Scribble at 2026-06-21 11:32:46 Last modified: unmodified
これも最近の流行である "epistemic justice" の議論だろうと思うので、これ自体が一定の偏りだとか志向を含んでいると言わざるを得ないのだけど(敢えて「woke 哲学」とか「左翼認識論」と切って捨てるほどの必要は感じていないが)、ひとまずご紹介しよう。
スタンドポイント認識論(standpoint epistemology)には、マージナライズされた社会的位置にある人々が、その位置に関する問題において認識的な優位性を持つという「優位性テーゼ(the Advantage Thesis)」がある。酷く通俗的な言い方をするなら、「フェアな観点に立っている人間が哲学的に偉い」と言うようなものだ。このテーゼに基づいて、そのような位置にいない者がどのように振る舞うべきかという問いに対して、これまでは認識的帰属(epistemic deference)、つまり彼らの判断に委ねるべきだとされてきた。
しかし近年、この帰属という行為が、探究心を損なうとか、あるいは臆病であるといった批判や、エリートによる議論の乗っ取り(elite capture)を招くといった批判に直面しているという。よくあることだが、物事を色々な脈絡や事情から公平に理解しようとする人の方が、自分の経験や知識が不十分だったり偏っているかもしれないという自覚があればなおさら、自ら意見を堂々と言いにくいので、得てして思慮の浅い、Abema の番組とかに出てる都内のチンピラ経営者みたいな声のデカいガキどもの発言がまかり通りやすい。だが、著者のキャサリン・セイント=クロワは、これらの批判は社会的帰属と認識的帰属の混同や、命題の解決と、その理由の解決の混同、あるいは極大主義的な帰属観の前提という3つの過ちに基づいていると反論する。
まず、エリートや金持ちによる議論の乗っ取りは、知識や経験に基づく認識的帰属ではなく、単に社会的な地位や経済力を優先する社会的帰属(social deference)の優劣にすぎないと指摘する。次に、批判者が前提としている「相手の意見を無条件に受け入れて探究を止める」という、慎み深くはあっても自分の意見にたどり着けない極大主義的な帰属(maximal deference)は、一般的な認識論の観点からも不適切である。現実には、専門家の意見ですら対立することもあるのだから、信頼の度合いに応じた適切な帰属という多様な度合いが存在するはずだという。さらに、「ある命題が正しいと受け入れること」と「なぜそれが正しいのかを探究すること」は別だ。認識的帰属は問いそのものを完全に終わらせるものではなく、知識の不足を補い、なぜその結論に至るのかという新たな探究を誘発して促進する役割を果たす。
こうして著者は、「探究的帰属(zetetic deference)」という概念を導入している。マージナライズされた人々の生活から出発して研究を組み立てる「上向きに包括的な設計(upwardly inclusive design)」を実行するには、彼らの証言を信頼する認識的帰属と、彼らの関心やニーズを反映させる探究的帰属の両方が不可欠であるという。
で、まずこの議論を理解するために、スタンドポイント認識論の説明をすると、これは僕はぜんぜん知らなかったのだが、1970年代から1980年代にかけてフェミニストを中心に発展した認識論の潮流だった。伝統的な認識論では、知識を得る主体は社会的属性(性別、人種、階級など)に左右されないニュートラルな存在として扱われがちだったが、スタンドポイント認識論は、われわれの認識や知識の実践は社会的な位置(social location)によって形成されているという事実から出発する。よくある話だが、認識論を「事実」から掘り崩すやり方として、一つはもちろん自然科学というアプローチがあり、極端に言えば認識論は認知科学で置き換えられるとか脳神経科学で置き換えられるといった議論があった。そして、もう一つのアプローチが、このように認識論を社会科学へ回収するという議論であり、よくご承知のように哲学すら「上部構造」だと言い放つマルクス主義や、哲学の古典を社会科学的・歴史的な脈絡の中で読み解く一部のポストモダン評論などがこれにあたる。
そして重要なのは、これが「置かれた環境によって理解が異なる」という、日本人が大好きなインチキ多元主義やインチキ多様性の議論ではないということだ。この理論では、マージナライズ(周辺化・弱者化)された立場にある人々が、自らの置かれた状況について批判的な意識を形成したとき、それは単なる見え方や理解ではなく、社会の権力構造や抑圧の仕組みを捉える上で「認識的な優位性(epistemic advantage)」を持つにいたると主張する。いかにも左翼の議論っぽいけど。しかるに、支配的な立場にある人々には見えない(あるいは見たいと思わない)社会の不均衡や実態が、周辺化された立場からこそ、より正確に、かつ深く観察・理解できるという考え方だ。
とまぁ、こんな具合なので、穏健な多元主義どころか単なる左翼の議論ではないのかと言われると、どうも否定しがたいものを感じるのだが、ともかく著者は偏った立場にあるからといって不利なわけでもなければ卑屈になる必要もない、万国のプロレタリアートよ、結集せよ・・・とは言わないだろうが、とにかく声の大きい奴らに負けるなといったことを言っているようだ。こういう書き方でお分かりのように、途中からこんなものは哲学の議論でもなんでもないと思ってるので、なかば茶化してしまっている。