Scribble at 2026-06-16 09:28:54 Last modified: 2026-06-16 15:30:34

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On progress in science and metaphysics

科学とは何か、形而上学とは何か。こういう話題じたいが雲を掴むような話ではあるが、一定の理解や前提をもとに議論することにも、とりわけここで主要な話題となっている形而上学にコミットすべきかどうかを考えるにあたっては意義がある。

言っておくが、僕が言っているのは形而上学という哲学のアプローチにコミットするかどうかを思案している人にとっての意義であって、形而上学の話題をあれこれ取り上げてお喋りしている、日本とか言われている文化的僻地の大学教員や物書きが興味をもつかどうかという話ではない。そういう手合いは、哲学の学説や主義主張を陳列ケースに並べて品評しているだけの箱庭趣味の人々であって、形而上学、いわんや哲学しているとは言えない。彼らが大出版社からどれほど楽しくてわかりやすい本を出して何かの賞を受けていようと、しょせん彼らの書くものは同じ程度に暇な読書家や文化人にとってのアダルト・ビデオみたいな消耗品である。

さて、上に紹介する論文は、科学の成果に基礎を置いている自然主義的な形而上学というアプローチについて議論している。もともと、ケリー・マッケンジーが自然主義的な形而上学というアプローチを批判しており、時代とともに進展する科学の理論に依存するような形而上学は、それ自体も時代によって次々と(しかも科学の成果に呼応して)変わらざるをえないものであり、それはもはや哲学というよりも現時点の科学について議論するただの批評ではないのかと論じている。さもなければ、哲学や形而上学には科学のように一定の理論値や理論的な規則性への「近似」という進展の仕方がないのであるから、形而上学はやはり科学の進展と歩調を合わせるようなものではなかろうというわけだ。

このような批判について、この論文の著者であるサリムハニ(Kian Salimkhani)とロルフス(Matthias Rolffs)は、マッケンジーのいう「近似としての進歩」という観点が、現実の科学に対して狭すぎるものであると批判している。そして、それに代わる新しい観点として、理論空間の探索と制約というモデルを提案している。

著者らが着目するのは、素粒子物理学において標準模型を超える新しい理論を探索する際のプロセスだ。物理学者たちは、未知の理論が持つであろうさまざまなパラメータ(粒子の質量や結合定数、あるいは質的な性質など)を座標軸とする多次元の空間というかスキームのような型を想定している。そして、実験データに基づいて不適合なパラメータ領域を排除していくことで、良さそうな理論が含まれる領域を段階的に包囲していく。これが「制約モード」だ。また、実験データや哲学的な直感に基づいて新たな理論の可能性を構築していく作業が「探索モード」だという。このアプローチでは、過去の理論と現在の理論が直接に数学的な近似関係になくても、可能性のネットワークを狭めたり広げたりすること自体が進歩とみなされる。圏論さえやっていれば何でも理解できたり解決するかのような妄想を語る「自称数学者」らには注意せよということでもあろう(笑)。

で、このような空間あるいはスキームを想定する進歩の概念は、彼らによれば哲学や形而上学にも当てはめられるという。形而上学においても、その内容や特徴に応じて抽象的な空間の中に理論を配置することができるから、ということらしい。形而上学においても、自ら新しい理論を構築してスキームを探索するだけでなく、最新の科学的な成果によってどの形而上学の理論が排除されるか、あるいは書き直されるべきかを検証することで、スキームを制約していくという。たとえば、量子力学における量子もつれ(quantum entanglement)の発見は、伝統的なヒューム主義(Humeanism)の素朴なバージョンに対して強い制約を与えたとされるような事例が指摘できるという。ヒューム主義というのは、個々の事象どうしに論理的な関係や必然的な関係はないという立場であり、ヒトという生物が制約された認知能力の範囲でつくりあげた「法則」というものは表面的に観察されたことを説明するための観念や道具にすぎず、現実に目の前に起きる「事実」とは別の、ヒトの認知能力に制限されたストーリーや set-up にすぎないと考える立場だ。このような、法則が事実に依存するだけの本質とは異なる何かにすぎないという見方は、デイヴィッド・ルウィスが因果関係の分析において展開した supervenience の議論としても、一つの学説を形成している。そして、もちろん因果関係についての反実在論だとかコリン・マッギンの認知クロージャという学説を支持している僕も、ヒューム主義者の一人である。

結論として、形而上学は真理への直線的な近似というプロセスではなく、理論がもつ色々な特性の空間を探索し、科学との適合性を検証しながら可能性の領域を包囲していくプロセスとして理解されるべきだという。たとえいまの科学に立脚して定式化されている理論の多くが将来的に偽となっても、偽の理論を精緻に検討し排除していく面倒なプロセスこそが、科学と形而上学の双方における確かな進歩のすがたであろうというわけだ。

もちろん、人文学、とりわけ哲学において「進歩」を語ること自体に違和感を覚える人はいるだろう。僕も、哲学とは本質的に言って答え(理論)ではなく問いのことだという信念のようなものがある。哲学することというのは、なにごとかについて気づいたり思いつくことで問うことの中にあり、誰かが問うた末の答えの中にはないような気がする。僕が、小平の英雄だろうと立命館のブ男だろうと元四国の役人だろうと早稲田の「有力教授」だろうと、そういう連中が書く通俗本は言うに及ばず、たとえ敬服に値する研究書や多くの古典書についても、しょせん書物の中に哲学はないと思っている最大の理由はここにある。もちろん、それらは僕やあなたにとっての答えではないし、ましてやそれらの答えは僕やあなたにとっての問いが発せられた末の結論でもないからだ。

しかし、だからといって哲学的な問いやアプローチがそれぞれの人や状況に独特であり固有の、一回性の何かであるという、ウィトゲンシュタインの取り巻きみたいな読書家が好みそうな妄想は、単なるナルシシズムでありセンチメンタリズムにすぎない。なぜなら、そんな確証や根拠はどこにも、つまりは哲学的に言っても「ない」からである。僕らが気づいたり悩んだりすることは、数百年前の誰かが気づいたり悩んだことでもありうる。ありふれた人々が自らの生活や考えを記録する習慣もなければ、その道具も余裕もなかった時代であっても、同じ問いを誰かと共有していた可能性は常にあると考えるのが、真の「有限主義」というものであり、自分の思いついたり悩んでいることが唯一の問いであるという思い込みは、たやすくそれが何の根拠もなく重要な問いであるとか崇高な尊い問いであるかのような自己欺瞞への片道切符となるものだ。僕の哲学は、そういう人類という種の特性、なかんずく個人の特性によってしか成立しないような問いを特別扱いしないという意味で、徹底的に「アンチ・ヒューマン」である。

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