Scribble at 2025-10-16 21:51:36 Last modified: 2025-10-20 14:34:23

介護の話題に沿っていくつかの本を読んでいると、たとえば『問いからはじめる社会福祉学』(圷、金子、室田/著、有斐閣ストゥディア、有斐閣、2016)のような概説書を手にすることが多くなるのだけれど、本書の冒頭でも言及しているように、「社会政策」のような意味が定まらない語句が書名などに掲げられる分野は理解されづらい傾向にある。そもそも「福祉」という言葉だって、人によっては「施し」とか「慈善事業」のように捉える人が多いので、する・しないは与える側の事情によると思い込んだり、与えようと与えまいと自由であると思ってしまったりする。しかも、その福祉政策をどういうわけか自分で決める権限があるかのように、「生活保護など国費の無駄遣いである」とか、「老人福祉は適度に切り捨てるのが合理的である」とか言ったりする。

これは、簡単に言えば義務教育までの子供に十分な社会科学の素養を身に着けさせていない、文科官僚や教員の文化的な罪と言ってもよい手抜き仕事の結果だというのが僕の意見だ。小学生に民法や財政学やマクロ経済学を教えて何がいけないのか。もちろん陰謀だとは思わないにしても、そんなに自分たちのビジネスがインチキだったり、官僚としての仕事が出鱈目であることを小学生に見抜かれるのが嫌なのかとすら思う。

しかし、だからといって(先に公開した落書きで展開した、通俗本がどうこうという話と同じ主旨の議論なのだが)、刑事訴訟法を漫画で描けばいいとか、租税学のテキストで表紙にビキニ・アーマーの幼女を描けばいいとか、社会科学の用語や論争をハーブティーだかなんだか言う通り名の通俗物書きに書かせたらいいといった、いかにも都内の出版社がやりそうな愚行を勧めているわけではない。それに、東大教授だろうと東大の学卒で講談社や岩波の編集部長をしていようと、小学生が読む社会科学系のまともな教科書を作る資格や能力などないのである。

それはそうと、この『問いからはじめる社会福祉学』を眺めていると不自然な記述に出会う。それは、まだ冒頭である3ページに書かれている「市民」の定義についてだ。著者らは、福祉サービスの提供者や受益者を区別するような定義には疑問を呈しているのだが、その代わりに引用している他人の定義が、もっと悪質に思えるからだ。こんな愚かな文言を、どのみち否定する意図があるにもかかわらず、わざわざ引用だけしている理由が分からない。それは、こんな定義だ。

「社会のメンバーとして、社会に必要、または望ましい、または善きことと思われることを自律的に行う志向性をもつ人々。自治に参加する志向性をもつ人々。社会的に排除されていて、自らの存在をそれ自体で生存と共生の方への呼びかけを行い、政治の責任と判断力の次元を開示する人々をも含む」

・・・いや。これってただの左翼か社会運動家のことじゃん。ていうか、なんでこんな活動をしなきゃ市民じゃないなんて言われなきゃいけないのか。それこそ、呼びかけとやらをしないばかりか投票にもいけない認知症の寝たきり老人は「市民」ではないと言っているようなものだ。恥を知れ。

こういう、一部の左翼と思われる社会科学者が、フランス革命を理想的な社会運動であるかのように妄想して、やたらと「権利は自らの手で奪い取るものだ」などと周回遅れの全学連みたいなことを書く傾向にあるのは、いちおう中学時代には歴史を学ぶ姿勢について、当時の権威と言ってもよい何人かの研究者から教えを受けた者として言わせてもらうが、社会科学者として非常に恥ずかしいことだと思う。学者が個人としてネトウヨだったり左翼だったりするのはいい。日本にはイスラム原理主義の学者すらいる(僕は公共の福祉を優先して大学から追い出すべきだと思うが、それは権威でもなんでもない東大学卒の掃き溜め文科省がではなく、僕ら自身の認める権威によって追い出すべきなのだ)。しかし、学術用語を自分たちのイデオロギーで塗り替えるような行いは、それこそ中国やロシア・・・あるいはいまやアメリカもであろうが、ああした一定の留保を付けるべき国でやっていることと同じになる(僕はアメリカの社会科学なんてぜんぜん認めていない。実際、彼らは黒人差別の改善や銃の規制や政教分離すら殆ど実現できなかったし、いまやアメリカは350年くらい前までイギリスにあった実質的な王制 --- 形式的であれば、イギリスは現在も王制であろう --- にまで戻ろうとしている)。確かに、権利や権力も国民が自らの手で保障したり維持したり守らなくてはいけない。僕が自分で権威主義者だと言っている場合にも、その権威は覆ることが前提であって、権威が自らを維持したり正当化する政策を導入してはいけない。権威を認めて支持したり維持するのは、飽くまでも権威が実効の対象にしている組織や個人であり、彼らが認めないなら権威は覆されるし、覆されるべきなのである。したがって、広い意味では僕が言っていることは殆ど「民主主義」と同じであるとすら言えるだろう。

だが、そこで現行の権威を否定するには、それに置き換わる権威を立てて正当化する必要がある。それができなくて単に文句や不平を言いながら「世の中が何か変われば」と、他人が単に現在の権威を奪って世の中が混乱することだけを期待したり妄想するだけなら、それは単なる「リセット馬鹿」である。あるいは X とかによくいる、戦争さえ起きて世の中が混乱すれば、無能な自分たちでも何か「勇者」とか「北斗神拳の伝承者」とか「最強キャラ」になれると思い込んでいるだけの無能な凡人、あるいはそのために必要な無法状態を要求するかのように見えるリバタリアンを支持するネトウヨと同じである。

先の引用で語られた「市民」は、リバタリアンでもネトウヨでもないのだろう。でも、善きことを志すような人々が「市民」であるなどという定義は、僕は社会科学の幾つかの学科に素養をもつ人間として、とうてい受け入れられない放言の一種だと思う。まるで、ソーシャル・ワーカーや福祉関係者や政治運動家や特定政党の党員でなければ人にあらずと言っているかのようなものだからだ。いや、これは前後の文脈を丁寧に述べるべきなのだろうとは思いたいが、それをやっても善意の解釈をするのはきわめて難しい。哲学者として、こういうことを平気で出版物に書く馬鹿を擁護するのは相当に困難だと言いたい。

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