Scribble at 2026-05-03 19:37:44 Last modified: 2026-05-04 09:51:21

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イプセン『人形の家』(矢崎源九郎/訳、新潮文庫、1953)

非常に著名な19世紀の戯曲でもあり、それからフェミニズムの古典的で先駆的な著作物としても知られているのが、このイプセンの『人形の家』だ。これまで古すぎて目を通していなかったので、長期休暇という機会に目を通しておくことにした。そして1時間たらずで読了したのだが、これまで幾つかの雑誌やウェブサイトで見かけていた批評の多くについて、こうして通読してみたことによって、初めて違和感をもつことになった。

その違和感というのは、殆どの批評や解説がノラという女性を中心に据えていることである。しかし、僕の読後感から言うと、この女性はストーリーの中で殆どトリック・スターという位置づけに感じられる。なぜなら、この作品の筋書きをリードしている中心人物はリンネ夫人ではないのかと思うからだ。多くの批評は、作品が発表された当初から、どうしてノラが豹変したのかを解釈し解説すること(それから豹変そのものの是非を評価すること)に多くを費やしてきたわけだが、リンネ夫人がノラの心理に影響を与える役回りだと理解していれば、彼女が登場してから交わしたノラとの会話を丁寧にフォローしたりトレースすれば、ノラがリンネ夫人の発言や行動にどういう影響を受けてきたかが分かる。そして、その経緯から女性なり個人としての自立という、批評家が切望するコンセプトにノラの心理が到達すると分かるのではないか。

イプセンは、晩年になって『人形の家』は女性の問題を描いた作品ではなく、人間の問題を描いた作品だと言ったという。確かに、彼の言うような背景や構想がなくてはならなかったであろう。なぜなら、そういう構想がなくて女性の問題として『人形の家』の筋書きを構成したり登場人物を設定したのであれば、リンネ夫人は、どうやって母親や弟を養いながら働き続けてこれたのであろうか。これがもし女性の問題を提起するような作品であったなら、そもそもリンネ夫人だって何かのきっかけがなくては一人で働こうとは思わなかったかもしれない。当時の文化や慣習から言えば、再婚してもおかしくなかったであろう。

リンネ夫人は、ノラがこれから直面するであろう、孤独、労働、貧困をすでに生き抜いてきた女性だ。彼女がノラの前に現れたことで、ノラは初めて自分の「秘密(借金と労働)」を誇らしく語り明かすのだが、同時に自分の苦労がリンネ夫人が味わった過酷な現実に比べれば、いかに幼稚であったかを突きつけられる。そして、リンネ夫人がクログスタッドに対して手紙を回収するのをやめるよう説得する場面、

「ですからヘルメスさんには一切を知らせて、こんな不愉快な秘密は早く明るみに出したほうがいいと思います。お二人の間では完全に理解し合うようにしなければいけませんもの。それにあんな隠し事や逃げ口上で、いつまでもやっていけるはずはありませんよ。」(p.134)

このような話しぶりは、リンネ夫人が単なる幼馴染や相談役ではなく、ノラを「人形」という生き方から(女性としてよりも人として)解放するという脚本を書いた演出家であることを示しているのではあるまいか。

もし本作品が「女性の権利」を訴えるだけあれば、リンネ夫人の存在は矛盾してしまう。彼女は法的な権利や社会的な支援が、女性としてどころか市民なり人として生きるにおいても乏しい中で、母親や弟を養うために、愛情のない結婚を選び、その後は自らの手で働き続けてきた。リンネ夫人は、誰に教わったわけでもなく、生存のために「働くこと(working)」を身につけている。ノラが最後に宣言する一人の人間としての、自分自身への神聖な義務を、リンネ夫人は十数年前から実践していたとも言える。リンネ夫人という先行事例がノラをトレースするように導くことで、物語に説得力が生まれているのではないか。

そして、リンネ夫人がトリック・スターである他の理由として、彼女が破壊と再生という二つの役割を担ったことを指摘できる。ノラが夢想していた「奇跡」とは、ヘルメルが自分の罪を背負ってくれるという依存の極致だったのだが、リンネ夫人は手紙を敢えて暴露させることで、その幻想を冷徹に粉砕する。これは一方でノラの家庭を破壊して現実を突きつける行為だ。しかし他方で、彼女の介入がなければノラは秘密を抱えたまま、ヘルメルに従順な「小鳥」を演じ続けることになり、ひょっとすると秘密を抱え続けることとの軋轢で死を選んでいたかもしれない。リンネ夫人は、乱暴ではあるがノラをそのような状況から救い出して、自分でもやってこれたような苦難へとノラを導いたとも言える。

多くの批評家がノラの豹変にばかり注目してきたのは、その方が「女性の解放」という安っぽい正義感が大好きなマスコミ受けするテーマを語りやすかったからであろうし、文学作品を題材にウーマン・リブを語る方が「思想を語る人として格好いい」からでもあったのだろう。しかし最初から性による差別を許容しない人類史スケールの保守思想家として、マスコミ受けを狙うだとか、あるいはフェミニストの女性を意識したスケベ根性などなしに言わせてもらうと、かような話題の取り上げ方こそが性差別の裏面と言うべきであろう。リンネ夫人の発言や行動を丁寧にフォローすれば、ノラの「豹変」は彼女自身の内側から湧き出たものというより、リンネ夫人という現実に触れた影響の結果であると言えるのではないだろうか。

[追記:2026-05-04] ただ、このような議論の全体が「プチブル的な英雄譚にすぎない」と鼻で笑うのが、昨今のマルクス主義的なフェミニズムなのであろう。なにかと言えば、この手の人々は最底辺(革命的プロレタリアート)からの視線こそ正義であり力であり思想的な優越であるという転倒や倒錯を「芸風」としているからだ。だが、僕のような保守主義の人間から見れば、実はこういうマウンティングやメタ議論を口にしていられるご身分こそが当人の欺瞞あるいはプチブルであることの自己証明みたいなものなのだが(いまや日本の労働組合員の大半は、給料が上がるどころかボーナスや退職金すらない膨大な数の中小企業などおかまいなく、ボーナスの増え方や億ションのローンを気にするような大企業の裕福な人々だ)、自己欺瞞に陥っている当人やエコー・チェインバーの内側で安穏としている人々に批評や指摘が届く見込みはきわめて低い。

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