Scribble at 2026-10-05 15:53:39 Last modified: 2026-10-05 16:00:37
あまり具体的な議論はしていなかったのだが、僕はここ最近のあいだに SNS で若者に普及している「言説」という言葉に強い違和感がある。はっきり言って、彼らが SNS で語っている内容なり主旨を理解すれば、実際に「言説」という言葉で言わんとしているのは「建前」だとか「主張」だとか、あるいは営業マンが言う「トーク」のようなレトリカルなニュアンスを帯びた言語表現のことだと思う。でも、少なくともフーコーを読んだことがある人なら、それが寧ろフーコーらの言ってきた権力やイデオロギーや正統性としての言説に強く牽制されたり誘導されたり感化された結果としての意見でしかないと感じるであろう。つまり、「言説」という言葉についての実感が、最近の若者と僕とでは主客が逆になっているのだ。
一つの典型なり実例として、上の記事を取り上げてみよう。SNS で頻繁に見かける傾向として、「言説」という言葉を使った瞬間に、まるで自分が思想家や社会科学者にでもなったかのような自意識に切り替わって、学術的な分析をしているような文体に豹変する人が多い。しかし、実際に彼らが書いている内容というのは、20年前の言い方を使うなら、「これは興味深いなう」みたいなことでしかなく、些末で、刹那的で、幼稚で、そして短絡的な子供の独り言でしかない。似たような「自意識スイッチ」と呼べるキーワードの担い手として、「関係」と言えばいいものを、わざわざ社会心理学用語の「関係性」という言葉で何でもかんでも語ろうとする人々がいたりする。あるいは、「記号」というキーワードにも似たような働きがある。そして、これは戦前からの傾向と言ってもいいと思うが、これらの自意識スイッチを無自覚に所持して使ってしまうのは、たいてい左翼の半端なインテリであり、学術研究の真似事をしているつもりになっていたりする(なので、たいていはネトウヨの反感を買うわけだ)。
とはいえ、上の記事に見られる用法は、「言説」というキーワードの事例としてはマシな方だ。「~せよ」という命令形となっているので、これは解釈によっては何らかの抑圧という意味での力 (power) を言い表しているともとれるからだ。ちなみに強調しておくが、もちろんこれは僕が学んだ用法と違っているという実感を語っているだけであり、必ずしもフーコーの言う意味での「言説」という用法が正しいと言いたいわけではない。