Scribble at 2024-05-16 07:00:19 Last modified: 2024-05-16 07:09:37

Scribble at 2024-05-15 16:11:19

[この落書きも、おおむね MarkupDancing からの転載が、幾つかこちらで掲載するにあたって手を入れた。]

処分する本のジャンルやテーマだが、やはり宗教や仏教関連の本も見切りをつけようと思う。実母が亡くなってから2年ほど、とにかく仏教関連の本を色々と読んだのだけれど、やはり僕は特定の思想とか宗旨・宗派に信念をもってコミットする気にはなれない。人の信念や思想や心情を馬鹿にするつもりはないけれど、やはりそういうところにすがりつかざるをえない心境というものは、夥しいエネルギーや時間を浪費する気晴らしでしかないと思う。

これまで何度か書いてきたように、僕は宗教の根本にあるのは「死ぬのが怖い」という一点だけだと思う。したがって、当サイトで掲載している、「自分自身が死ぬということの恐怖(thanatophobia)」というコンセプトを扱った論説は、結局のところ僕自身がどうやって宗教に逃避したり落ち込まないようにするかという自問自答なのである。そして、それを考える場合に宗教の理屈を正確かつ体系的に知っておいたり理解しておく必要があるかと言えば、2年ほど色々な本を読んで考えてみた結論としては「ノー」と言わざるをえない。

仏教やキリスト教やイスラム教が、どれほど精緻で壮大な概念の体系を組み立てていようと、thanatophobia を抹消したり軽減できるものではない。それこそ、こういう強い恐怖をなくす最強の条件は、たぶん認知症なり精神疾患によって認知能力そのものが変質すること、あるいはイスラム過激派に洗脳された子供が爆弾を抱えて自爆テロをやるように、強力なマインド・コントロールを受けた場合などに限られるであろう。thanatophobia のような恐れを抱くことこそ人が正常な認知能力をもっている証拠なのだ。このジレンマを乗り越えるのが仏教なのだと言われているが、もし何かのきっかけで乗り越えたなら、たぶんその人は自傷行為をやったわけであって、単純に精神を病んでいるだけだと思う。いや、そこまで行かなくても、たとえば荘厳な施設で音楽や説教を聴いて感動するとか、緻密で難解な(だけの)宗教理論の研究に没入するといった経験であろうと、それは、たいていの場合に無害ではあるかもしれないが、それでも「精神的な自傷行為」である。

僕が、何年か前に流行したロバート・ライトの『なぜ今、仏教なのか』という本の怪しさを指摘したのは、アメリカでの self-help の大流行と、それからネット・ベンチャーの経営層や、社会的責任から逃避するために Zen だの Mindfulness だのにハマる高収入層の若者に多く見られるアスペルガー気質とを、こういう本が単純に正当化したり後押ししているだけに思えたからだ。多くの人はご存知のとおり、仏教というのは最後の最後は人の生死や苦楽などに頓着しないので、要するに物事の善悪などどうでもいいというのが根本的な判断基準になってしまう。だから、どれだけ他人のプライバシー情報を盗み取って商売してもいいとか、どれほどクズみたいな広告ビジネスで巨額の利益を得てもいいとか、どれほど労働者の労務環境が悪化しても商品を翌日までに配達することが使命という企業が出来上がる。要するにアメリカのベンチャー企業の経営者が「伝説的コーチ」だの「経営のグル」だのに学んでいるのは、どうやって人としての正義感や道徳心をスポイルして、リバタリアンのような冷酷非道さを貫いて株価を上げることだけに専念するかという、まことに逆説的でアイロニカルだが、資本主義社会での処世術なのである。世俗的な価値観をことごとく否定しようとする仏教のような思想に処世術を学ぶのだから、これほど愚劣で滑稽な話はないと言うべきだろう。

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