Scribble at 2026-10-04 09:50:23 Last modified: unmodified
Norms, rules, or standards require, recommend, or evaluate actions and attitudes. Claims about what agents have a reason to do or ought to do can be true according to or relative to standards. These statements will be familiar to anyone versed in recent work in metaethics and especially those interested in the debate over whether some standards are authoritatively as opposed to merely formally normative – i.e., the debate over whether some standards, like those of morality or prudence, ‘really’ or ‘genuinely’ tell agents what they have a reason to do or ought to do, while other standards, such as those which constitute certain conventional codes of behaviour, do not. But what are standards? And what is it for normative claims to be true or false according to standards? In this paper I raise a challenge for normative authority scepticism – the position that the idea that some standards are authoritatively normative is incoherent, confused, or otherwise defective – through an examination of these questions.
ここ最近は明確に当サイトで表明していることとして、僕は「暫定的な権威主義」とか「方法論的な権威主義」あるいは「可謬的な権威主義」というものを支持している。そして、これは政治的な強権だとか専制主義とは違って、特定の条件や脈絡や状況において、僕らがこれまでに大きな疑問や異議や違和感を生じていないスタンダードや知識や規範や慣習を、ひとまず信頼して維持することを意味していて、これだけの話であれば、以前からみんなが思い描いている「保守主義」と大して変わらないだろう。しかし、従来の偏狭で頑なな保守主義というものは、ありていに言えば保守主義という立場を保守するような、自己保存的で自己目的化した、自己欺瞞の保守主義である。こういう思考に陥り、そして自滅的であっても保守すること自体に価値があると思い込んでしまうような人間は、漫画的な、あるいは松竹のヤクザ映画みたいな「滅びの美学」へと落ち込んでゆく。まったく馬鹿げたことだ。僕はかような保守思想は、未熟で知性に乏しい人々が背伸びして語っているにすぎない「凡人の思想家ごっこ」でしかないと断ずる。われわれのような哲学者が掲げる保守思想は、こういう尻尾が犬を振るような倒錯であってはいけないし、人の生き方が思想や言葉に支配されてもいけないのである。
さて、メタ倫理学においては、「形式的規範性(formal normativity)」と「権威的規範性(authoritative normativity)」の区別がある。形式的規範性というのは、将棋を例にすると、「二歩を禁じる」とか「角を真っ直ぐ動かしてはいけない」という競技のルールを指していて、将棋を正式にプレイするのであれば、いつだれがどこで将棋を指すのであろうと守らなくてはいけない規範のことだ。これに対して権威的規範性というのは、もっとメタ・レベルの概念であり、「本当にいまここで将棋をプレイするべきなのか」とか、「このルールに全て従って将棋を指すべきなのか」(プレイするにあたって選択の余地があるルールもあろう)という問いに答える規範のことである。そして、上の論文は後者の権威的規範性という概念についての懐疑論へ反論する。懐疑論者は、権威的規範性や無条件の義務といった概念は、曖昧で循環的、あるいは不整合であり、実質的には形式的規範性しか成立しないと主張するからだ。
このテーマを法令や他の規範へ単純に置き換えて議論できるかどうかは保証しかねるが、ひとまず僕が関わっている仕事に当てはめると、僕は当社で個人情報保護管理者、つまり Chief Privacy Officer という肩書をもっていて、これは JIS Q 15001 で要求されている役割であり、プライバシーマークの使用許諾を受けている事業者であれば、必ず社内に一人は任命されていなくてはいけない。そして、その役割に応じた責任と任務があり、それを社内で遂行できるように権限や予算などを確保して社内へ知らせるというコミットメントが代表権者に要求される。つまり、社長が「CPO はこれこれの権限があるから、全員が協力せよ」と会社全体に命じなくてはいけないのだ。だからこそ、僕は会社の規程文書を起案する権限があるし、他の会社や個人事業主に NDA や個人情報に関する覚書を会社の代表者として求める権限があるし、与信において個人情報の取り扱いに問題がありそうな会社とは取り引きしないといって決裁を否定できるような権限が認められている。
ここで議論している形式的な規範性という脈絡で言えば、僕がこのようなことをしている根拠は、もちろん JIS Q 15001:2023 という産業規格なのだが、それよりもまず個人情報保護法という法令がある。これは、プライバシーマークを持っていようといなかろうと、全ての事業者が従うべき法律である(たとえ個人事業主であろうと、事業の用に供していて、自分自身の法的な身分にかかわるような個人情報は法令に従って適正に扱うべきなので、厳格に言えば全ての事業者が個人情報保護法の対象になる)。だが、僕は "in-house philosopher"(企業組織内の哲学者)というスキルも多少は使っているので、たとえば弊社の企業理念に照らして社内規程の水準が満足できる内容なのかどうかを、法令や産業規格を満たすレベルにとどまらず、それ以上の(「それ以外」だと、よくある社内慣行というものへ脱法的に部分最適化する場合もあるので、それは必ずしも正しいスタンスではない)レベルにおいて達成できるようにすることも期待されている。弊社のスローガンの一つは、「満足を超える感動を提供する」ことだからだ。したがって、社内規程を向上させるにあたって、GDPR のようなものも参考にするとか、あるいはプライバシーやデータ・ガバナンスについて議論されている学術的な成果も利用するといったことが、権威的な規範性として考えられる。僕は、このようなスタンスが(懐疑的な立場が言うように)自己反駁的だったり自滅的だとは思わないのだが、果たしてどうなのだろうか。
権威的な規範性についての懐疑論によれば、社内の規程を GDPR のようなもので向上させようとすることは、実際には別の、あるいはもっと広範囲の形式的な規範性を追加しているだけである。ここで、どうして GDPR や他の基準だとか規格を参照したり、自社の経営理念にも最適化するべきだと思うのかと問われると、形式的な規範性を超える何らかの権威があるという想定には、更に「ルールを超える権威があると考えるのはなぜか」といった別の問いを引き起こすこととなり、無限後退に陥るか、あるいは特定の権威だけに着目した場合にも、それが形式的な規範を「超える」という権威性についての同語反復に陥ると指摘される。つまり、これこれの基準を権威として認めるのはなぜかと問われて、その基準に権威があるからだと答えるようなものだというわけである。
しかし、僕はこれは反論になっていないと思う。「これこれの基準を権威として認めるのはなぜかと問われて、その基準に権威があるからだと答える」のは当然であり、経験主義という立場で言えば、僕らが或る基準を権威として認めてきたという経緯や成果に、何か特別な究極の根拠なんてものは最初からないのだ。そういうものがあると考えるからこそ、論理的に無限後退へ陥るとかあるいは同語反復に陥るという形式的な反論を当てはめることになってしまうのである。しかし、何かを権威として認めることは、教科書を読んで論理的に納得するというだけでは不十分なのであって、何かを権威として認めるということは単なる形式的な問題ではないのである。
国内法や産業規格だけを守っていても、グローバルなデータ・ガバナンスや個人の権利を更に適正に保護して利用するとか、企業としての持続可能性、社会的信頼、個人の尊厳を守るという本質的かつ本来の要請に十分にこたえられる保証はない。僕は実務家として、それから(少なくとも学部で法哲学も学んだ)哲学者としても、そう考えるからこそ GDPR や他の色々な技術だとか管理手法を導入することを検討する。そして、上の論文で著者のジェシー・ハンブリーが論じているように、権威的な規範性を形式的な規範性の一種にすぎないと回収するような議論こそ、自滅的であると思う。
規範性の大小や強弱が、形式的な規範性の選択だとか組み合わせだけの問題にすぎないという議論を次のような要素から組み立ててみよう("SP 800-53" は NIST のプライバシー関連の規格である)。
(1) 個人情報保護法に従えば、個人情報保護法の要求を満たす規程になる。
(2) JIS Q 15001 に従えば、JIS Q 15001 の要求を満たす規程になる。
(3) GDPR に従えば、GDPR の要求を満たす規程になる。
(4) SP 800-53 に従えば、SP 800-53 の要求を満たす規程になる。
さて、これらの異なるルールや規格や規範を社内規程のベースとして採用するにあたって、僕らは何を目的に決めるだろうか。個人情報保護法を満たすためだとすれば、(1) だけでよいはずである。そして、国内の法令や規範を満たすためだとすれば、(1), (2) だけでよいはずであり、(3), (4) を参照する必要はない。それでも僕らが (3), (4) あるいは他にも色々な規格や技術や法令などを参考にしようとするのは、弊社の CPO という立場、あるいは哲学者として何が適正な他人の情報の取り扱い方なのかという一定の、あるいは一つの立場からものを考えているからだ。現実の取捨選択が相対的なものに留まることも事実だが、だからといって、それが (1) と (2) だけでよいという範囲に終わるものでないのも確かであり、そのために in-house philosopher である僕らのような人材がいるのだ(たぶん、こういう思考が必要でないなら、それこそ生成 AI が CPO をやればよい)。僕が (3) や (4) を参照するのは、(1), (2) に追加して (3) とか (4) という具体的な基準や規格を選べばよいとだけ考えたからではなく、もっと更に強い動機や目的としての権威的な規範性として語りうるような発想とか期待などがあるからだ。これが、具体的に何らかの法令や基準として、どこかの国や団体の文書として示されているという根拠も保証もないわけなので、僕らはそういうものがどこかにあると思って探しているわけではなく、寧ろそういうものが具体的な文書としてどこかにあるとは思っていないからこそ、現状で満足せずに、色々なものを参考にするのだ。