Scribble at 2026-02-17 17:10:01 Last modified: unmodified

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The phrase ‘fieldwork in philosophy’ has its genealogy in the writings of Austin, Bourdieu and Rabinow. In this paper, we follow these authors but take a step forward; we use their phrase for naming a theoretical sensibility that has gained ground in recent years. To develop a systematic articulation of this sensibility, we draw on Foucault, Hacking, Latour, and Mol, whose research characteristically originates from within philosophy but relies on detailed empirical case studies. We pay particular attention to four themes: the notion of site and its link to spatio-temporal constraints; how the call to be descriptive affects the idea of what philosophy can do; how conceptual work is related to a particular site; and, finally, how the issue of ontology enters the picture. What is at stake is the capability to amalgamate empirical research at a particular site with the conceptual work that characterizes philosophical traditions.

Fieldwork in Philosophy: Articulating a Theoretical Sensibility

ポストモダニズムなり、それから法律学や社会学や歴史学の素養をもつ科学哲学者として、このような議論に必ずしも最初から疑念をもつわけではないにしても、やはり程度の低い歴史主義か、人のやることや集団で起きることをなんでもかんでも社会学や文化人類学に還元しようという発想にはウンザリするね。

ということで、最近の社会科学や哲学の周辺で見られる興味深い、しかしどこか危うい動向について考えてみたい。手元にあるのは Human Studies に掲載されたトゥロ=キモ・レートネンとノラ・ハミライネンによる論文で、彼らは「哲学におけるフィールドワーク(Fieldwork in Philosophy)」という言葉を旗印に、新しい「理論的な感性」を提唱している 。彼らの主張を素直に読めば、それは徹底した現場主義であり、ある種の歴史主義の変奏曲だ 。彼らによれば、かつての「宏大な理論(Grand Theory)」の時代は終わり、現代の知は特定の「現場」というラベルなしには流通し得ないのだという 。

彼らがこの「感性」の先駆者として挙げる面々は、確かに現代思想の巨人たちだ。言語の網の目を現場の文脈から解きほぐそうとしたオースティン、哲学的な問題を社会学的な実践へと作り替えたブルデュー、そして人類学と哲学の境界で「現代」という怪物を記述しようとしたラビノー 。さらに彼らは、フーコーやハッキング、ラトゥール、モルといった研究者たちを「4つの柱」——現場、記述、概念工作、そして存在論——を支える模範として召喚する 。そこでは、哲学とは抽象的な体系をいじくり回す「腕椅子の思索」ではなく、特定の時空的制約に縛られた現場を這いずり回り、その微細なプロセスを記述する営みとして定義し直されている 。

しかし、哲学を大学院の博士課程まで進んで学んできた者からすれば、この「哲学」という言葉の流用には、喉に刺さった魚の小骨のような拭い去れない違和感が残る。彼らの議論において、哲学はあたかも「理論や体系の流行」の問題として扱われているが、果たして哲学の本質はそこにあるのだろうか。哲学において最も重要なのは、理論の精緻さでも体系の壮大さでもなく、その根底にある「問い」そのものではないか。

たとえば「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いを考えてみてほしい。この問いは、社会学的な現場がどうあろうと、あるいは歴史的なエピステーメーがどう変遷しようと、人間が世界と対峙した瞬間に立ち上がる、古くて新しい、剥き出しの驚愕である。こうした根源的な問いは、「宏大な理論」が流行しているかどうかといった世俗的な事情とは無関係に、常にわれわれの問いであり続ける。哲学を「問いを問う営み」として理解するならば、それを特定の時代や環境、立場というパッケージのようなものの中に閉じ込めてしまうことは、むしろ哲学という営みに対する組織的な隠蔽にすら思えてくる。

著者たちが言う「存在論」の変質も象徴的だ。彼らは存在論を、普遍的な実在を問う形而上学から、実践の中で「何が実在として扱われるか」を記述する歴史的・文脈的なものへと引きずり下ろした 。それは一見すると、空疎な抽象論からの脱却であり、地に足のついた知の探求に見えるかもしれない。しかし、その代償として失われたのは、記述の背後に常に控えているはずの、言語化し得ない超越的な問いへの窓口である。現場をどれほど詳細に記述し、概念をどれほど巧妙に操作したところで、それによって「問い」そのものが解消されるわけではない。むしろ、記述の精度が上がれば上がるほど、その記述の枠組み自体を成立させている「根源的な不可解さ」が際立つはずなのだ。

この論文が描く「哲学におけるフィールドワーク」は、実のところ、哲学という重荷を社会科学的な手続きによって軽量化しようとする試みに見えてならない。彼らは「現場」という足場を得ることで、哲学が直面せざるを得ない深淵な問いから、巧妙に目を逸らしているのではないか。もちろん、科学哲学を志す者として、科学的知見が生成される現場の重みを否定するつもりはない。しかし、現場を歩くことが哲学の免罪符になるわけでも、現場のラベルが問いの普遍性を無効化するわけでもない。

われわれが問うべきは、現場というラベルが貼られた知識の流通形態ではなく、そのラベルの裏側に依然として貼り付いている、剥がしようのない「問い」の行方である。哲学は、フィールドワークという名の洗練された記述へと解消されることを拒み、常に現場の外部から、あるいは現場の最も深い亀裂から、われわれを突き動かし続ける問いとして存続すべきなのだ。

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