Scribble at 2023-12-27 15:11:43 Last modified: 2023-12-27 15:30:27

ただいま Facebook では、「哲学シンカー」と称する企業向けのセミナーが盛んに宣伝されていて、上智かどこかの、国際的なスケールの業績なんて皆無な無能が会社まで作って通俗的な手練手管を哲学と称してばらまいているらしい。ちなみにだが、弊社には既に(正式に拝命はしていないが)実質的に色々なアイデアを業務や事業に応用していて、科学哲学者であるとともに企業のマネージャでもある、一時期は「堂島の神」と(もちろん冗談半分に)電通マンから呼ばれていたエンジニアがこうしてここにいるので、こんな連中のイージーでカスみたいな哲学ごっこなどお呼びじゃない。

もちろん、プロパーの方々にしてみれば失笑するほかにない事案だとは思うけれど、放っておいたら酷いことになるのは、各国の状況を見ていれば分かるであろう。いまやアメリカなんて、アメリカの哲学教員自身が反省の意味も込めて、もうそろそろクリシンを教えるのは止めないか? と言ってるくらいだ。結局、あんな揚げ足取りをいくら覚えたところで、暗記坊やの東大の学生にとっては楽しいゲームで博士号が取れるのかもしれないが、実質的に哲学せざるをえない人々や哲学しないではおけないような人々の要求に応えるものではありえまい。そして、こういう通俗化との牽制関係というのは、もちろん古代のギリシアから続いてきた経緯があって、別に僕が一人で権威主義を振りかざしているわけではない。

なるほど、放って置いても遅かれ早かれ流行は流行で終わるのだろう。セミナーで荒稼ぎした上智の三流教員が北海道や長野に書庫を兼ねた別荘を建てたり、あるいは文藝春秋とかからアホみたいな本を出して、果ては筑摩書房あたりから「誰それ著作集」を出したり、「知の巨人」の一人に数えられようと、しょせんはいっときのことであると言えなくもない。でも、その「いっとき」は或る人々にとっては代えようがないチャンスであるかもしれないわけだ。大局的には通俗物書きなど数十年で忘れられるとは言っても、そのバカどもが他人を巻き込んでいるのを哲学者として見過ごしていいわけもあるまい。アマチュアの僕ですら何某かの苛立ちを覚えるというのに、きみらプロパーは何とも思わないのかという別の苛立ちもあるね。本当に、日本の科学哲学プロパー(いや、このさい分析哲学でも現象学でも、あるいはイスラム思想のプロパーでもいいが)というのは、洋書の読書しかやることがないのか。

ちなみに、よく「超然主義」なんて言うわけだけど、僕はこれは矛盾した表現だと思っていて、もし世間で何がどうなろうと知ったことかと思ってるなら、それこそ「主義」などと他人に説いて回ったり家人に宣言したり、それどころかブログ記事に書くなんてことは、端的に言って自己矛盾だと思う。それは、僕ら哲学者がもっとも避けなくてはいけない自意識プレイであることを自覚できていない、自己欺瞞の典型というものだ。本当に超然とした態度を貫徹するなら、それを他人にいちいち表明すること自体が不要であろう。よってプロパーの多くがそういう態度でかような通俗化を「生暖かく」傍観しているというなら、それもそれで一つの見識ではある。もちろん、その代償として自分たちが大学の理事会や教授会から「ままーあれほしい!」とせがまれて、自分の講義やゼミでクリシンを教えたり「役に立つ哲学」だの「サバイバル哲学」だのを、小川某をはじめとする連中の本を使ってシラバスを組む羽目になるとしても、大学で働くスタッフであるからには抵抗できない。抵抗したら、それはすなわち超然とした態度を止めることになるからだ。いや、そもそも本当に真面目な意味で超然としたいなら大学教員をやるはずもないわけだが、日本のなにかにつけて貫徹しないサラリーマン哲学者どもに本来の態度など期待してもしょうがない。

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