Scribble at 2009-05-07 00:00:17 Last modified: 2009-05-07 00:00:17

Huffingtonは証言の中で、従来型のメディアは注意欠陥障害を抱えていて、“ひとつの記事を…どんなに良い記事でも…できるだけ早く捨てて次の大物記事を追おうといつも焦っている”と述べている。これに対してオンラインジャーナリストたちは強迫神経症で、“ひとつのニュースにいつまでもしがみついて、それを骨までしゃぶり尽くすまで手放そうとしない”そうだ。彼女によれば、この二つの疾患を融合できれば、もっともふさわしい形のジャーナリズムを作り出せるという。via jp.techcrunch.com俺はこんなの信じないけど。一つのテーマを何年もしつこく追いかけるブロガーもいれば、同じようにしつこく追いかけるジャーナリストもいる。逆に、ワイドショーよろしく SOA の次はマッシュアップ、そして RIA に OpenID にクラウドと、時代をときめくテクノロジーを探し求めるブロガーもいれば、同じように新しいネタを探し求め、ネタ切れとなる毎年4月にもなれば「C言語入門」「Oracle チューニング大全」「Photoshop のワザ100選」みたいな記事を、飽きもせず雑誌に載せ続ける出版社もある。確かに、ネットが新聞や雑誌よりも(良い悪いはともかく)凄いのは、その両方を誰でも好きにやれて成果を公開でき、僕らはきちんと検索すれば彼らの成果を目にするということだろう。しかもその殆どは全く閲覧料金を必要としない。皮肉でもなんでもなく、こんなありがたいことはない。どこの国でもそうだが、二つの特徴ある現象が見られると、それらをなぜか「両極」として脳内座標に配置し、それらの中庸を行くのが望ましいという、いったい何の根拠があるのかさっぱり分からない図式主義が好まれる。例えば、左翼と右翼があると、それらの「中間」が良いという。しかし、そういう中間があるとして、そんなものが嫌だから、右翼や左翼の信奉者はそれぞれの見地に(見えるところに)進んだのではなかったか。ちょうど中間ということは、つまるところ原点ゼロに留まるということであり、現状追認か、さもなくば「ちょっと考えた後での思考停止」と同じことではないのか。つまるところ、「ジャーナリズムとはかくあるべし」という格率を、メディアの資本とか地域とか言語とか発行ペースとか、伝えたり論じたい内容とはそもそも無関係なはずの制約から解放しているのがネットの凄いところだと思う。もちろん、コンテンツの外部から押しつけられる様々な制約から報道記事やブログエントリーを書くにあたっての指針が解放されると言っても、ブロガーやジャーナリストがポリシーを持たなくなると言っているわけではない。ただし、彼らは昔のジャーナリストとは違って、「原稿用紙4枚以内に書く」とか、「毎週一本ずつ書く」といった、伝えるべきコンテンツとは全く関係のないロジックで動く必要がなくなる。もちろん、毎週一本ずつブログエントリーを公開するというポリシーで動いてもよいわけだが、読み手は書き手がそうした公約を守るかどうかに注目してはおらず、飽くまでも提供されるコンテンツに注目しているのだ。なぜなら、別に読み手は購読料を払っているわけではなく、一定の期間に決まった量のコンテンツを受け取る権利など、誰にもないからである。一つの話題に拘ってもよいし、次から次へと登場するハックだのサービスだのを追いかけ回すのもよい。どちらも好き勝手にできるのが、オンラインで展開される報道なりプライベートジャーナルの強みだと思う。中道などいらん。

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