Scribble at 2026-07-04 08:39:45 Last modified: unmodified
It may be that the world will find much use for talking books; school and college students may listen to lectures by long-running phonographs or talking pictures; moving pictures may be transmitted by wireless into houses; seeing with that new electric eye, the photo-electric cell, and recording what is seen, appear to have almost unlimited applications; new musical instruments different from any now in use may be given to us by electricity; the production of artificial climate may become widespread; an efficient storage battery of light weight and low cost might produce changes rivaling those of the internal combustion engine. And these are only a few of the myriad possibilities from new inventions in the future!
現在と比較して、第一次世界大戦直後のアメリカに現代と同じような状況なり課題があったという話で、まことに興味深いけれど、しかし同時にこれは社会科学の意義や効力を問われる文書でもあろう。単に、大昔の社会学者による現状分析や将来予測が的確であったと自画自賛しているようでは、やはりどこの国であろうと地域や民族に関係なく社会科学には結果論の精緻な理論構成と、そこそこもっともらしい予測しかできず、その予測が悪いものであるならなおさら回避するための処方箋を出す力はないということになる。
しかし、これは考えてもみれば当たり前かもしれない。社会を変える(または守る)のは学問でも理論でもなく、人だからだ。そして、大半の人は学問や理論とは関係なく生まれて、生きて、そして死ぬのである。学問や理論の影響下にある文化や制度や慣習とのかかわりはあろうが、それによって自分たちが生きている社会そのものを変革するまでの動機付けに至るかと言えば、それは難しいというのが歴史の教訓であろう。なにせ、国が戦争に突入していこうとするのですら止められないのが現実だ。
もちろんだが、これだけをもって、学問や理論や思想の成果を平然と窓から投げ捨てるような、無知無教養な連中が高らかに唱道する「リアリズム」を支持するつもりなどない。そもそも、国が愚かな紛争に邁進する状況を座して眺めるなど愚行でしかなく、真にリアリティを尊ぶのであれば、全財産を監禁して国外へ逃亡するのが正しい判断だ。国の威信など、自分や家族の生命や生活に比べれば下着の値札ていどのものであろう。
ここで重要なのは、マルクス主義だろうと自然地理学だろうと、社会科学や社会思想そのものに社会を変える力はもともとないという事実を正確に理解することだ。どう考えても、そして自然に考えれば、社会、すなわち慣習や文化や制度を変えるのは、僕ら個々人の生き方や考え方であり、それらを他人と突き合わせたり参考にしたり反発する相互関係であるから、その中身がどうであるかは関係ない。これまでの社会科学の大半が深刻ぶっただけのインテリのお喋り(しばしば、「世の中の出来事を分類し名前をつけて回っているだけ」と揶揄されるような)に過ぎなかったのは、彼らの仕事が理論や思想という「中身」の精緻化や教育・広報であったがために、自分のやっていることを正当化し重視するあまり社会を変える力の源泉が読み物や言葉にこそあるという自己欺瞞やセンチメンタリズムに陥りやすいからである。社会変革の時期を表現する漫画やアニメなどで、しばしば辻説法のシーンが描かれる。しかし、あれは壇上で怒鳴っている人物の「思想」に力があるのではなく、なにごとかを語ることが許容される状況を見せることで、話を聞いた人々がそれぞれ考えたり議論するのを促すからだ。したがって、実は説法している内容は重要ではないのである。