり痛みながら死んでゆくだろう。そして、残された人々は「死によって当人はやっと痛みや苦しみから解放された」という詭弁しか言うことがなくなるという、僕からすれば悲惨としか言いようがない状況を残して、多くの人々は再び何事もなかったかのような生活に戻るしかなくなる。はっきり言っておくが、興味深い経験として死を待ち望んでいるなどという、世迷い事としか思えないことを口にしている人々というのは、死ぬまでの経過が穏やかであるための条件というものが、いまや大多数の場合においては金の問題に帰着するという事実を誤魔化しているのである。高度な医療を受けられる境遇だとか、凄惨な状況で死に瀕するような出来事に巻き込まれないとか、つまりは縁側で猫をなでながら静かに息を引き取る老人のような「漫画的」とでも言える印象を思い描いているのだろうが、そういう限られた者だけが享受できる条件を望ましい前提とした上で thanatophobia という心理を惹き起こすには及ばないと主張することは、本稿が必ず避けなくてはならない自己欺瞞というものの極致であろう。なぜなら、そういう「漫画的」な前提が無効の状況で自分がどうなるかを語ることを最初から避けているからだ。なぜ避けるのかと言えば、それはとりもなおさず thanatophobia が生じるかもしれないと最初から分かっていて、恐れているからだろう。

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X

生命科学者を始めとする自然科学者の著作で頻繁に見かける議論として、宇宙のあらゆる次元における広大さや長大さとヒトという生物個体の有限性とを比較して、その圧倒的なまでの矮小さゆえにヒトは自然の摂理に打ち勝てないとして、中にはユーモラスと言ってもよいほどの論調で、個体どころか生物種としての存続に固執することすら愚かであると説く人々がいる。前野隆司さんの「自分の小ささを客観視する道」という論説も、この種の議論と同じ趣旨で展開されていると考えてよいだろう [前野, 2017: 209-222]。しかし、そういう比較によって thanatophobia を解消したり感じなくなるかどうかは、自明ではないだろう。なぜなら、概念としての無限と有限を比較しつつ、死によって失われる何かの巨大さ(それらは善悪や優劣の価値を含まなくてもよい)を想像する限り、その圧倒的な可能性を喪失することこそ thanatophobia を感じる一つの主要な理由だと言ってもよいからだ。もちろん、それは単なる論理的な可能性であり、物理的な可能性になり得ぬ妄想かもしれない。しかし、それを説得力をもって否定し、ヒトとしての有限さを自ら正しく理解するための議論やクリエーティブを考え出したり、世の中へ提供できない限り、thanatophobia に対する何らかの対処(解決や対策や処方)は、各人の思い込みや強迫観念に委ねられる他はなくなる。

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未完

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参考文献

Eben Alexander, エベン・アレグザンダー (2018)
プルーフ・オブ・ヘヴン』, 早川書房(ハヤカワ文庫NF, NF515, 8131), 2018 (1st., 2012).
臨死体験そのものは全く信じていないが、そのような議論の一例だけでも知っておく必要はあると思って、ちょうど新刊として発売された本書を一読した。もちろん臨死体験に関する僕の結論なり評価は本書を読もうとぜんぜん変わらないが、宗教や SF やゲームやアニメ(そして或る種の哲学)をはじめとして、ファンタジーに埋没してしまいたくなるヒトという生物の弱さというものは、確かに thanatophobia の一つの要因なのかもしれない。
池田清彦 (2006)
脳死臓器移植は正しいか』, 角川書店(角川ソフィア文庫, 332; 角川文庫, 14289), 2006 (1st., 2000).
井上昌次郎 (1999)
睡眠科学の基礎」, 第4回「睡眠科学・医療専門研修」(日本睡眠学会第24回学術大会), 1999.
Daniel Clement Dennett III, ダニエル・デネット (2002)
解明される意識』, 山口泰司/訳, 青土社, 2002 (1st., 1991).
土肥修司(2015)
麻酔中の意識と記憶」,『日本臨床麻酔学会誌』, Vol.35, No.1 (2015),pp.001-014.
林 悠 (2017)
林悠准教授インタビュー:「睡眠とはこのためにあったのか」と、誰もが納得する答えをだしていきたい -前編-」, IIIS Blog, (April 27th, 2017); http://blog.wpi-iiis.tsukuba.ac.jp/2017/04/27/1/ (accessed on November 21th, 2017).
Yu Hayashi, Mitsuaki Kashiwagi, Kosuke Yasuda, Reiko Ando, Mika Kanuka, Kazuya Sakai, Shigeyoshi Itohara(2015)
Cells of a common developmental origin regulate REM/non-REM sleep and wakefulness in mice,” Science, Vol.350, No.6263 (November 2015), pp.957-61.
Elisabeth Kübler-Ross, エリザベス・キューブラー・ロス (2001)
死ぬ瞬間 ― 死とその過程について』, 鈴木 晶/訳, 中央公論新社(中公文庫, キ51), 2001(1st., 1969).
前野隆司 (2017)
霊魂や脳科学から解明する 人はなぜ「死ぬのが怖い」のか』, 講談社(講談社+α文庫), 2017(1st., 2013).
本稿で取り上げている幾つかの論点は、「はじめに」でも書いたように本書を読んで設定している。通俗本ゆえに個々の議論は雑で何の根拠もないが、論点を設定するよい参考にはなった。
Massimini and Tononi, マッスィミーニ、トノーニ (2015)
意識はいつ生まれるのか 脳の謎に挑む統合情報理論』, 花本知子/訳, 亜紀書房, 2015 (1st., 2013).
森岡正博 (1991)
脳死の人 生命学の視点から』, 福武書店(福武文庫, も0501), 1991(1st., 1989).
Thomas Nagel, トマス・ネーゲル (1989)
コウモリであるとはどのようなことか』, 永井 均/訳, 頸草書房, 1989 (1st., 1979).
なお、本稿では「ネイグル」と表記している(ついでに、科学哲学者の Ernest Nagel はドイツ人なので、彼の名前は「ナーゲル」と表記するようにしている)。
中島義道 (2001)
哲学の教科書』, 講談社(講談社学術文庫, 1481), 2001.
冒頭、第一章で「死」について議論されている。2018年3月10日に(おかしな言い方だが、積読してあったのを)自宅で見つけて目を通してみたところ、大森荘蔵やネイグルらの見解が紹介されており、本稿の内容と大きく乖離した着眼点ではないことが分かる。話題を提供するだけの本なので、中島さん自身の議論は殆ど展開されていない。よって、本稿を読んでもらえば本書の第一章を読む必要はないと思う。
鈴木貴之 (2001)
デネットの意識理論?」, 『哲学の探究』, No.28, 2001, pp.113-125.
Lev Nikolayevich Tolstoy, レフ・トルストイ (1973)
イワン・イリッチの死』, 改版, 米川正夫/訳, 岩波書店(岩波文庫, 赤619-3), 1973 (1st., 1886).
Mark Twain, マーク・トウェイン (2017)
人間とは何か』, 大久保 博/訳, 角川書店(角川文庫, 20261), 2017 (1st., 1906).
上田一作 (2006)
麻酔の作用機序 麻酔研究50年の蓄積』, 真興公交易株式会社医書出版部, 2006.
渡辺恒夫・三浦俊彦・新山喜嗣 (2017)
人文死生学宣言 私の死の謎』, 春秋社, 2017.
自分自身が死ぬということをあからさまに哲学や生命倫理の議論として展開する立論を模索した本と言ってよく、本稿を書き始めてから書店で見つけて感心した。もちろん内容は個々に批評するべき点が分かれるけれども、既存の死生学や死の思想や生命科学が人(あるいは個体としてのヒト)の死と称して実は他者の死だけを論じる自己欺瞞に陥っているという指摘には、文句なく共感できる。
柳澤桂子 (2010)
われわれはなぜ死ぬのか 死の生命科学』, 筑摩書房(ちくま文庫, や33-2), 2010(1st., 1997).
吉本隆明, 竹田青嗣, 芹沢俊介, 菅谷規矩雄, 川上久夫, 田口雅巳 (1988)
人間と死』, 春秋社(シリーズ〈「生きること」と「死ぬこと」〉), 1988.
1987年に神奈川県逗子市で開催された連続講演会の記録を元にしたアンソロジーだ。竹田さんが「核爆弾か事故で突然死ぬのが理想」と奇妙なことを書いているのが気になる。(もちろん、苦痛なく急激に死ぬ原因として脳や心臓の急性疾患などご存知だろうに、なぜわざわざ核や事故を必要とするのかが理解不能だ。)
養老孟司 (2004)
死の壁』, 新潮社(新潮新書), 2004.
本稿は冒頭で述べたように学術論文ではないので、本書のような通俗書で展開される通俗的な議論も敢えて参照した。どうして通俗的な議論や凡庸な思考や我々の観念には、あれやこれやの限界や弱点があるのか。それを知ったり、自分たちの認知能力の限界をわきまえるために、このような通俗書の議論は「押しピン」のような役目を果たしていると思う。もちろん学術的には何の必要も価値もない著作だが、こうした通俗書を現に読む人がいるという事実を無視して公衆に持論を問うのは、独りよがりというものだろう。

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