Scribble at 2026-03-17 12:41:57 Last modified: unmodified
哲学には古くから「人格の同一性(the identity of personality / personal identity)」というテーマがあって、哲学史の標準的な解説では、「或る時間(^^t_1^^)に存在する人物 ^^A^^ が、別の時間(^^t_2^^)に存在する人物 ^^B^^ と同一であると言えるための条件は何か」を、時間をまたぐ存在の条件という枠組みで議論するものだと説明される。西洋中世あたりまでは「魂の不滅」という議論が展開されていたり、ジョン・ロックらの時代になると、意識の同一性という認識論の議論として再設定されたり、あるいはヒュームのように自意識は虚構である(したがって人格の同一性も錯覚である)という議論が登場するようになる。そして現代では、デレク・パーフィットのように「同一性」はさほど重要ではないとする別のアプローチを掲げるような議論もある。
僕も大学院生だった頃は、この種のテーマに関わる(ほかでもない、哲学のプロパーこそが通俗本などで不用意にばらまいてしまう)色々なインチキや錯覚を、科学哲学者として色々と引っ掻き回しておきたいという意欲をもっていた。たとえば、そもそも "person" を「人格」と訳すこと自体がおかしいという議論だ。これは、他にもピーター・フレデリック・ストローソンが使っている "person" という概念を「人格」とか「人物」などと訳している事例もあって、難しいことは分かっているにしても、あまりに安直で馬鹿げた訳語だとしか思えない哲学の訳語の代表だと思っている。
それから、ここ最近では "multiple realizability" という新しいインチキを瓦解させるために、personal identity について指摘できる論点を援用できないかと考えている。