Scribble at 2026-09-27 08:44:37 Last modified: 2026-09-27 09:37:18
しばしば『白夜行』に対比される『砂の器』という作品については(「なりすまし」というテーマとしては、もちろん『幻夜』にも対比されることはある)、いくらかの分量で研究論文が出ている。ひとまず参考にと、かなりマイナーな研究組織の論説を J-Stage から拾い上げてみたのだが、なかなか興味深い。
まず著者(関大大学院のドクターらしい)は、1960年代に発表されていた『砂の器』が20年以上も経過してから翻訳されたのはどうしてなのかと問う。だが、ふつうは出版事情だとか、作品の評価に時間がかかったと考えるであろう。あらゆる著作物があらゆる他の言語で自動的に翻訳されたり出版しなおされたりするのが当然でも自然でもないのだから(寧ろ、殆どの著作物は他の言語に翻訳などされない)、こんなことに驚き、研究論文のテーマにすること自体が、ふつうは驚くべきことだ。そして日本の常識的には、即座に翻訳されても良かったくらいの著作物でも、中国共産党の反日政策などで禁止されていたのだろうなんて想像は、いまどき中学生でもできる。寧ろ、こんなことをテーマにして政治的にカマトトぶった態度をとること自体、日本の中国領事館のスタッフが日本における中国からの留学生の出版活動を監視している証拠ではないのか・・・などと、半分は冗談だが勘ぐってしまうようなテーマにしか見えない。
そして次に、中国版と台湾版とで「内容的にも一致性が見受けられる」ということに着目しているのだが、これもまた(事情を説明されるまでは)驚くべきことだと感じる。中国と台湾とでは、同一の文学作品でもイデオロギーによって内容がそれぞれ有利な意味に置き換えられたり捻じ曲げられるのが当然であるかのように議論し始めているからだ。
もちろん、ポストモダンの文芸評論を経た現代の文学研究において、「翻訳」つまり意味の一致だとか固定といった、実は認知言語学的にはありえない妄想の類を目標にするプロセスは非科学的なナンセンスでしかないと言えるわけだが、しかしだからといって、あからさまに「翻訳とは誤訳である」といった、都内や京都のインチキなデリダ研究者やドゥルーズ読みなどと同じような、キャバ嬢を相手にするような軽口を、われわれのような哲学者が書いて済ませられるわけもない。