Scribble at 2026-06-27 19:08:48 Last modified: 2026-06-28 06:46:18
冨野由悠季氏という人物の文章や発言を見聞きしていると、よく宮崎駿氏と比較されるのだが、僕は彼らをどちらもアニメーションという生業とか営みのチャレンジャーだと思えるんだよね。どちらかが偉いとか、どちらかがアニメータとしての理想だとか、そういう比較は間違っていると思う。なぜなら、それはアニメーションというものを芸術であるとか産業であるとか、どちらにしても一面的にしかとらえていない前提での評価や比較だからだ。しかしアニメーションというものは、それら両方であって、それら両方でしかありえないと思う。個人の技量に多くを負っているところはあるから芸術的な面もあるが、しかし一人で作品が作れるものでもない。作品を殆ど一人で制作したことで名が知られた新海誠氏ですら、既に一人では仕事をしていないしできないであろう。
敢えて言えば、宮崎は芸術の側にいて、冨野は産業の側に足を置いてアニメーションを眺めているという印象が強い。でも、宮崎はその場所から産業としてのアニメーションにも留意しているし、冨野が産業という立ち位置にいながら常に芸術を志向している様子は、たびたび自身で口にしている(実写映画を作りたいという願望は、その一つだろう)。そして、僕は彼ら自身がアニメーションという芸術なり産業なりを語るときには、やはり冨野が産業としてのアニメーションを語っている姿に好感を覚えることが多い。
それは、冨野の議論は(そして、たぶん宮崎の議論も同様なのだろうけど)制作現場や制作会社の業界話というオタク趣味とは違って、ごく当たり前の経済や経営や産業や歴史の話だからだ。実際、冨野はアニメオタクやアニメ評論家が大嫌いであることを公言しているし、物理学や文学や心理学や経済学といった分野の知識を軽視して美術や映像だけを学んでいるようなアニメータを評価しないことで知られている。
僕も同じで、高校時代から思想書だけを読み漁って大学の哲学科を出たような人間には、研究はできても哲学はできない可能性が高いと思っている。それは、何かを表現するにあたってアニメという手段しか選択しようがないという人々と、最初からアニメに囲まれていて好き嫌いなどの基準で表現を選ぶような人々との違いと同じであり、哲学するしか他にないと考えてやる人々と、哲学書に囲まれた中でプラトンとカントのどちらが面白いかなんていう動機で哲学を学ぶような人々との違いには、何か決定的なところがあると思うからだ。ただし、これは波止場で荷下ろしをしながら思想を語っているような人間が偉いみたいな、いかにも都内の三流編集者が好むセンチメンタルな「知られざる才能」という妄想などとは全く次元の異なる話だ。