Scribble at 2026-02-22 11:52:17 Last modified: 2026-02-22 11:56:00
叩きやすい論文を見つけてきて叩いているわけではないのだけれど、確かにタイトルで判断しているところはあって、こういう「なんとかの哲学」とか「なんとか哲学」みたいなものは、だいたいにおいて取り上げやすい(そして、もちろんたいていは短絡的な議論が多いので叩きやすい)ものとなっている。これはこれで一つのバイアスであるから、ここで叩いている論文が多いという事実だけで昨今の研究者の質がどうのという話にならないのは当然であって、高く評価するべき成果もたくさんあることだろう。そういうものを(日本人が書いていればなおさら)ご紹介したいものだよ。まったく。だが、だからといって見つけたゴミは処理しないといけない。この論文も、簡単に言えばゴミだと思う。
概略だけ説明すると、この論文で著者のカタジナ・ビェリンスカは、従来の周辺的哲学(peripheral philosophy)の定義が地理的な出自に依存しすぎていると批判し、知識の流通(knowledge circulation)に基づく新しいアプローチを提案している。
著者はまず、エウゲニウス・ゴルスキ、エドゥアルド・デベス・バルデス、ウォルター・D・ミニョーロらが発展させた「地理空間モデル(geospatial model)」を分析する。これらのモデルは周辺的哲学を特定の地理的地域と結びつけて定義しているが、著者はこれが周辺性を物質的な決定要因から切り離し、純粋にイデオロギー的な領域へと変質させたと主張する。その結果、非西洋の思想が文化主義的・本質主義的に捉えられるだけでなく、ロシアや中国といった非西洋の国家権力が自らの抑圧的・帝国主義的な目的を正当化するためのイデオロギーとして、これらの理論を悪用することを許してしまっている。特にミニョーロの理論がプーチン政権によるウクライナ侵攻を正当化するレトリックに転用されている現状を、著者は極めて深刻な問題として指摘している。日本でも、やたらと「アジア」だの「京都学派」だの「禅」だのと倒錯的な議論を続けている人々が分析哲学の中にすらいて、簡単に言えば「西洋の限界を東洋なり日本が乗り越える」みたいなクソ相対主義の議論を本にしてまで売りさばいているという情けない現実がある。まったく、哲学のプロパーとして恥を知るべきネトウヨ以下の仕事だと思うよ。
これに対し著者は、哲学生産(philosophical production)を一種の労働プロセスとして捉えるマルクス主義的な視点に立ち戻り、周辺的哲学を「グローバルな哲学生産の循環の郊外(outskirts)に位置する哲学」と再定義する「知識循環モデル」を提示するらしい。このモデルでは、ある思想が周辺的であるかどうかは地理的場所ではなく、引用指数や言語的障壁、学術出版システムにおける権力構造といった、測定可能で動的な関係性によって決定される・・・「決定される」って。あんた数理経済学か数理社会学の学部生かよ・・・で、結論として、この新しいモデルは「西洋対それ以外」という抽象的な二項対立を脱し、グローバルな知識の循環における中心と周辺の複雑で変化し続ける力学を、より正確かつ批判的に捉えることを可能にする・・・なんてわけないだろう。簡単に言えば、この論文の著者が言っているのは「ジャーナル・アカデミズム擁護論」や impact factor 万能論にすぎないんじゃないの? あるいは日本とか呼ばれている文化僻地の書店に並んでいる、「スカトロ変態の分析哲学」とか「幼女フィギュアの現象学」みたいな本を喜んで編集して売りまくってる都内のバカどものような、パブリシティ至上主義みたいなもんだろう。
僕は方法論的権威主義者だから同じような立場であるかのように誤解されやすいのだけど、僕は単なる現状追認なんて権威主義でもなんでもないと思うし、権威への隷属主義でもないよ。俺が認めない権威は、叩き潰してやるというオプションが必ずどこかに保障されたうえで権威を「認めてやっている」権威主義者なので、かような人たちとはぜんぜん違う。