Scribble at 2026-09-16 19:37:13 Last modified: 2026-09-16 19:38:22

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Theory Is All You Need: AI, Human Cognition, and Causal Reasoning

この論文は、AI が真の新規性や新たな知識を生み出すとか、あるいは不確実性のもとにある意思決定において人間に取って代わるという見解に対して異論を唱えている。著者らは数十年間にわたって認知科学や人工知能研究の基盤となってきた、心や機械を入出力装置や情報処理機構と見なすアナロジーを批判的に検討し、AI によるデータ依存の予測と、人間が行う理論に基づく因果推論との間には決定的な質的差異が存在すると論じる。

その違いを際立たせる具体例として、大規模言語モデルと子どもの言語習得が対比されている。大規模言語モデルは、膨大に蓄積された既存のテキスト・データに含まれる統計的な相関や単語の共起パターンに基づいて、確率的に次の処理シーケンスに出現する単語を予測することでテキストを生成する。これは過去のデータの組み合わせによる模倣や言い換え、すなわち一種の翻訳作業に過ぎず、過去の入力範囲を自律的に超えることはできない。一方、人間の子どもは極めて限られた発話データにしか触れていないにもかかわらず、自ら文法や意味に関する理論を能動的に構築し、過去の入力を質的・量的に大きく凌駕する能力を発展させる。

また本論文では、AI とヒトの認知との乖離を説明する概念として、データと信念の対称性(data-belief symmetry)、そしてデータと信念の非対称性(data-belief asymmetry)を導入する。ベイズ的な認知(bayesian cognition)や予測処理に代表される従来の計算論的アプローチでは、信念は手元のデータや証拠に比例して更新されるべきだとする対称性を前提とする。これは僕ら科学哲学者の研究領域である形式的な認識論でも formal belief revision theory の主要モデルだ。これに対して、真の新規性やブレイクスルーを生み出すヒトの認知能力には、現存するデータや常識に反していても自らの仮説を保持する非対称性(というか「頑固さ」であったりもする)が不可欠だ。

この実例として、19世紀末から20世紀初頭にかけての空気より重い飛行機械(動力飛行機)の実現が紹介されている。当時、大型の鳥類が飛翔できない事実や著名な科学者たちの証拠に基づく判断から、動力飛行は物理的に不可能であり、それを信じることは妄想と見做されていた。いや、実は僕はいまでも飛行機が飛んでいることを奇妙に感じる・・・まぁそれはともかく、もし当時の文献データのみを学習した人工知能が存在していれば、地動説を否定して天動説を支持したのと同様に、動力飛行の不可能性を極めて論理的かつ高い確率で予測したはずだ。しかしライト兄弟は、過去の失敗データや科学的コンセンサスに盲従するのではなく、揚力・推進力・操縦性という因果構造を特定する理論を構築し、自作の風洞実験などを通じて未知のデータを自ら能動的に創出することで、不可能を可能に変えたのだった。

経営戦略や科学的発見をはじめとする不確実性の高い領域においても、真に価値を生み出す意思決定は、過去のデータから誤差や驚きを最小化する予測ではなく、むしろ世界に能動的に介入し、現状には存在しない新たなデータを創出する行為に基づいているという。AI は過去のパターンを反復・補間する定型的な作業には極めて有用だが、未来を見据えて独自の理論を打ち立てて、実験を通じて新規性を拓くというヒトの認知能力の核を代替することはできないのである。著者らは、人間を単なる計算機と見なす見方を脱し、理論に基づく因果的思考と能動的実験の能力こそが、新規性と戦略的優位の源泉であると結論づけている。

このように、安易なアナロジーや思考実験や喩えというものが、いかに人の偏見を強化したり固定してしまうかという危険を指摘しているだけでも、このような論説には価値があると思う。もちろん、人の思考なり想像における外挿やアナロジーにも一定の有効性があることは認めるけれど、それらが結果として有効だったのは単なる結果論に過ぎない。「アナロジーや思考実験の科学」だとか、方法論というものが全く議論されてもおらず、哲学においてすら真面目に議論されないまま何百年も放置されているのだから、そのあいだに杜撰な手法や思考が個々に実行されて、その末に数多くの通俗本や教科書において馬鹿げたイラストや図表となっているのが、残念ながら21世紀の四半世紀も過ぎた現状であると言ってよい。僕は、こんな馬鹿げたスタンスは前世紀で終わりにしてもらいたかったのだが、まぁいまの様子だと(もっとはっきり言えば、日本の大学教員と出版編集者の通俗ぶりや無能ぶりを見ていると)僕が生きているあいだに哲学の教科書や俗書が満足のゆくレベルの啓発書として出版される日は望めないであろう。もちろん、そんなものがちゃんと出版されようがされまいが、既に哲学者である僕には関係がない。バカや無能が書いたものでしか哲学を学べない人々は気の毒だと思うが、どのみち有能な人間に教科書や一般向けの本なんて関係がない。

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