Scribble at 2026-08-06 10:10:15 Last modified: 2026-08-06 10:22:15

僕が PHILSCI.INFO を運営していた頃から、いまでは本が(しかも通俗本だけが)せっせと出版されている「反出生主義」を積極的に取り上げていない理由は、このような議論には既にこの宇宙で生きている一人の人間として意味がないと思うからだ。

簡単に言えば、反出生主義の是非だとか、あるいは反出生主義についての態度を決めて、僕らが生物の個体として生まれる「べき」かどうかを、これから生まれてくる者として(つまり自分が生まれるべきかどうかについて)決定することなどできない。それは、自分の意志を決めるという認知的なプロセスが生物学的・生理学的に不可能であるからだし、そもそも胎児に反出生主義を理解する認知的な条件が備わっていないからだ。また、出生していない者の意志を問うこと自体、少なくとも法律学の議論としては論理的に不可能であると言える。要するに、反出生主義というのは基本的に他人の話なのだ。

他方で、既に出生して生存・生活している僕ら自身が反出生主義を理解して是非を議論したりコミットするかどうかを決めたとして、それがいったい何なのかとも思う。女性は精子の提供を受けたら子供を自分で産めるかもしれないので、自分の決断だけで子供を生み出さないという実質的な結果を出せるが、男性にはそういう結果を出す能力はない。せいぜい間接的に、去勢するといった措置を講じられるだけだろう。しかし、だからといって反出生主義が女性の態度決定に依存するような議論だと考えるなら、それこそフェミニズムでなくとも、そんな歪んだお喋りにわれわれ哲学者が時間を浪費することが自体が愚行というものであろう。

確かに、心情として反出生主義の言わんとすることは分かる。生きてしまっているからこそ、やがて死ぬという究極の災難、最大の恐怖、そして絶望的な悲しみを経て、われわれは財産がいくらあろうと国家元首であろうと善人だろうと主観的にはやがて必ず消え去る運命にある。どのみち無に帰するなら、最初から生まれてこない方がいいのではないかという人生観は、わからなくもない。だが、それは基本的に自分自身が死んでいく過程をありありと経験する人々にとっての「終わりというストーリー」に関わる情緒的な話でしかない。現実には、多くの人々は病床で寝ているあいだに昏睡状態へと陥り、そのまま生体機能が停止していくこともあるし、自宅で寝ているときにキチガイの運転するトラックが突っ込んできたり、あるいはミサイルが落ちてきて即死してしまう可能性だってある。死が絶望的であるのは、主観的にはそういうプロセスをたどる一部の人々だけの経験であって、それは正直に言えば哲学の話でもなんでもないのである。だから、哲学者としての僕は反出生主義を取り上げない。哲学的には、どうでもいい話だからだ。

寧ろ、「死」について取り上げたら、何か将来に不安を感じている都内や田舎のナイーブな青少年へのフックになるとでも思っている、セコい出版社の思惑こそ問われるべきであろう。最近のメディアを見ていると、NHK は事あるごとにターミナル・ケアや癌の悲惨さを情緒的に描くドラマや記事を発信し、多くの出版社は「死」について色々な人々に適当な与太話を書かせて販売している。こういう、消費物としての「死」に関するお喋りを徹底して打ち払うことこそ哲学者の為すべきことであるはずだが、昨今はプロパーがせっせと気軽に商品を生産し、なんなら癌の闘病経験から哲学を語って見せるという芸能人の貧乏自慢みたいなことまでやる始末だ。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る