Scribble at 2024-06-14 11:25:39 Last modified: 2024-06-14 11:38:45

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京都・祇園祭の 山鉾やまほこ 巡行で京都市観光協会が販売する「プレミアム観覧席」を巡り、祭を執り行う八坂神社(京都市東山区)の野村明義宮司(65)が、同協会の理事を辞任する意向を示していることがわかった。プレミアム観覧席は昨年導入され、酒類やかき氷などが提供される。同神社によると、野村宮司は「山鉾巡行は神事で、お酒を楽しみながら見るショーではない」と話しているという。

京都・祇園祭の山鉾巡行「ショーではない」…プレミアム席を八坂神社宮司が問題視、市観光協会理事辞任の意向

この宮司さんの意見について、「同協会の担当者は『真意を確認したい。サービスの内容を見直す余地はある』としている。」とか話してるらしいんだけど、なんで「真意」なんて言うんだろう。つまり、祇園祭は神事だから酒なんか飲んで見るもんじゃないと言ってるだけなのに、何か裏の事情があるって疑ってるわけだよね、この担当者は。そうでなきゃ、この「同協会の担当者」というのは、宮司さんが言っている日本語を理解できない特殊な採用枠で採用された海外出身者なのか、それとも国語の成績が悪かった人物なのかな。何にしても、この「同協会」の真意とやらを寧ろ聞きたい気がするね。よく、「いかにも京都人らしい」とされる遠回しな意味合いがあると考えたら、「真意を確認したい」というのは、別に真意なんて言葉に意味はないのであって、これは単に「会って話がしたい」とか「何とか思い直してもらうよう場を設けたい」といった意思表示のつもりなのかもしれない。ともあれ、それはどうでもいい。

ここで、宮司さんの意見に違和感を覚える人はいると思う。特に、この国ではいつごろからなのかは知らないが、祭りについて「ハレ」だの「ケ」だのという概念でもって説明しようとする、民俗学と称するインチキ文芸批評がまるでまともな学問であるかのように書店でも大学でも説得力の源泉として何程かの地位を認められてきたからだ。でも、はっきり言わせてもらえば民俗学で語られているものの大半には根拠がない。

まず、論証としてもお粗末なものが多くて、歴史学や考古学や社会学、あるいは文化人類学からの借り物の学説や議論やアプローチや観点を、単に日本の習俗へ当てはめただけの話であることも多い。じゃあ、なんで、ただの日本における文化人類学や社会学だと言わないのか。それは、ただたんに従来の文化人類学や社会学も未熟な状況だったので、伝説、伝承、民謡、民間信仰、御伽噺、子守唄、祭事、冠婚葬祭といったことにまで手が回らなかったせいで、或る対象なり地域に特化した博物学的な活動に何か独自性があると勘違いした人々がいたのだろう。僕は、いまでも日本の出版業者や大学の研究者にすら根強い偏見があると思っているのだが、たとえば「考古学」と言えば金銀財宝を扱い、「社会学」と言えば都市の軟弱な若者やアダルト女優やホームレスを調べて、「文化人類学」と言えば・・・敢えて不適切な表現を使うが、人食い人種の学問だといったイメージを色々なところで押し付けてきたと思う。よって、民俗学も別に稲刈りだの民話だのを研究なんてしなくても成立する筈なのだが、そういう経緯があって方法論ではなく対象で学問の内容が決められてしまっている感がある。学問としていまだに三流だとしか思えないのは、そこが決定的な原因だと思うね。

それから、大規模な統計調査という点でも民俗学には怪しいところがある。なぜなら、民俗学とは「日本」なり特定の「地域」についての習俗を扱うわけだが、そもそも日本とか東北とか何々集落だとか、一定の範囲で何かを調べるにしても、その基準が殆ど同語反復になっている。つまり、四国の習俗について調べるという場合に、その習俗を調べる範囲が最初から「四国」という概念に依存しているわけである。四国でも細かい地域によって異なる習俗があろうし、他の地域とは「四国」として一括できない場合もありえる。特に漁業が盛んなところは遠く離れた地域の習俗を持ち込む人がいるため、独特な風習が生じやすいかもしれないし、逆に山岳地域は周囲の地域から孤立していたり、あるいは山岳に敢えて住んでいるような人々との交渉で特殊な習俗が生まれるかもしれない。

ともあれ、祭りについて「ハレ vs. ケ」だのと短絡的な理解をもとにマスコミ受け、素人受けするような物書きが1980年代にポスト・モダンのブームに乗じて着目されるようになり、日本の教科書的な記述から漏れた様々な事柄が、オカルトなりエキゾチズムなりという観光客的な視点で日本史のディテールなり裏話的に書かれたり読まれるようになったわけである。しかし、そこで展開されている説明や解釈の大半には学術的な根拠などなにもない。単なる民俗学プロパーの文芸批評にすぎないわけであって、しかるに祇園祭も祭りであるからには、或る種の無礼講が許容されるイベントではないのかと思う人がいても不思議ではない。なんなら、ラブホテルの窓から観覧するくらいのものだと言いたがる人がいたりするのだ。宮台真司みたいな、社会学者やファシストの皮を被った援交オヤジなら言いそうだ。

しかし、祭りが日常生活の圧倒的なルーチン・ワークと対比しうるイベントであることは認められるにしても、だからといってそれを対比するのに「ハレ」だの「ケ」だのと勝手な理屈を押し付けて、特殊な基準や判断が許容されるなどと言い立てるのは、個々の行事なり習俗に関する、皮肉にも「民俗学的な無理解」というものではあるまいか。民俗学なんていう御託を勝手に個々のイベントを理解するにあたって妄想したり押し付けることこそ、本来なら到達するであろう学術研究分野の基準からみた民俗学という観点では由々しき偏見や、根拠のない推定・断定だという話になる。まるで勝手に「伝統」を考案してプロモーションしていた、あの「江戸しぐさ」にかかわっていた詐欺師どもと同じであろう。

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