Scribble at 2026-01-24 07:29:04 Last modified: unmodified
なにもクリシンだけに限った話ではなく、昔から「論理」だの「思考」だのというテーマで続々と毎月のように本が書かれては出版されてきたと言ってよい。Gemini に出版点数を調べさせると、具体的な数字や統計の推移については疑問があるのでご紹介しないけれど、少なくとも国立国会図書館の検索で遡れる範囲では、「論理」や「思考」というキーワードをタイトルに使っている書籍の出版点数は、年間で数百冊を超えているという。
いつものことだが、人は自分にないものをこそ声高に言い立てるものだ。
このような状況からして、われわれは常に論理だとか思考が生活なり仕事で不足していたり欠落していると感じている証拠だと言ってよい。実際、多くの詐欺やインチキなビジネス、あるいは単純にマス・メディアの広告や営業マンの口八丁を含めてもよいだろうが、僕らは論理や思考の欠落ゆえに色々な連中に騙されたり、意見を誘導されたり、あるいは心理的な抑圧を受けたり、余計な強迫観念を生じさせられたりする。また、仕事でも色々な不備や失敗を起こしているわけだが、あまりにも頻度が多くて些細であるために、そういう不完全で不備の多い成果を出すことが予定調和となってしまっている事例も多いだろう。その果てに、多くの製造業で(恐らく「ものづくり云々」などと寝言を語ってきた1970年代からでも)色々な欠陥商品や未熟な部品が製造され、それらが検査に通るような手練手管こそがクリエーティブに開発されたり、あるいは検査する側を寝技で落とすための色々なアイデア(ノーパンしゃぶしゃぶなど)が考案されてきたわけである。
これは、何も「反日」だとか「自虐史観」ではなく、人類史的な観点あるいは文化人類学の見方を導入すれば、学部生にでも言えるような話にすぎない。何か特殊な立場であるかのような誤解を受けるかもしれないが、僕が当サイトや MD で自称している「人類史スケールの保守思想(保守主義)」と言っているのは、日本などというセコいスケールで保守思想を裏打ちしたり展開していないというだけのことだ。そして、そういう立場を前提に歴史なり各国での出来事を眺めれば、単に事実として報道されたり知っていることがらを集積するだけのことで、このていどのことは言えるのである。話や判断の基準を「日本」に矮小化してみたり、都合の悪いことがらを合わせて考えるだけで「反日」だのなんだのと特殊で偏った見方であるかのような言葉のトリックを使うのは、ディベートで相手を不利に見せかける常套手段だ。こんなもん、法科大学院を出ていれば誰でもやることだし知っているし、アメリカでは禿げるほど訓練させられるのだ。