Scribble at 2026-03-14 09:32:50 Last modified: 2026-03-14 10:01:08
One of the most unsettling problems in the history of philosophy examines how mathematics can be used to adequately represent the world. An influential thesis, stated by Eugene Wigner in his paper entitled "The Unreasonable Effectiveness of Mathematics in the Natural Sciences," claims that "the miracle of the appropriateness of the language of mathematics for the formulation of the laws of physics is a wonderful gift which we neither understand nor deserve." Contrary to this view, this thesis delineates and implements a strategy to show that the applicability of mathematics is very reasonable indeed. I distinguish three forms of the problem of the applicability of mathematics, and focus on one I call the problem of uncanny accuracy: Given that the construction and manipulation of mathematical representations is pervaded by uncertainty, error, approximation, and idealization, how can their apparently uncanny accuracy be explained? I argue that this question has found no satisfactory answer because our rational reconstruction of scientific practice has not involved tools rich enough to capture the logic of mathematical modelling. Thus, I characterize a general schema of mathematical analysis of real systems, focusing on the selection of modelling assumptions, on the construction of model equations, and on the extraction of information, in order to address contextually determinate questions on some behaviour of interest. A concept of selective accuracy is developed to explain the way in which qualitative and quantitative solutions should be utilized to understand systems. The qualitative methods rely on asymptotic methods and on sensitivity analysis, whereas the quantitative methods are best understood using backward error analysis. The basic underpinning of this perspective is readily understandable across scientific fields, and it thereby provides a view of mathematical tractability readily interpretable in the broader context of mathematical modelling. In addition, this perspective is used to discuss the nature of theories, the role of scaling, and the epistemological and semantic aspects of experimentation. In conclusion, we argue for a method of local and global conceptual analysis that goes beyond the reach of the tools standardly used to capture the logic of science; on their basis, the applicability of mathematics finds itself demystified.
この論文は、いまカナダのサイモン・フレイザー大学で教えているニコラス・フィリオンがウェスタン・オンタリオ大学で学位を受けたときの請求論文だ。ちなみに、ニコラスの個人サイトもあるが、2016年くらいで更新が止まっているし、多くのリンクが既にデッド・リンクとなっていて、どうやら何らかの理由で放置されているらしい。現在の活動状況は、いまも在籍しているサイモン・フレイザー大学のページ、
https://www.sfu.ca/philosophy/people/profiles/nfillion.html
あるいは Google Scholar や PhilPapers などで確認した方がよいだろう。個人サイトの写真とは見た目もかなり違っている(他人のことはとやかく言えないかもしれないが)。
さて余談はともかくとして、この論文は最近でもシュトゥットガルト大学の High-Performance Computing Center Stuttgart に所属しているニコ・フォルマネクが Synthese に発表した "Computing power and model selection" (https://doi.org/10.1007/s11229-026-05494-0) という論説でも参照されている。フォルマネクの議論は、昨今の AI サービスを支えるコンピュータの計算能力の増大が、科学の研究・仮説モデルの選択に与える影響を取り上げていて、それに伴う「モデルへのロックイン(好ましくないモデルへの固執)」の危険性について警鐘を鳴らすという内容になっている。そしてさらに、計算能力というスケールへの固執そのものについてもリスクがあると述べており、こちらも別の機会に取り上げたい。だが、今回はフォルマネクが参照しているフィリオンの論文に着目したい。
この学位論文は、もちろん科学哲学の素養があればタイトルからわかるように、ユージン・ウィグナーが述べた「自然科学において数学が不可解で説明しがたいほど有効であるのはどうしてか?」という有名な問いに対し、フィリオンは哲学的な再検討を試みている。ウィグナーは、数学的な概念が物理法則の記述において驚くほど正確に機能することを、人間にはその根拠が理解しがたい一種の「奇跡」や「贈り物」だと表現したのだが(したがって、この問いの "unreasonable" という言葉を「不合理」などと受験英語的に訳す人が非常に多いのだが、はっきり言って誤訳だと思う)、フィリオンはこの有効性が決して不可解でも説明し難いことでもなく、科学の実践、特に数値解析や近似の手法を詳細に分析することで十分に説明できるものだと主張している。僕も、特に数学の哲学では "the unreasonable applicability of mathematics" 呼ばれてきたテーマにはいくらか興味があって、もちろんマックス・テグマークの著書(『数学的な宇宙――究極の実在の姿を求めて』)を何度かご紹介してきたのも、同じ事情があってのことだ。
PHILSCI.INFO でも何度か述べているように、僕が竹尾治一郎・森 匡史という方々の弟子として、いわゆる「ハードな科学哲学」を志向し専攻してきた理由にも関係があるのだが、僕は現今の(特に日本の)科学哲学は非常に中途半端だと思っている。これは、或る意味では他の色々な思潮やアプローチ、ギリシア古典哲学とか現象学とかポスト・モダニズムといったものとの影響関係があって、必ずしも一つのアプローチにだけ固執しないという(良く言えば)「懐の深い」スタンスをとる研究者が多いからだと言える。だが、それは(悪く言えば)「ケツの穴を閉めていない」、つまり一つのアプローチにコミットするというスタンスを避けるような、常に逃げ道や言い訳を用意する態度でもあろう。もちろん、安っぽい精神論じゃあるまいし、学問に退路だの背水の陣だのと言う必要はないが、少なくとも一つのアプローチに対する真摯さに欠けるプロパーが多く、はっきり言えば評論家的・箱庭趣味的に分析哲学や現象学を品定めして扱うような態度だと言える(実際、日本で発売される「哲学の入門書」には、その手のカタログ的なものが非常に多い)。
そもそも、日本の哲学プロパーの大多数は、実際には哲学するだけの強い動機や必要もなければ、哲学せざるをえないという切実な事情があるわけでもない、アマチュアの僕が言うのは皮肉かもしれないが、「趣味的に哲学を勉強してるだけ」という人々が多いように見受ける。そもそもにおいて、通俗本をせっせと出したり、文科省のなんとか委員になったり、あるいは企業の「哲学担当取締役」なんてものになってる時点で、結局は自意識、つまり他人との人間関係で哲学をやってるような連中が大学教授だったりものを書いているのだ(ちなみに、僕は「哲学担当」なんかではない。サラリーマンとしても有能な哲学者というだけだ)。
なので、科学哲学についても、東大や京大でせっせと数学や物理を学んで相当の情報や知識はあっても、それを哲学として、あるいは哲学に適用するという、まさしく哲学的な才能としての執拗さなり熱意が求められる強い動機や事情というものが欠落しているプロパーが多いように思う。実際、僕が所属している日本科学哲学会の『科学哲学』という学術誌に掲載される論文を30年以上も眺めてきて思うこととして、おおよそこのジャーナルに掲載される論説の9割は、実際には哲学の議論なんてぜんぜんしていないし、できてもいない。ただ単に、アメリカで議論されている「ホットな話題」を紹介するか、あるいは自然科学で議論されている「ホットな話題」を哲学の言葉でかろうじて言い換えて解説しているだけだ。そこには、殆ど考察も議論もないので、insightful なものを全く感じないわけなので、「あーそう、それで?」という感想しかない。もう亡くなっている方の逸話なので誰も証明できないことだが、森先生と神戸大学から帰る途中に同じような話をしたことがあって、先生も似たような印象を受けると言われて、それゆえ「そろそろ退会しようと思う」と話されていたのを覚えている。
これはほんの些細な一例だが、たとえば僕は当サイトで黄金比をもてあそぶ二流のデザイナーどもや、あるいはデザイン関連の記事を書く愚かな人々について警告するような論説を掲載していたことがある。その時は強く自覚していなかったけれど、黄金比やフィボナッチ数列、そしてフラクタルなどの概念も含めてさらに広い視野で自己相似性というものを(それを要求する constraints という逆の概念も含めて)研究できる。そして、「なるほど、そうか」と思い立ったら、それについて調べたり哲学としての議論や考察はできるわけである。それが、教科書的な「科学哲学」のタームや議論を利用するかどうかは関係ない。だが、そうやって自分自身の関心や事情でグイグイと研究を進めていった結果として展開されるような、粗削りであろうとは思うが魅力的としか言いようがないような論文というものを、あの学術誌で目にしたことなど一度もないわけである。たかだか東大の修士ていどが、既に棺桶に片足を突っ込んでる名誉教授みたいに、既存の概念や議論の経緯だけに寄りかかった、いわば「老成」した文章ばかりを書いている。もちろん、そういうピールミールの論文は "normal science" として科学哲学なり分析哲学というアプローチが「成熟した」証拠なのかもしれないが、僕は(気の毒だが)そういうものは「凡人専用の哲学」だとしか思えないわけである。これは、いわゆる "philosophy for everyone" のようなインチキ民主主義などとも違う、或る意味ではさらに悪質な事態を表しているかもしれないのだ。しかし、その逆に、最近の出版業界で流行している「オブジェクト指向」だの「システム」だの「概念工学」だのというテクノロジー用語を掲げて新しい商品を売りさばいているような連中にコミットすることも、同じ程度に悪質なことだと思わざるを得ない。そして、僕から見れば、これらはどちらにしても分析哲学とか科学哲学というアプローチが限界なり終焉を迎えている証左であるように思えるのだ。
よって、まことに堅実な the next logical step としては、やはり古典に戻るということが望ましいのかもしれない。だがしかし、困ったことに古典には既存の訓詁学的な人々が居座っているし、彼らに学ぶべきことがあるのは確かだが、日本はそういう古典研究に引きずられすぎる傾向がある。それもまた、そもそも研究する当人自身に強い動機や事情がなくて、先行研究や古典研究のコミュニティという他人との人間関係でしか是非を判断できないからなのだが、もちろん僕らはそういう無能、あるいはもともと哲学する必要などなかった人々のことなど気にする必要はない。それが、アマチュアの有利なところだ。もちろん、アマチュアだからといって杜撰な読み方や議論が許されてよいはずがないのだから、アマチュアにも一定の責任は求められるよう。だいたい、それは自分自身の意欲や動機や熱意に対する責任、自分に対する責任でもあるのだから、それを「しょせんはアマチュアでござい」と言い訳して軽んじたり放棄などできないはずである。