Scribble at 2026-06-05 12:39:58 Last modified: unmodified
当サイトでは何度も書いている話だが、僕は大阪教育大学の附属天王寺小学校から附属高校天王寺校舎まで12年間を、正規の初等・中等教育を受けるだけでなく、「教育学」の研究や実証の対象となってきた。早い話が教員の個人的な研究や実験的な授業のモルモットであり、それゆえ僕の母校では(とりわけ生徒のあいだに)学校の授業を過大評価しない風潮があった。どのみち教師が実験的にやっている「教え方」にすぎず、スタンダードであるか有効であるかなどを生徒の側が気にしていても仕方ないからだ。したがって、勉強の仕方は生徒の側でも相当に裁量の余地が大きく、たとえば多くの学校では英語の辞書を教師が指定することが多いけれど、僕の母校では誰も何も指定しないので、使っている辞書はバラバラである。僕は、中学生の頃から小学館の『プログレッシブ』(初版は1980年)を愛用していて、特に強い理由もないしアマノジャクというわけではないが研究社の辞書を一度も使ったことがない。そんなわけなので、教育学というのがどういうことをやっていて、そしてその効用も成果も殆どないと思える実感がある。これに加えて、教育学というのは心理学か哲学の派生的な研究分野であるかのような面をしているようだが、哲学の大学院生だった者として言わせてもらえば、冗談もほどほどにせよというところだ。記憶や学習の認知科学だとか教育心理学に一定の成果や効用があることは分かるが、教え方や生徒の評価など、初等・中等教育の現場でやっているレベルの教育学は単なる教員の試行錯誤にすぎず、個人としての経験という蓄積はあろうが、学術的な蓄積など微塵も積みあがっていないと思う。「教育哲学」などと僭称する分野にいたっては、ほぼ「営業哲学」などと同じく通俗的な昔話の類であろう。
このような次第なので、後からいきなりやってきて「教育を変革する」などと豪語する連中もまた、個人的な経験の後知恵を語る生存バイアスの行商人が大半を占める。上のブログ記事で著者が指摘するように、アメリカだろうと日本だろうとコートジボワールだろうと、「学校教育を劇的に改革できる」と称する連中の妄想は、実証研究の成果として検証してみれば全て失敗に終わっているのだ。もちろん、だからといってアメリカの金持ちみたいにホーム・スクーリングが良いと言うのは傲慢であり、自分自身の子供に対して教えるからといって親が最善の教師である可能性など実際には殆どないのである。寧ろ、アニメや漫画で描かれる牧歌的・空想的な状況とは逆に、親というのは子供にとって最悪の教師であることが多いのだ。なぜなら、たいていの親は凡人であり、凡人が自分と同じ程度に凡庸であるか、それ以上の子供を育てる教育などできるわけがないからである。無論だが、これは人間性や性格をどうこう批判しているわけではない。たとえ子供に対して誠実な善人であっても、未熟で最悪の教育をするというシビアで冷静な事実を語っているだけだ。
では、上の記事を見ていこう。どうして著者は、テクノロジーを使うだけで教育を改革できるなどと豪語する連中に懐疑的なのか。それは、多くの人が学校は退屈で非効率であるとか、もっと授業をプロジェクト型・実践型にすべきだと考えるのだが、実際には研究の結果として、そういう授業は効果を上げていないのである。直感的に魅力的に見えるアクティブ・ラーニングのような教育法(他にも、問題解決学習、探究学習、プロジェクト学習などがある)は、伝統的な授業における教員の直接的な指導よりも教育の効果が劣っていることが繰り返し示されているのだ。そらそうだろう。アクティブ・ラーニングの授業なんてものは、教員ごとのスキルが不足しているせいもあるのだろうが、現実には授業と称する左翼の雑談にすぎない。それから、数か月前に Justin Sung の学習法という動画を紹介したときも注意したことだが、マインド・マップや「記憶術」あるいは日本では昔から話題になってきた「公文式」のような要領がいいだけの勉強法というのは、やはり限定的な効果しかないのである。
寧ろ、色々なところで教育の改革が叫ばれたり、あるいは新しいメソッドなどが導入されているせいで、実はスタンダードな指導方法や授業というものを行う教員は少ない。何か生徒に「ウケる」ために、派手なパフォーマンスの予備校講師の真似事をしたり、使えもしないタブレットやアプリなどのテクノロジーを安易に導入したり、あるいは授業のスライドにアニメや漫画のキャラの挿絵を使うとか、そういう馬鹿げた工夫をしないといけないという商業主義によって大半の授業がゆがめられていて、本質的に重要なことに生徒の目を向けたり集中させることができなくなっている。
そもそも、学校教育の改善が難しい理由は、あるていど明解に分かっているし、その問題をテクノロジーなどで簡単に解決できないことは分かっているのだ。まず第一に、学校で習得するべき事項は多くの分野におよんで大量にある。それらを一定の年限で習得しなくてはいけないという制約がある。これに対して、どのようなスキルであろうと小さなタスクを達成して身につけて行ったり覚えるという作業の繰り返しであり、生徒がすべて天才や gifted などと称する偏った発達児童でもないかぎり、凡庸な子供にとって学習のショートカットなどありえないのだ(また、そういう異常な発達の子供は得てして、大学レベルの数学ができても漢字を書けなかったり、高度な物理の理論を理解できても一人でバスに乗って通学すらできなかったりする)。したがって、学習の効率を上げるとか、あるいは学習するべき内容を減らしたり変更するしか対策はないのである。
また、ここ最近になって教育現場に導入されているテクノロジーを使った手法にも、多くの問題がある。たとえば、僕は昔からシステム開発や企業経営に gamification というアイデアを持ち込むことには反対してきたのだが、教育においても、gamification は実際には効果がないという。なぜなら、子供はゲームをプレイするという「飴」のことしか考えておらず、そのために関連があるというだけで問題を解いているにすぎないので、何かを覚えたり計算すること自体をゲームにおける「障害物」のようなとらえてしまっているからだ。実際、gamification もマス・メディアの話題になってから10年以上が経過しているはずだが、小学生の頃に導入して何かを学んだ人物が IT 大手の主任エンジニアになったとか情報科学の研究者になった事例など、ただの一つもない。AI を教員の補助として使うというアイデアも、教育行政に入り込んで国や自治体から「お小遣い」をせびろうとするガキの詐欺師どもの道具として盛大に宣伝されているが、あんなものが教員の補助になるという発想じたいが無責任である。