Scribble at 2025-02-14 08:30:23 Last modified: unmodified

科学哲学の教科書や論文を多く読んでいると、だいたい誰でも印象として感じると思うのだが、どうして具体的な「科学」のケースとして圧倒的に理論物理が多いのだろうか。これは、確かに同じことを感じている人は昔からいて、たまに話題となっているようだが、散発的な指摘に留まってきた。そして、僕が思うには、こういうことを体系的かつ徹底してやらないからこそ、結局は科学哲学という学術研究のアプローチなり研究実務なりがルーチン・ワークになってしまい、誰が教科書を書いても同じようなものとなって(それなら他の分野のように何十版と改訂して煮詰めていけばいいわけだが、たとえば内井さんや西脇さんの本が第10版になったなんて聞いたこともない)、状況は科学哲学だけに限らず、およそ「哲学」というレイブルが貼ってある著作物の全般に似たような傾向が出てくる。

その結果として何が起きるかと言えば、たとえば初心者や学生の多くが「哲学」と書いてある本を読むだけで、何か普遍的で抽象的なことを考えているかのような錯覚に陥るようになる。超越論的なんたらがどう、スーパーヴィニエンスがこうこう、イデアがあーだ、即自がどうした、脱構築がーなどと、まるで1980年代の立教や慶応のアホ学生が青山ブックセンターで田舎娘を引っ掛けるために操っていたお喋りの道具と同じく(ああそうそう、そのポストモダン踊りの七つ道具の一つが中公文庫として再刊されたそうだね)、今度は多くの初心者や学生が自分自身を騙す自己欺瞞あるいはインチキ自己啓発の道具として重宝されるようになる。出版社にとっては、当然ながら彼らは自分たちと素人とのあいだに「情報の非対称性」があって、それを利用して馬鹿に紙くずを売って儲けているのだから、そのような状況は大歓迎だ。岩波書店だろうと講談社だろうと、しょせんは社会の木鐸なり啓蒙と称して、決して身にならないデタラメか、あるいは殆どの人が習得できないか社会活動や政治として実現しない目標をばらまいて、やれ学問研究には終わりがないだの、真理への道は果てしないだのと、NHK の特集番組みたいなセリフを投げつける。こうしておけば、出版社というのは基本的に永遠に食っていける。馬鹿や凡人は永久に愚かで凡庸だからだ。寧ろ、皮肉なことにそれこそが真理というものであろう。

でも、僕らのような人類史のスケールで保守主義者を名乗っている人間は、そういうことに動じない。なぜなら、われわれ凡庸な者が永遠に凡庸であることはヒトあるいは全ての生物種の集団的な統計上の特性から考えたら当たり前であって(つまり生物種の大半が特異な才能や天才的な独特の能力をもつなんてことは、進化論の仕組みから言ってありえないのだ)、寧ろわれわれの学問なり思想は、そこからスタートし、それを前提にして組み立てられるからだ。出版社や政党や社会運動組織のように、それを一般人に隠す必要などない。ともあれ、いま進めているテキストの編集方針にも通じることなのだが、ひとまず次のようには言っておける。

哲学的な分野の哲学的な話題を哲学的に考えるなんてことは、おそらく今後は生成 AI がやればいいのであって、たぶんわれわれがやることはそんなルーチン・ワークではない。中学生が、なにか関心なり興味を覚えて『哲学入門』などという本を手に取ったとして、その中学生が type vs. token について知りたいなどと最初から目的を持っているなどとは考えられない。でも、そういうタームが出てくるような脈絡に関連があるか、そういう話題に匹敵するような動機や関心をもっている可能性はあろう。われわれ教科書を世に送り出そうとする者は、そういう色々な脈絡や関心や動機を ready-made な学問のアプローチや概念や体系的な議論のスキームへ、回収しようとしてはいけない。「はいはい、あなたの興味は分析哲学で言うところのこの話ね」だとか、「そんなことはヘーゲルが既に『法の哲学』でこういう議論をしている」などと言う指摘が、昔から哲学のプロパーが見せる最もペダンティックで悪質な態度であることは、みなさんも何かの機会に見聞きしたことはあろう。もちろん、誰の興味や動機も等しく尊重するべき世界で一つだけの花などと言っているわけではない。たいていの素人や一般人の関心や動機なんて、曖昧で安っぽく、素朴というよりも未熟でクソみたいなものだ。そもそも哲学を学ぶ必要などないと言っていいくらいのカスみたいなものだろう。でも、それを決めるのは僕らではなく、「哲学」と呼ばれていることがらを知って、それぞれが考えて決めることなのだ。それゆえ、最初からお決まりのコースに読者を乗せてしまうと、たいていは自分が哲学的な興味をもっていたとか哲学に関心があるという錯覚を起こす。それは、僕が何度もここで書いている自己欺瞞であり、通俗本の物書きどもはともかくとして、われわれ哲学者がそれを手引してはいけない。

そして、読み手に「哲学」を提示する場合でも、そもそもそれらの議論が普遍的なテーマを扱っていて、理論物理にケースが偏っていても、それは普遍的なテーマを議論しているから構わないのだという、実は誰も論証したことなどない思い込みを自ら教科書を(敢えて言えば「東大教授」という肩書付きで)書くというだけの行為で正当化してはいけない。こういう指摘をすると、必ず決まって出てくるのが、自分たちのやっていることこそが証明だとか、トライアルだという反論だ。でも、僕はこういう反論は非常に悪質で卑怯だと思っている。なぜなら、彼らの書く教科書の議論が、これこれのテーマは普遍的であるとか、これこれの議論が普遍的であると直に証明されておらず、それをやるのは読者という素人に委ねられてしまっているからだ。しかし、そんなことができる能力が読み手にあれば、寧ろ読者と筆者とを入れ替えた方が良いくらいの才能であろう。

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