Scribble at 2026-06-13 11:21:44 Last modified: unmodified

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AIで書いた文章を自分の言葉として伝えるのは倫理的に問題があるのか?

この手の倫理学の話題は、常識的な範囲で良し悪しを語るためのネタとして扱うなら大して懸念は起きないけれど、これを誰かの考えや行動にとって規制やルールや要求にまで進めようとするなら、それなりに大きな懸念が生じる。逆に言えば、常識的な範囲で扱うなら倫理学の話題なんて毒にも薬にもならない与太話の類でしかないということでもある。

どうしてなのかというと、道徳や倫理の話というものは人の価値観に準じて行われるものであり、またそうある他にないのだから、常に何らかの制約や留保があるからだ。どういう議論をしようと、常に「状況によって異なる」という但し書きなくして正確かつ誠実な議論ができないものだからである。僕も神戸大で短期間だけ先輩の関心に沿って倫理学の演習に加わっていた時期があり、そこで Richard Mervyn Hare の「普遍化可能性」という概念について議論したこともあったけれど、普遍化可能であるためには条件が近似するか一致していなくてはならないため、その規則の普遍化可能性が強ければ強いほど、実はそれが当てはまる状況は特殊なものになっていき、したがって最も普遍的な規則は最も特殊な状況でしか成立しないという逆説を生じる。そこで、ヘアは普遍性だけでなく「一般性」という概念を持ち出して、固有名詞が含まれなければ普遍性が保たれると考えたのだが、固有名詞が含まれなくても実質的に特定の誰かにしか成立しないルールや規則はいくらでも考えられる・・・というのが、ラッセルの確定記述というアイデアだったのではなかったのかという気がする。そういうわけで、僕は道徳や倫理学の概念に哲学としての普遍性は認められないので、倫理学は哲学ではなく社会学や経済学と同じスキームで学ぶ方がよいと思っている。そもそも、ヒトの存在を前提しなくては成立しない時点で哲学と関係ないと思うよ。哲学、しかもハイデガー的な存在論は、ヒトがこの宇宙にいようといまいと何らかの知性によって問われるべきことを問うているはずのものだからだ。

こういうわけなので、AI を使っていることを他人に表明するべきかどうかとか、表明した方がよいかどうかなんて、ぜんぜん一概に言えないし言うべきでもないわけで、つまるところそういう結論しか出せない類の話題であろう。これを哲学のテーマとして考えたり語る必要があるとは、僕には思えないんだよね。そんなの、つまるところ人間関係の問題でしかないわけで、哲学者が何を言おうが相手にどう思われるかだけが重要に決まっているではないか。

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