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山岸 米二郎 (2011) 気象学入門

この特定のブログ記事について取り上げたいわけではない。ただ、この記事を見かけたときに、気象学や天文学、あるいは地球科学全般と言ってもいいが、そういう分野のスタンダードな教科書というのを知らないし、何十年も大型書店で自然科学系の棚を眺めてきたのに、そういう本を見かけたことがないと思い当たった。

たとえば気象学については、中学時代に岩波新書の『日本の天気』(高橋浩一郎、1963)や、中公新書の『地球をめぐる風―私の気象物語』(広田 勇、1983)、あるいは講談社ブルーバックスの『新しい気象学入門: 明日の天気を知るために』(飯田睦治郎、1980)を読んだりしていた頃から、気象学というのは土壌や地形や海洋それから気体・流体の力学などが複雑に関連している分野なのに、書店で見かける教科書の大半が200ページ前後の同人誌まがいと言ってもいい分量の書籍しかなくて、まったく信用できなかった。そういう本は、既に中学時代には考古学で大学のテキストを読んでいた実感から言っても、講義の要約みたいなものとして書かれており、自習や独学には全く使えない代物だと知っていたからである。

また、著者が専門にしていようといまいと多くの話題を少ないページ数で詰め込みすぎていることが多いので、概略としても個々の事項について情報が非常に少なく、まるで用語集を一つの文章にしたようなものだというのが通り相場であった。これは、教科書というプロダクトの編集や執筆について何の技術的な蓄積もしていないであろう(編集のノウハウの話ではない。そんなものは元プロの雑誌編集者である僕ですら一定のレベルでもっている)、日本の出版社や編集者のレベルから言って、40年が経過した現在でも大して変わっていないであろう。

そういうわけで、気象の他にも天文や地理などといった分野について、十分に納得できるだけの分量で叙述された教科書というのが全く無いという実感があった。なので、一通りの分量を読み通して学ぶなら、いわゆる「講座もの」と呼ばれる叢書を選ぶのが堅実な勉強方法だったので、なんだかんだ言っても高校の図書館に置いてあった日本史や有機化学の「講座」というシリーズを読むのが限度だったと思う。細胞生物学でいう The Cell だとか、物理や数学では色々と出ている1,000ページ近くのテキストというのは、日本では(とりわけ気象や天文や地理については)まずなかった。いや、物理や数学でも、そういう大部のテキストは多くなかっただろう。

どうして日本では、自然系の教科書ですら三文芝居の台本みたいに薄いっぺらい教科書しかないのか。いや、医学には昔から翻訳であろうとなかろうと大部の教科書がたくさんある。それは、そういう大部の、したがって高額な教科書でも買えるし買えないといけない医学生が相手だからなのだろう。しかし、物理の学生にも大部の教科書を読ませてよいわけである。革命的プロレタリアートの大学生には買えないというなら、奨学金や助成金が出るような環境を整えるよう、文化や制度として牽制するのが筋というものだ。学問において「お金がもったいないから教科書は薄くて良い」などというセンチメンタリズムを持ち込むのは、通俗左翼のやることであって(実は彼らは薄いテキストでも要領よく勉強できる東大暗記小僧だけが勉強すればよいというファシストであるという自覚がないのだ。そして、歴史から言っても左翼やマルクス主義者の多くはファシストであった)、学者のやることではない。物理学科に入ってくるからといって、短い文章と数式だけでものごとを端的に理解するような知性があるとは限らないし、現にアメリカの教科書があれだけ大部であることを考えたら、教科書が薄いことは学科の学生が平均して短い文章で全てをたちどころに把握できるほど優秀であることと統計的な相関などないであろう。要するに、日本の出版社というのは、二言目には予算がないと言いながら、実質的に川柳や短歌のような教科書でノベール賞を授かるような物理学者を育てられるという言霊信仰かオカルトを信じている非科学的な連中が自然科学の本を編集していると言ってもよいわけである。事実、ノベール賞を受けた多くの人々が、大学時代の教科書の話をほとんどしないという事実は、彼らが日本の出版社の教科書なんて実は殆ど読んでおらず、大学に入ったらすぐに英語を学んで洋書の教科書を読んでいたであろうと予想させるに十分な理由となるであろう。

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