Scribble at 2024-08-20 15:50:37 Last modified: 2024-08-20 16:02:55
どれほど時間がかかるかは分からないが、せっかく手に入れたので、岩波書店の「日本思想体系」という叢書の第52巻として刊行された『二宮尊徳 大原幽学』(奈良本辰也、中井信彦/校注、岩波書店、1973)に収められている、『二宮翁夜話』(全5巻)の全てのエピソードを取り上げて批評する論説を書いておこうと思う。
僕は、正直に言うと人類なんて1,000年もすれば滅亡すると思ってるんだけど、そのあいだだけでも有意義に暮らせる人がいてくれると良いなと思って、しょせんは関係のない他人に向かっても自分の意見や論説を公開しているわけだ。そして、そもそも個人の動機でしかやるものでもないし、またやるべきものでもない哲学についても、その成果を公にしている。もちろん、押し付けがましく有難がれと言いたいわけではない。しかし、誰かの何らかの参考になれば、自分の興味だけでやっていることにも某かの意義があろうと思う。
そういうわけなので、もちろん僕の書くものが1,000年後にも残るなんて思っていないし、それはニーチェやデリダの著作ですら残るかどうかは怪しいと思うのだが、いずれにしても人がこれから1,000年の時間が過ぎた後であろうと、その本性というか本能や自然な発育・発達のプロセスだけで勝手に社会的な評価基準であるところの「善」などという尺度に沿って発展したり成長するなんてことはありえないと思う。なので、二宮尊徳が『二宮翁夜話』の冒頭に述べているような、書物や師もなく凡人が勝手に成長したり過ちを修正するなどというのは、はっきり言って生物としても発達心理学としても間違いであり錯覚であり、妄言であるとしか思えないわけである。せいぜい、原因と結果の取り違えだとしか言えない。しかし、たとえそれが理想や目的を述べたまでのことだと言われたところで、それは、いわゆる「草の根」と呼ばれていたアマチュアとして一定の成果や名声を得た人々に多い思い上がりである。現代では「独立研究者」などと自称している、世界的な業績など一つも為していない都内の無能どもや、あるいは「民間の知恵」と称して数々の不正をごまかしたり正当化してきた、大阪維新のクズみたいな自治体首長や代議士の類もまた、そうした思い上がりによって自らの無知や無能を自己補填している類のバカどもである。
そして、残念ながら二宮尊徳を初めとする江戸時代の農政家の著作物というのは、そういう馬鹿の言い訳をお膳立てしてしまっているようなところがある、迂闊な書き物が多い。哲学者として言わせてもらうなら、しょせん『二宮翁夜話』にしても、大学の研究者の大半が黙殺するなり無視している事実でも明らかなように、正直なところわれわれ哲学者が取り上げるまでもない、素人儒者、あるいはアマチュアの落書きといったていどのものだ。それでも、落書きは落書きであると、しっかり指摘したり、丁寧に批評する文章がなければ、いつまでたっても愚かな人々や凡人には事実がわからず、出版社やエピゴーネンの美辞麗句だけで重刷が繰り返されたりするわけである。それは、端的に言って紙代やインク代の浪費でしかないと言いたい。そういうものは、もうそろそろ電子化して出版は放棄すればどうかと思う。