確率論的因果性の概念

河本孝之(KAWAMOTO Takayuki)

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オンライン掲載にあたって

本稿は、僕が1996年に関西大学大学院博士課程前期課程、哲学及哲学史研究第一講座(竹尾治一郎)へ在学していたときに、いちど提出してから取り下げた文書です。正式に大学が受理した文書ではありませんから、この著作権なり二次利用なり頒布なりにかかわる全ての権利は著者(河本)にあります。その後で1年だけ留年して書き直した、「確率的因果性の概念」が僕の正式な修士論文です。こちらは、いったん大学へ提出している文書です。したがって、著作権はもちろん僕にありますが、派生的な権利は大学にあるかもしれません。したがって、自分が書いた文書だからといって軽率にオンラインで公表できるかどうかは判断がつかないため、当サイトでは修士論文を書くための習作として書いた本稿を公表します。もちろんデタラメな文書を公表する意図はなく、修士論文の水準になくとも読むに値する内容ではあろうと思います。

本稿は、ワープロで B5 版の用紙に20ページていどを印刷して製本しました。実際に修士論文として受理された文書は、A4 版の用紙に100ページていどを印刷したので、正式な修士論文では5倍以上の分量となっています。それだけの差になった経緯とか、本稿を修士論文としては提出せずに取り下げた理由などは、もう思い出せないので書きません。もしかすると、論文の中身とは関係がなくて、「あと1年だけ奨学金をもらう」といった下世話な事情があったからかもしれないからです。

なお、以下の文書では幾つかの訂正を加えてあります。論旨に影響はなく、Wesley C. Salmon の名前を「サーモン」から「サモン」へ訂正したとか、添付した図を作り直したとかです。

1. 序論

「統計」や「確率」という語は、わたくしたちが関心をもつさまざまな話題で言及されるようになった。そして幾人かの科学哲学者たちは、統計的な相関をもつ二つの事象どうしにも因果性があると考えている。そこで、本拙論においてわたくしは確率的な関係として定式化されるような因果関係を考察し、その定式化がどのような根拠に基づくべきなのかという問いへ答えようと思う。恐らく可能な答えとしては、二つの事象どうしの或る確率的関係が実在の結びつきを反映するからであるか、もしくは或る確率的関係をもつ二つの事象どうしについてわたくしたちが原因と結果の結びつきという枠組みを当てはめるからであるかのどちらかであろう。もし前者の答えを選ぶならば、統計的関連性をもつ事象どうしの関係が因果関係だと言いうるのは、そうした関係が物理的実在どうしの客観的な因果関係を表しているかまたは反映していると想定できるからである。そしてもし後者の答えを選ぶならば、統計的関連性をもつ事象どうしの関係が因果関係だと言いうるのは、或る事象が原因や結果として認識されるための要件と単に矛盾しない仕方で定式化されているからである。そこで本拙論は、「確率論的因果性 probabilistic causality」に関する反実在論を支持する。

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2. 確率論的因果性のさまざまな定式化

この節では、確率論的因果性について主張されてきたさまざまな見解を概観して、それらの定式化が主張している内容をできるだけ正確に理解しようと思う。ここでわたくしは、特にパトリック・スッピス Patrick Suppes, ナンシー・カートライト Nancy Cartwright, そしてウェズリー・サモン Wesley C. Salmon らが述べた三つの定式化に注目する(それらの定式化は今日の科学哲学においてよく知られたものであり、また既に日本でも [田村, 1990], [竹尾, 1994] で紹介されている)。

2.1 一応の原因 prima facie cause

1995年の春にザイールのキクウィトでフィロウイルスのエボラ型が流行し、200人ほどの病死者を出した。統計によると、このウイルスに感染した人の92パーセントが2週間以内に死亡したという。現地で患者の治療や死体の処理に当たっていた人々は、このウイルスが患者や死者の体液で感染することを知ってから、保護服を着て治療したり死者の身体に触れる風習を止めさせたりして感染の拡大を抑えた。ウイルスのこうした流行は、一般には多くのウイルスについてその媒介者が未だ特定されていないことによるが、特に発展途上国では医療従事者や医療施設が不足しており、また衛生状態が悪く医療用具が使い回しにされていることから助長されがちだと報じられている [Garrett, 1995: 54f.]。

わたくしたちはいづれにせよ死すべきものであるには違いないということから、或る健常者が任意の時点から2週間以内に死亡する確率を p(B) として仮定できるとしよう。するとエボラウイルスヘ感染したという条件のもとで或る健常者が感染した時点から2週間以内に死亡する確率は、p(B|A) という条件付確率として示すことができる。ここで B は健常者が任意の時点から2週間以内に死亡するという事象のクラスであり、A は健常者がエボラウイルスに感染するという事象のクラスである。すると先の統計を用いて p(B|A) = .92 だと主張することができ、誰かがエボラウイルスに感染したあとで2週間以内に死亡したことを知ったならば、わたくしたちは「彼が亡くなったのは彼がエボラウイルスに感染したからだ」と言うだろう。このとき、わたくしたちはその判断に何を前提しているのだろうか。まず p(B) にしかるべき値が対応すると仮定したのだから、少なくとも普通の健常者が2週間以内に死亡する確率よりもエボラウイルスに感染してから2週間以内に死亡する確率の方が高いという確率的関係、つまり

p(B|A) > p(B)

を前提しているのだと言える。実際、わたくしたちが関心をもつさまざまな話題にこのような確率的関係を前提しうる事例がある。隣家に明かりが灯ったのを見たときに誰かが帰ってきたのだろうと思うのは、ひとりでに明かりが灯るよりも誰かがスイッチを入れて明かりが灯る見込みの方が高いと推定できるからだろうし、またポーカーの親が札を一度も換えずにフラッシュばかり出しているのを見たときに彼がイカサマをしているのだと思うのは、たとえひとりでにそうなる確率があるとしてもそれはイカサマをすることで極端に高くなると考えられるからであろう。そこでパトリック・スッピス Patrick Suppes は、事象 A が事象 B よりも先に起きており、事象 B が起きる確率よりも、事象 A が起きるという条件のもとで事象 B が起きる条件付確率の方が高いとき、そしてそのときにのみ事象 A は事象 B に対する「一応の原因 prima facie cause」だと定義している [Suppes, 1984: 151]。この定義を使って言い直せば、エボラウイルスに感染すること,誰かが帰宅して電灯のスイッチを入れること,イカサマをすることは、或る人が2週間以内に死亡したこと,隣家の明かりが灯ること,そして親がフラッシュばかり出していることの一応の原因だと言ってよいだろう。

2.2 にせの原因 spurious cause

しかし事象 A が事象 B に対する一応の原因であるような確率的関係をもつとしても、その関係を満たすだけでどんな二つの事象にも因果関係があるとは言えない。科学哲学でよく知られた事例を挙げるならば、気圧計の目盛りが下がるという条件のもとでその付近が暴風雨に見舞われるという条件付確率は単にその付近が暴風雨になる確率よりも高いであろうから、p(暴風雨になる|気圧計の目盛りが下がる) > p(暴風雨になる) という確率的関係を主張できるかもしれないが、寧ろわたくしたちは、或るところが暴風雨になるのは気圧計の目盛りが下がるからではなく、その周辺を取り巻く気圧状況が変化したからだと考えている。またエボラウイルスの事例にしても、もしエボラウイルスを含むフィロウイルス一般に特有な或る RNA が逆転写されて正常細胞を変異させるのだと知ったならば、少なくとも病理学者は「エボラウイルスに感染したこと」よりも「しかじかの RNA が逆転写されたこと」を患者が死亡した原因として語るべきだろう。

そこで、二つの事象どうしが p(B|A) > p(B) という確率的関係にあるとき、先行している事象 A の「分割 partition」を定義しよう。事象 A を互いに排他的な幾つかの部分集合へ区分けする指標があるならば、事象 A は

{ A1, A2, ..., An }

という分割をもつと言う。すると、もし事象 A の或る分割 Ai

p(B|Ai) > p(B)

という確率的関係を事象 B に対してもち、更に

p(B|Ai) = p(B|A)

である、つまり事象 A が起きるという条件のもとで事象 B が起きることは事象 Ai が起きるという条件のもとで事象 B が起きるということに他ならないならば、わたくしたちは「事象 A が事象 B の原因である」と言うよりも寧ろ「事象 Ai が事象 B の原因である」と言うべきなのである。そして、事象 A よりも先に起きる他の事象 C またはその分割である Ci があって、それが事象 B に対して p(B|Ci) > p(B) かつ p(B|Ci) = p(B|A) であるならば、わたくしたちは「事象 A が事象 B の原因である」と言うよりも寧ろ「事象 Ciが事象 B の原因である」と言うべきである。すると、或る事象 A が p(B|A) > p(B) という確率的関係を満たしていても、更に p(B|Ci) > p(B) かつ p(B|Ci) = p(B|A) であるような事象 Ci により、事象 A は事象 B が起きることについて Ci と同じていどしか関連がないのだと言える [Suppes, 1984: 153]。もちろん、p(B|Ci) = p(B|A) または p(B|A1) = p(B|A) であるからといって、「事象 A が原因だと特定するのは事象 A1 や Ci が原因だと特定するのと同じである」と言っているのではない。なぜなら、もしこれこれの指標による分割だということを指摘する点で、事象 Ai を特定することが事象 A を特定することよりも多くの情報をわたくしたちに与えないならば、どちらを原因として語ろうとも変わりがないからである。エボラウイルスに感染して発病することが、しかじかの RNA を逆転写されて正常細胞が変異することにほかならないと言うとき、そこに言い換え以上のものがなければ病理学者でさえわざわざ言い換えようとはしないであろう。

2.3 真正の原因 genuine cause

こうしてスッピスは、或る事象 A が他の事象 B に対して一応の原因であり、かつにせの原因でなければ、それは「真正の原因 genuine cause」であると述べている [Suppes, 1984: 152]。そこでこれまでの条件から真正の原因を定義しておくと次のようになる。

*1p(B|A∩C) = p(B|C) であるとき、A は B に対し C によって「遮断 screening-off」されたと言う。

確かに以上の制限をつけるならば、一応は事象 B の原因として理解することができる事象 A がにせの原因であったということ(あるいは混乱を恐れずに言えば見かけだけの原因であったということ)を説明できる。

ここで、わたくしたちがなぜ事象の分割を考慮しなければならないかを以下の事例で確認しよう。男子と女子がそれぞれ500人ずつ関西大学を受験し、合格者100人のうちで男子と女子の比率が 4:1 だったとしよう。すると、或る受験生が女子であることは、その人が関西大学に合格する確率を下げると言わざるをえないであろう。受験者1,000人のうちで誰か任意の人が合格する確率はもちろん10パーセントであるが、上の統計からすると500人の女子のうちで合格した人の割合は4パーセントだからである。そこで、

p(“failed”|“being a girl”) > p(“failed”) [.96 > .9]

というさきほどの確率的関係を得るのだが、学部ごとの合格率を調べてみると、文学部哲学科をはじめとする多くの学科ではほぼ同じ比率で男子と女子が合格していたにもかかわらず、女子の受験生の大半が法学部政治学科を受験し、その人数は法学部政治学科を受験した男子の10倍であるということが分かったとすれば、女子の合格率が低いのは全学でみた女子の合格率から予想されるような偏見(?)があったからではなく、定員の限られた一部の学科に女子の受験生が集中したことによるのだと言える。そしてそれゆえに、或る関西大学の受験生が女子であるということの分割を考慮して、それら女子の受験生が文学部哲学科を受験したとか法学部政治学科を受験したというそれぞれの分割について p(B|Ai) > p(B) という確率的関係が成り立つかどうかを調べることができなければ、わたくしたちは全学あたりの合格比率から「女子と男子の合格比率には偏りがある」と言わなければならないのである。

2.4 シンプソンのパラドックス

先の事例はナンシー・カートライト Nancy Cartwright が「シンプソンのパラドックス」として紹介しているものであり、2.1 で定義した見かけの原因だけでは二つの事象どうしに因果関係があることにはならないという主張を裏付けている。但しカートライトは、事象 A が起きたという条件のもとで事象 B が起きる確率は、事象 A が起きなかったという条件のもとで事象 B が起きる確率と比較されねばならないと考えて、スッピスが見かけの原因を定義するために示した p(B|A) > p(B) という確率的関係よりも、寧ろ p(B|A) > p(B|Ac) という確率的関係を使っている(ここで「Ac は A という事象の余事象からなる、クラス A の「補集合 complement」である)。そしてシンプソンのパラドックスは、見かけの原因が 2.3 で定義したようなしかたで制限されねばならないということを要求するだけではなく、もっと強い制限を要求するのだという。そこで、シンプソンのパラドックスとして挙げられる別の事例を考えてみよう。

まず、ふつうわたくしたちは、或る人に喫煙習慣がある (S) なら、その人は心臓疾患にかかる (H) 見込みが高いと信ずる。すると或る人か単に何らかの事情で心臓疾患にかかる確率よりも、その人が喫煙習慣をもっていたという条件のもとで心臓疾患にかかる確率の方が高いであろうと信ずることにもなるから、わたくしたちはこれまでのやりかたに従って p(H|S) > p(H) と主張すればよい。ところが、もし喫煙習慣をもつ人の全員が心臓の負担にならない程度の適度な運動をする (E) 習慣をもっており、更に適度な運動をしている喫煙者が心臓疾患にかかる確率は単に何らかの事情で一般に或る人が心臓疾患になる確率よりも低いとしよう。すると喫煙者の全員は適度な運動をする習慣があると想定しているので、喫煙習慣が心臓疾患になる確率を上げる影響が無効になってしまい、見かけは p(H|S) < p(H) と主張できることになる。それゆえカートライトによれば、「喫煙習慣は心臓疾患の原因だろう」と信ずるのは、p(H|S) > p(H) ではなくて、p(H|S∩Ec) > p(H|Ec) という確率的関係を信ずることなのである。

この主張がこれまでにみたスッピスの主張よりも強いものだということは明らかである。2.1 で挙げたエボラウイルスの事例に戻るならば、確かにいづれにせよ人は死すべきものなのだから、「或る人が2週間以内に死ぬ確率」を見積もることはできるかもしれないけれども、単に死ぬことなどありえないのであって、エボラウイルスであれ何であれ他に何か原因があろうから、その人の死亡原因がエボラウイルスの感染であったかどうかに関心をもっているとき、カートライトの見地からすると、わたくしたちはその確率 p(B|A) を、エボラウイルスに感染することとは別の或る事象が起きたという条件のもとで或る人が2週間以内に死亡する確率 p(B|Ac) と比較しなければならないのである。p(B|A) > p(B|Ac) が p(B|A) > p(B) よりも強い想定に基づいていることは明らかであろう。なぜなら前者は、エボラウイルスに感染することとは別の事象が起きたという条件のもとで或る人が2週間以内に死亡する確率は、それがどのような事象であれ、エボラウイルスに感染したという条件のもとで或る人が2週間以内に死亡する確率よりも低いと明言することになるからである。

2.5 因果的均質性 causal homogeneity

それゆえ、いま述べたような p(B|A) > p(B|Ac) を主張するならば、事象 A が起きたという事象を除く全ての要因について考慮する必要がある。そして、わたくしたちが関心を向けている事象 A が起きるということ以外の事情は全く同じ(つまりその真理値も同じ)だとして、A を除く全ての事情が同じならば(ceteris paribusp(B|A) > p(B|Ac) だと主張できるときに、事象 A は事象 B の原因だと考えうるのである。

A を除く全ての要因を考慮しなければならないということは次のようにも指摘されている。

[...] A が B を引き起こしたと言うことは全く間違っている。その代わりに、或る因果的な場Fにおいて A が B を引き起こしたと言うべきだろう。出来事 A は因果的な場 F において B の原因であるかもしれないが、他の因果的な場 G においては B の原因ではないかもしれない。そして更に、確率論的因果性の因果的な場へ自然に対応するものは参照クラスなのである。或る出来事は或る参照クラスにおいて他の出来事の確率を上げるかもしれないにせよ、他の参照クラスでは下げるかもしれないだろう。

[Otte, 1981: 182f.]

この引用文でオットが述べている「因果的な場 causal field」は、彼自身が言い換えているように参照クラスを意味する。これまでの言い方では、事象 A が起きるというクラスが参照クラスであるし、また事象の分割 Aj か起きるクラスもまた参照クラスである。だから先にみたシンプソンのパラドックスに則して言えば、全学部あたりの女子の不合格者という参照クラスをとるか、もしくは個々の学部あたりの女子の不合格者という参照クラスをとるかで、その受験生が女子であったということが不合格になる確率を上げることもあるし上げないこともあるのだ(例えば、同じ事例で文学部英文学科における男子と女子の合格比率が 1:4 となるような統計も先の統計と全く整合しうる)。

そこでカートライトは、或る事象 A が他の事象 B に対する原因であるためには、事象 B について因果的に均質的 causally homogeneous な全ての状況で事象 A が事象 B の起きる確率を上げねばならないのだと主張している。

特定の因子がいかなる他の因果的な因子とも相関しない最も一般的な状況とは、他の全ての因果的な因子が固定されていると考えられている状況であり、それは他の全ての因果的な因子について均質的であるような状況である。

[Cartwright, 1983: 25]

まず或る事象に対する因果的な因子 C のクラス { C1, C2, C3, ..., Cn } を考えて、一般的法則「A ならば B (カートライトの表記では “A ↪ B”)」を個々の因子についてテストするような状況を考える。ここで、一般的法則に現れる A は { C1, C2, C3, ..., Cn } に含まれない*2。もちろん個々の因子 Ci はそれぞれ一般的法則に現れる B に対して因果的な囚子だとされているので、

Ci ↪ B ∨ Ci ↪ ~B

である(Ci ↪ ~B は、その因子が事象 B について否定的に作用するということである)。またそれぞれの因子(ここではこれまでの表記との混乱を避けるために、それぞれの因子を言明ではなくクラスとして表記する)の積も考慮することができ、これをクラス { C1, C2, C3, ..., Cn } の任意の部分クラスとして、

Kj ≡ ∩[i>=1] Ci

とすれば、いかなる Kj (1 <= j <= 2i) についても

p(B|A) > p(B|AC)

であるとき、そしてそのときにのみ、あらゆる因果的な状況において「A ならば B である(A が B の原因である)」と言えるだろう。そして、何度も述べてきたように、この確率的関係は p(B|A) > p(B) よりも強い制約を加えている [Cartwright, 1989: 56]。

*2そしてカートライトは { C1, C2, C3, ..., Cn } の部分クラスとして言及される K1(後述)を「状態記述 state description」だと述べているが、これはカルナップ Rudolf Carnap が用いた状態記述(或る言語 L において可能な状態を表した全ての原子言明の連言)ではない。それゆえ後にカートライトも、C を含む { C, C1, C2, C3, ..., Cn } を「因果的要因の完全な集合 complete causal set」として言及するだけに留めている [Cartwright, 1983: 26; 1989: 56]。

もちろんスッピスはこのような制約が強すぎると考え、或る事象 A が他の事象 B に対する原因だということを結論づけるために、前もって事象 B へ因果的に関わるあらゆる因子を考慮しなければならないのだろうかと疑問を投げかけている [Suppes, 1984: 154]。なるほどあらゆる Kj について p(B|A) > p(B|Ac) であるという主張は、もしそれぞれの Kj を実際にテストすることができなければ留保しなければならないと言いうるがゆえに、恐らくはいつまでも留保されうるだろう。わたくしたちは或る事象が起きるための因子をきわめて身近な事象についてさえ知り尽くしていないのである。わたくしたちが二つの事象を結びつけて言い表そうとするとき、たとえ慎重に「他の事情が同じならば事象 A は事象 B の原因である」と言ったにしても、それは他の事情 other things が何であるかを知っている(または知りうる)からではなく、寧ろ知らないからであり、わたくしたちが二つの事象についてそれらの関係を論じる際にわたくしたちの関心から外れることがらはどんな因子であれ無視してよいと想定しているからではないのだろうか*3

*3反実在論の観点からは、もし仮に他の事情を固定しておくことができるにせよ、それは想定上の要因クラスとして固定されるのではなく、わたくしたちが受け入れている事実や理論から求められるような A に競合することが知られている要因のクラスとして固定されるのである。

2.6 因果的相互作用 causal interaction

以上に述べてきた見解に対し、ウェズリー・サモン Wesley C. Salmon は、確率論的因果性の概念を「事象 event」どうしの関係ではなく、事象が時空上で連続した系列である「過程 process」どうしの相互作用として説明している。そして、或る事象に対するにせの原因と真正の原因が区別されてきたように、「疑似過程 pseudo-process」とほんとうの過程 genuine process すなわち「因果過程 causal process」とをサモンは区別する。

或る過程がほんとうの過程であるのは、特定の構造的な特徴が時空を通じて伝播されるような過程であり、疑似過程はそうした構造的な特徴を伝播しないのである。道路を走行している自動車とその影の運動を眺めるとき、自動車の走行という運動はほんとうの過程であるが、影の運動は疑似過程である。なぜなら或る時点における影の存在は、次の或る時点における影の存在を(構造的な特徴を伝播することによって)引き起こしているわけではないからである。時刻 t1 においてここに自動車の影があるのは、その前の時刻 t0 においてあそこに自動車の影があったからではない。

因果過程と疑似過程を区別するもっとはっきりした要件はないだろうか。一つの可能な答えは、前節でみたカートライトの見解を利用して、A や B を事象ではなく過程のクラスと見倣すことにより、「あらゆる他の事情を考慮しても p(B|A∩Ki) > p(B|Kj) ならば因果過程である」と主張することであろう。するともしその過程が B の発生にとって無関係である、つまり p(B|A∩Ki) = p(B|Kj) であるならば、その過程は疑似過程である。自動車と影の事例にこの考えを適用すれば、影 S と自動車 C の運動を表す四つの過程である St0, St1, Ct0, そして Ct1 を考慮するとき、

Fig.1 of process causation
Fig.1, pseudo-process and genuine process

と図示できるならば、それらの過程についてまず言えることは、p(St1|St0∩Ct1) = p(St1|Ct1) である。つまり St1 という過程にとって、Ct1 という過程に St0 という過程を考え合わせてみてもなにも加えたことにならない。それゆえ、影がそこまで動いてきたという過程にとって、影がそれまでにも動いていたという過程は、自動車がそこまで動いていたという過程により遮断されるのである。

しかし単に影を観察しているならば、そこまで影が動くように影が動いてきたということを観察することもできるから(自動車の走行が観察されている場合には影の走行も観察できるという因果的な均質性が保たれている限り)、p(Ct1|Ct0∩St1) = p(Ct1|St1) となって自動車の走行という過程も疑似過程になってしまう(少なくとも影が消えてしまわない限り、影の運動どうしの統計的関連性は、自動車の運動どうしの統計的関連性と同じように主張できる)のだが、だからといって自動車の走行がそもそも因果過程でなければならない(つまり影-過程で自動車-過程が遮断されるような統計的関連性はほんとうの関連性ではないが、自動車-過程で影-過程が遮断されるような統計的関連性はほんとうの関連性である)と言ったならば、わたくしたちは無限後退へと陥るだろう [van Fraassen, 1980: 120]。

そこでサモンは、ほんとうの過程はその構造を伝播することによって何らかの影響を他の過程に与え得るが、疑似過程はそうした影響を与えないのだと付け加えている。このことを示すために、走行している自動車と影の前方にそれぞれ別の車が止まっていたとしよう(Fig.2)。走行している自動車 C とその影Sのどちらにも進路上で接し得る別々の自動車 C1 と C2 があるとき、走行していった自動車 C は C1 と衝突して前面が変形するだろう。そして C の影も前面が変形してしまう。では次に、自動車 C の進路上だけに C1 を置いたとしよう(Fig.3)。このときも自動車 C が C1 と衝突することで C の前面が変形し、そして影 S の前面も変形する。また更に、自動車 C の影 S の進路上だけに C2 を置いたとする(Fig.4)。このとき、最初の事例とは違って影 S も自動車 C も前面が変形しないのはすぐにわかる。こうして最初の事例(Fig.2)に戻ってみると、影 S の前面が変形したのは C が C1 と衝突することで C の変形が S の変形へと影響を与えたからであり、自動車 C の前面が S の前面の変形によって影響を与えられたからではないということが言える。そして或る過程が別の過程との相互作用によって影響をやりとりし得るような構造上の特徴をサモンに従って「マーク mark」と呼ぼう。すると、次のようにサモンの見解を要約することができる。

Fig.2 of process causation
Fig.2

Fig.3 of process causation
Fig.3

Fig.4 of process causation
Fig.4

但しここで導入されている因果的相互作用は、

  • p(A∩B|C) > p(A|C)・p(B|C)
  • p(A∩B|Cc) = p(A|Cc)・p(B|Cc)
  • p(A|C) > p(A|Cc)
  • p(B|C) > p(B|Cc)
[Salmon, 1993: 158f.]

と表すことができ、最後の二つの式は過程 A と B について過程 C が Cc よりも高い相関をもつことを主張する。そして上から二つめの式は、もし過程 C が起きなければ、過程 A と過程 B が統計上で独立に起きるということを主張している。だが一つめの式により、もし過程 C が起きたならば、過程 A と過程 B が共に起きる確率は、過程 C が起きたという条件のもとでそれぞれが独立に起きるよりも高い確率で起きるのである。もし一つめの式が等式であったならば、過程 A と B が共に起きるということにはとりたてて統計上の関連性がないのだから、過程 A が起きるということは過程 B が起きるということ(またその逆も)について何も教えないのであり、過程 C によって遮断されるだろう。しかし一つめの式と二つめの式を考え合わせると、それらは「過程 C が起きたという条件のもとで起きる過程 A と B は、それぞれ独立に起きるよりも C の発生によって共に起きやすくなる」と主張しているのである。

先に「疑似過程は因果過程によって遮断されるが逆は成り立たない」と述べただけでは疑似過程と因果過程を区別することができないと指摘したが、それは因果過程でさえもが疑似過程どうしに見出される統計的な相関によって遮断されてしまうからであった。つまり、統計的な関連性を述べ立てる確率的関係はそれの項 term について単にこれこれの確率的関係があるということ以外には何も言わないのである。そこでサモンは、或る確率的関係がほんとうの因果的な結びつきを示すように、構造上の特徴であるマークが伝播されなければならないという条件を加えた。だがこのような条件は、或る関係が確率的関係でなくとも主張しうるがゆえに、確率論的因果性の概念にとっては本質的でないかもしれない。すると確率論的因果性が世界の客観的な推移を反映していると見倣す限り、構造上の特徴であるマークがわたくしたちの認識とは独立に伝播されている筈だと考えて、確率的関係が実在の推移を反映するのだと主張しなければならないだろう。そうした実在の推移は、確率的関係が正確に記述しうる確率的な推移であるかもしれないし、あるいは確率的関係が近似的に記述しうるような何らかの決定論的な推移であるかもしれない。いづれにせよ、或る確率的関係が実在の推移を反映しているのだと主張するならば、少なくとも「なぜ因果的相互作用は実在の推移を反映しているのか」、「確率的関係が実在の推移を反映するとはどういうことであるか」、そして「その実在の推移があるとしても、とりわけなぜそれが因果的な推移でなければならないのか」という問いについてサモンは答えなければならないのである。

2.7 保存量 conserved quantity

それゆえ他の過程へ影響を与える過程が因果過程であると述べただけでは、「ヒュームが見つけようとして無駄骨を折った客観的な物理的因果結合を正確に構成する」というサモンの目標はまだ十分に果たされていない [Salmon, 1984: 147; 1994: 297]。そして更に、サモンの見解は幾つかの不明瞭な点を残している。ここで再び、サモンの見解を要約した II (a)~(c) に戻ってみよう。II (c) は、もし或る過程が経過している時間上の区間において相互作用がなかったならば、マークは伝播されているのだと述べている。しかし相互作用がなければどうやってわたくしたちはマークが伝播されていることを知りうるのだろうか。ここには、或る構造上の特徴それ自体と構造上の特徴を示すものとの混乱があるように思える。或る構造上の特徴が伝播されていることを知りうるのはマークがその区間において持続的に現れているとき(自動車 S の全面の形をマークとして示すように、自動車の表面と太陽光線が相互作用するとき)である。だから「マークが持続的に現れているならば、マークとして示されている構造上の特徴が伝播されているのだ」と考えねばならない。

そこでフィル・ドウ Phil Dowe は、サモンの見解を修正して、因果的相互作用と因果過程を次のように定義している。

ここで「世界線 world-line」は、対象の経過を表現する時空ダイアグラム上の点の集まりであり、「保存量 conserved quantity」は、現行の科学理論において普遍的に保存されると主張できるような量である。質量,角運動量,電荷などがこれにあたる。仮に或る埋蔵文化財調査員が遺跡から遺物を発掘したとしよう。このとき科学理論は、自然の大気中には一定の割合で二酸化炭素が含まれており、そのうちの何割かは炭素の放射性同位体 14C をもつ二酸化炭素であると教える。そして遺物に含まれる二酸化炭素のうち、どれだけの量が放射性同位体をもつ二酸化炭素であるかを測定することにより、放射性同位体 14C の半減期は 5.73 × 103 年だから、自然の大気中の二酸化炭素に含まれる 14C を a, 測定された二酸化炭素に含まれる 14C を b とすれば、5.73a / 2b (年)だけ経過していると推定できるのである。そしてこの事例は、電荷という保存量を示す過程どうしの相互作用として理解できるから、先の III (a) と III (b) を満たしている。またドウが挙げている事例も同じように、ラジウムが一定の電荷を保存しつつ存在している過程 (C), ラジウムの崩壊によって生成されたラドンが存在している過程 (A), ラジウムの崩壊によって生成されたヘリウムが存在している過程 (B) を使って、それぞれの過程が保存量(電荷)の変換という相互作用によって理解されると述べている(fig.5; cf. Dowe, 1992: 212)。そしてドウは、保存量という概念がサモンの「構造上の特徴」という表現よりも明確であり、科学理論によって厳密な意味を与えられているからすぐれていると主張しているのである。

Fig.5
Fig.5

ところで保存量を使って表現するにせよ、これまでみてきた原因と結果の関係は確率的関係で表されるのだから、保存量の変換が確率的であるということをドウはどのように解釈するのだろうか。

一つの可能なやり方は、確率が保存量として考えられうるということである。そしてこのやり方は、保存量の理論と確率論的な考察とを組み合わせる魅力的な方法を与えるだろう(私はこの考えを、ポール・ハンフリーズに負っている)。確率が正しい物理的な量であるかどうかはっきりしないが、もしそうならば確率は普遍的に保存される。

[Dowe, 1992: 213; 強調はドウによる]

しかしドウは、ラジウムの崩壊確率かラドンとヘリウムの崩壊確率において保存されないという点から、以上のやり方が疑わしいと述べている。もし確率が物理的な保存量でないならば、或る確率的関係が物理的に客観的な関係を示すと述べることはできず、せいぜい何らかの仕方で実在の関係を反映していると述べることしかできないだろう。

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3. 定式化とその解釈に関する評価

これまでに概観した確率論的因果性に関するさまざまな定式化(主にスッピス,カートライト,サモンの定式化へ注目した)を評価するための論点は幾つもあるに違いないが、ここでは殆どの定式化で考慮されていると思われる論点だけに着目しようと思う。

まず原因と結果の結びつきを示す確率的関係として p(B| A) > p(B) があまりにも単純すぎるという主張は、どの著者にも受け入れられているだろう。わたくしたちの世界は原因から結果へ突如として転じる不連続な事象の断片で構成されているのではなく、原因が起きてから結果へと移行する間に(気圧計の目盛りが下がるといった)何らかの兆候が現れ得るから、それらの兆候が結果であって原因ではないということを示す必要がある。だがにせの原因や疑似過程を排除するために p(B|A) > p(B) という確率的関係がどうやって修正されるべきなのか、という点についてはさまざまなやり方があった。

一つの可能な修正は p(B|A) > p(B) を p(B|A) > p(B|Ac) へ置き換えることであった。但しこのままでは Ac というクラスはカートライトが定義した因果的な全ての状況を表していない。なぜなら、エボラウイルスの事例を使えば、p(B|Ac) はエボラウイルスヘ感染すること以外の何かが起こるという条件のもとで人が2週間以内に死亡する確率を述べているだけだからである。エボラウイルスヘ感染すること以外の何か(村山富市氏が内閣総理大臣を辞職したこと, 昨日の午後に大阪府で雨が降ったことなども含まれる)が人の生存に関わる要因へと限定されるように、カートライトは因果的な全ての状況という表現を導人したのであり、彼女自身も p(B|Ac) という確率があまりにも不適切であることをよく自覚していたのである [van Fraassen, 1980: 22; Cartwright, 1983: 23f.]。

それゆえ、「事象Aが起きなかったことに比べ、事象Aが起きたならば事象Bの発生する確率が上がる」と主張するだけでは不十分である。しかしわたくしは、カートライトの定式化が示すような「他のあらゆる因果的な状況において事象 A が事象 B の発生する確率を上げる」という主張も受け入れることができない。なぜなら、カートライトの定式化では他のあらゆる因果的な状況として事象 A に競合する要因が事象 B の発生に無関係とされるような事象からどうやって区別されているか全く分からないからである。それが言わばにせの要因でないか、少なくとも事象Bの発生にとって統計的関連性をもつと想定するためには、個々の要因について再び同様の確率的関係を主張しなければならないように思う。すると先にわたくしは、事象 A の発生と正確に比較される他のあらゆる因果的な状況を想定できるという主張が強すぎると述べたけれども、寧ろその主張は端的に言って無限後退へと陥っているのではないだろうか。

もし原因と結果の結びつきとして理解される確率が原因の不在と比較されるべきでなく、他の可能な全ての要因と比較されるべきでもないならば、わたくしたちはスッピスの定式化に従ってそれを原因の分割や原因に先行する事象と比較しなければならないようにみえる。確かに、或る事象 A の分割が知られており、その分割によって事象 A 自体が遮断されてしまうならば、事象 A は原因として言い立てるほどのものではなくなるだろう。なぜなら、事象 B に対して見かけの原因にすらならないような分割があっても、それが事象 A の分割だという点で不当に扱われることになるからである。たとえ関西大学のどの学科も女子の受験生に対して公平な評点を与えていたにしても、全学科における男子と女子の合格者数が公平でなかったならば、どの学科であろうと関内大学は女子の受験生を不公平に扱っていると理解されてしまうだろう。

他方、一応の原因に先行する事象が一応の原因を遮断しないならば真正の原因だと言ってよいのだろうか。サモンは、一応の原因がそれ自体の分割によって遮断されないならば真正の原因であり得るという点に同意しながらも、一応の原因に先行する事象が見かけの原因を単に遮断しないからといってそれが真正の原因だとは言えないと述べている。ビリヤードのナインボールと呼ばれる種目を競技しているプレイヤーが、白球で8番球を狙っているとしよう。このとき、8番球が首尾よくコーナーポケットに落ち得るとしても、白球もサイドポケットに落ちる可能性がある困難な状況だったとする。そこでこの状況を、プレイヤーの突いた白球が8番球と衝突すること (C), 8番球がコーナーポケットに落ちること (B), 白球がサイドポケットに落ちること (A) とすれば、サモンによると p(A|C) = .5 であり、p(A|B∩C) ≒ 1 であるから、p(A|B∩C) > p(A|C) となり、白球がサイドボケットに落ちることについて8番球がコーナーポケットに落ちることが統計上の関連性をもってしまう。そして、C によって B が A から遮断されなければ、スッピスの定義によれば B は A の真正の原因になるのである。

なるほど、ここから「C によって B が A から遮断されないだけでは B を真正の原因とすることはできない」と主張するのは正しい。しかし、8番球がコーナーポケットヘ落ちる場合に白球もサイドボケットヘ落ち得るという状況は、p(A|C) ≒ p(B|C) 及び p(A|B∩C) ≒ p(B|A∩C) も主張できるということに他ならないので、p(B|A∩C) > p(B|C) もまた正しくなければならないだろう。すると A と B が物理的な本当の過程であるかどうかに着目しなくとも、或る事象が原因や結果と見倣されるための必要条件である非対称性へ依拠して、このような確率的関係を因果関係と見倣すことはできない(あるいはこのような関係から主張される A と B の結びつきが因果関係だというのは論理的に不可能である)と言えばよいのではないのだろうか。

このように、第2. 節で概観したそれぞれの定式化はどれも確率論的因果性の満足すべき定義を与えていない。だが強調しておくべきことは、参照クラスや分割を厳密に特定してゆくことと、或る過程が因果過程として実在することを指摘できるように詳細な考察を加えてゆくことは、或る確率的関係を厳密に定式化してゆく仕方において衝突しているようにみえるが、定式化における基本的な論点だけを取り上げる際には(-応の原因を指摘するだけでは不十分であるといった)共通の主張を受け入れているのである(それゆえ因果性に関する実在論者であれ反実在論者であれ原因は結果の確率を上げるのだと主張するのである)。

すると、或る二つの事象どうしが統計的な関連性をもつという観察結果からわたくしたちが何を言うことができるかという点について、確率論的因果性の実在論的解釈と反実在論的解釈から導かれる確率的関係にはどんな相違があると言えばよいのだろうか。分割の導入が或る事象Bに関する可能な要因の特定を意味していると主張するとき、分割に限度があるかどうかについて反実在論者は「それをあらかじめ決める必要はないし決めることができないだろう」と考える一方で、実在論者は想定された要因の全てを {Ci} であれ何であれ定式化に組み入れることができると主張するだろう [Suppes, 1984: 154]。或る抗生物質を投与することが、被験者の82パーセントについて彼らのもつ疾患を治療することに有効だったとしよう。「それゆえ、そうした疾患に対してその抗生物質を投与することは有効である」という結論については、実在論者であれ反実在論者であれ違いがない。違ってくるのは、そうした有効性があるのはなぜかという根拠を求めなければならない文脈が生じるときである。仮に投与されたものが抗生物質ではなくて、たまたま試験的に与えられたリンゴだったとしよう。すると、そのリンゴはもちろんわたくしたちにとって親しみ深いものではあるが、ではその疾患に有効だった原因がリンゴを摂取することであると言うのはよいとしても、「なぜリンゴだったのか」という問いが残る。ここで実在論者ならば、あらゆる因果的な状況を考慮するのであれ、リンゴを与えることがビタミンCを与えることに他ならず、そしてリンゴを与えることが水分を与えることに他ならず…といった分割を考慮するのであれ、特定された要因 A がその疾患にとって或る決まった確率で有効だと言いうるように因果関係を想定するだろう。なぜなら、確率論的因果性に関する実在論を受け入れるということは、原因が結果を引き起こす確率について(その解釈として相対頻度を採るのであれ傾向性を採るのであれ)、もし原因が起きていたならば結果が一定の頻度で起きている筈だと考えることに他ならないからである(ここから直ぐに、実在論の解釈が反事実的条件法という手強い課題を背負うことを指摘するのはたやすい)。つまり少なくとも同じ状況のもとで A が起きたならば一定の確率で B が起こると想定しなければならない。なぜなら、事象 A はそうした状況のもとでは一定の確率で B を引き起こす持続的な特徴を、物理的な特徴としてもつからである。しかしこれでは、A がそうした物理的な特徴を一定の確率でもつという想定が説明されるにしても、なぜ事象 A が他の値ではなくその値をもたねばならないのかということは全く説明されていない。

実在論者の主張は「仮に全ての因果的な状況が客観的に考慮できるならばこれこれの一定の確率的関係として A と B が結びつく」という見解に集約できるけれども、わたくしはこのような見解が(「なぜならしかじかの特徴が実在するからだ」と述べて循環を犯すのでなくとも)強すぎると考えている。そして、事象 A と共に実際に考慮することが可能な文脈に基づく分割を特定して、二つの事象どうしの結びつきを原因と結果の関係として述べ立てるだけでよいと考えている。実在論者によって導人されている想定は、「考え合わせうる文脈によって他の分割を考慮することができる筈だ」という信念をひとたび越えてしまうならば無限後退に陥ってしまうだろう。だがそうした信念をもつことはできる。それは、ものごとがそうした結びつきをもっているからというよりも、わたくしたちが原因と結果の結びつきとはどのようなものであるかということについて或る概念的な枠維みをもっているからではないだろうか。

非物理的な事物や属性が存在する可能世界を想像してみた場合でさえ、それらの事物なり属性が他の事物の原因となっていることを考えることは可能である。肉体から離脱した霊魂には質量も電荷もないであろうが、しかし [...] それが何事かの原因となることはありうるだろう [...]

[Putnam, 1983: 213f.; 訳文は関口浩喜氏による]

すると、二つの事象どうしの結びつきについてそれらか因果関係であるかどうかに着目するとき、わたくしたちが或る分割や他の要因を考慮した末に事象 A を原因として特定することが適切であるということはよいにしても、なぜそれがわたくしたちの関心にとって適切でなければならず、実在の事象の推移について適切であってはいけないのだろうか。なるほど、わたくしたちは実際に起きていることについてそれが原因と結果の関係にあるかどうかを考察しているのだから、まさに起きていることがそのように起きているということについて認めなければならないが、それは確率論的因果性の概念が示しているような統計的関連性によって起きたのではない。或る実際に起きた事象の推移について統計的関連性を主張することができ、そしてその統計的関連性はわたくしたちが何を原因の候補と見倣すかによって限定されなければならないとすれば、たとえ確率的関係が実際に起きている事象の推移を反映しているとしても、その関係を主張することができる事象を原因の候補と見倣し、次いで真正な原因と見倣すことは本質的に事象がもつ特徴ではなくわたくしたちの認識がもつ特徴なのである。たとえ或る事象についてわたくしたちの理解が進み、その事象が幾つかの分割によって詳しく考慮されるようになろうとも、或る分割が決定的な原因でありそれ以上の(またはそれ以外の区分け方の)分割がないとどうして言えるのだろうか。わたくしたちが真正の原因として特定する確率事象はそれを遮断する他の分割がないという条件のもとではじめて真正の原因として見倣されるのであるが、それがにせの原因でないと言うための根拠は、実在論的に解釈される確率論的因果性の概念があらかじめ保証しているのではなく、わたくしたちがもつ有限の経験が保証しているのではないだろうか。

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後記

本拙論の草稿を忍耐強く読んでいただいた、竹尾治一郎教授と北村隆俊氏へここで深謝の辞を添えておくことをお許しいただきたい。

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文献表

Cartwright, Nancy

1983

How the Laws of Physics Lie. New York: Oxford University Press, 1983.

1989

Nature's Capacities and their Measurement. New York: Oxford University Press, 1989.

Dowe, Phil

1992

“Wesley Salmon’s Process Theory of Causality and the Conserved Quantity Theory,” Philosophy of Science, Vol.59, No.2 (June1992), pp.195-216.

1995

“Causality and Conserved Quantities: A Reply to Salmon,” Philosophy of Science, Vol.62, No.2 (June 1995), pp.321-333.

Garrett, Laurie

1995

「エボラ出血熱の未解決の疑問」, 『日経サイエンス』, Vol.25, No.12 (December 1995), pp.54-55.

Otte, Richard

1981

“A Critique of Suppes’s Theory of Probabilistic Causality,” Synthese, Vol.48, No.2 (August 1981), pp.167-189.

Putnam, Hilary

1983

Realism and Reason: Philosophical Papers Volume 3. Cambridge: Cambridge University Press, 1983.

Salmon, Wesley C.

1984

Scietific Explanation and the Causal Structure of the World. Princeton, N.J.: Princeton University Press, 1984.

1994

“Causality without Counterfactuals,” Philosophy of Science, Vol.61, No.2 (June 1994), pp.297-312.

Suppes, Patrick

1984

“Conflicting Intuitions about Causality” in Midwest Studies in Philosophy Volume IX: Causation and Causal Theories. eds. by Peter A. French, Theodore E. Uehling, Jr., and Howard K. Wettstein, Minneapolis: University of Minnesota Press, 1984, pp.151-168.

竹尾治一郎

1994

「帰納的説明および統計的説明の構造に関する方法論的諸問題の研究」, 平成5年度文部省科学研究補助金(一般研究C)による研究成果報告書.

田村 均

1990

「確率論的因果説に関する覚書」, 『名古屋大学文学部研究論集哲学』, Vol.36, No.108 (March 1990), pp.49-71 (1-23).

van Fraassen, Bastiaan Cornelis

1980

The Scientific Image. New York: Oxford University Press, 1980 (Clarendon Library of Logic and Philosophy).

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