Scribble at 2026-08-03 06:40:56 Last modified: unmodified
上のページで紹介されている論文によると、1980年〜2009年の生命科学・医学において発表された論文を解析した結果として、(1) 新しい概念を導入する研究者の専門化が進み、前提とする知識の層が深くなっている、(2) アブストラクトにおける一般的な単語の使用割合が減少し、専門用語への依存度が高まっている、(3) 概念を導入した論文とそれを採用した論文の間の意味的な距離が縮小しており、2009年に導入された概念の拡散幅は1980年と比べて標準偏差の約半分程度狭まっているという結果が出ていて、要するに或る狭い研究分野の成果が隣接したり間接的にかかわりのある分野へアイデアとして波及する度合いが弱くなっているという。
もちろん、このようなパラフレーズには概念の濫用とか理解の曖昧さが増えるといったトレード・オフの関係がありえる。他方で、他のジャンルで得た成果をヒントにして何らかのブレイク・スルーが生じるチャンスも高まるという事実が科学史ではたびたび指摘されていて、その補助というか交通整理をしてきたのが「哲学者」と呼ばれる人々だったと思う。でも、ご承知のように現代では哲学者自身が制度的な高等教育の縦割り行政に抱え込まれてしまったせいで(これはプロパーだろうとアマチュアだろうと一様に)、哲学者どうしで専門化した概念を共有する必要が叫ばれるほどとなった。こういう状況では、単なる乱読や勝手なパラフレーズで「哲学史全体」や「なんとか哲学」を新しく語ろうとする手合いがマスコミで持て囃されるものだが、実際にはその手の暇な成金どもが何千冊の本を読んで「哲学」や「哲学史」を総覧する通俗本を書いていようと、哲学的にはカスみたいなものである。そういうカタログやマニュアルみたいなものに哲学的な力というのは無いのだ。なぜなら、それを読む側に哲学的な力がないからであり、本来はそれらが何かの事情で出会うことが重要だ。大学や書店や図書館などのメディアはその機会を提供するだけであって、哲学せざるをえない動機や事情や目的や志向を抱えたり持っていないものがプラトンやドゥルーズを原書で読もうと、それはただの読書に過ぎず、それを哲学の勉強だと思い込むことこそ、われわれ哲学者が慎重に避けてきた自己欺瞞である。
こういうわけで、もちろん或る分野の成果を図像化したり形式化するといった手法で、他の分野の研究者にも利用しうるフォーマットへ定式化することには、長所も短所もありうるわけだが、短所があるということをあらかじめ教育したり指摘しておくことで長所を活用するサポートをやってきたのが、大学というところである。また、異なる分野の研究者が共通の場所で議論する機会を意図的ではなくとも維持してきたのが大学であったとも言える。これが、自分の研究分野という意味だけではなく人間関係としても「引き籠り」の状態へ陥ると、確かに一方では研究への専心なり集中だとも言えるが、他方で研究者としての視野狭窄に陥るというリスクもありえる。
そして、こういう一般論は分かるし、もちろん昔から STS という分野が出来る前からでも「蛸壺化」がどうのという話は多くの人々が語ってきたわけである。でも、こういうことは議論としては一般化できても、その対策は一般化できないというのが僕の意見だ。たとえば、大学で教養課程の学生は理数系なら人文・社会系を、そして人文・社会系の学生は理数系を学ぶように強制すればいいかというと、そういうことでもない。あるいは高校までの学習で多くの分野を均等に扱えばいいのかというと、そういうわけでもない。それから大学で他分野の研究者との交流会みたいなものへの参加を求めたらいいのかというと、そんな単純な話ではないだろう。なので、こういう話題は科学哲学の研究者である僕らも一定の関心をもっているけれど、具体的に何かの提案ができるかと言えば難しい。少なくとも、そういうアイデアのやりとりが研究者どうし、あるいは研究者と一般社会とのあいだで起きることを邪魔しない習慣や制度を作ったり維持することを求めるくらいだ。