Scribble at 2023-09-28 15:29:15 Last modified: 2023-09-28 16:04:49

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So what specific applications do you know of category theory to practical problems? For the purpose of this post "application" means used by someone in a production software setting to solve a problem not related to category theory. Someone who doesn't care about category theory should care about the problem being solved.

Applied Category Theory Course (ucr.edu)

上記の引用は Hacker News の該当スレッドで先頭に掲載されているコメントだ。そして、いちおう僕は Google Plus という既にサービス終了した SNS ではカテゴリー論のグループで管理者を引き受けていたこともあるくらいなので、もちろん圏論という分野そのものについては強い興味がある。あの威勢のいいセリフを何度と無く林晋氏と一緒に並べていた Oxford の若手研究者が、いつ圏論なりトポスの教科書を書いてくれるのか、これは冷やかしや皮肉ではなく本当に待望している一人だ。

でも、はっきり言ってカテゴリー論はソフトウェア・エンジニアングにとって何か具体的に素晴らしいアルゴリズムやクラス設計などを教えてくれるようなものではないと思う。それは、もともとそういう素晴らしいアイデアを持っている人が、自分自身のアイデアを整理したり他人へ説明するために役立てられる場合がある手立てだと思う。もちろん、それだけでも理論的な効用はあるわけだが、それはあくまでも形式的かつ理論的な効用であって、実地のエンジニアが喜んで享受できるようなものではないと思う。

同じことは他の話題やケースにも当てはまる。「哲学者のための~」と銘打って、たかだか学部レベルの数学を勉強したくらいの科学哲学プロパーが「理系」ぶって数学や工学や自然系の教養みたいなものを解説するといったアプローチの著作はしばしば書店でも見受けるのだが、その多くというか殆どが、(1) 科学哲学なり哲学と何の関係があるのかクリアな説明や実例がない、例の小学生のガキが量子論をまとめました的な本と大差ない概念や数式が並ぶだけの素人臭いノートみたいなものであるか、あるいは (2) 科学哲学の通俗本に登場する典型的な話題(デマーケーションだの、theory-ladeness だの、パラダイム転換だの、科学的実在論だの、反事実的条件法だの、empirical equivalence だの、grue だの、検証可能性だの)を図や式で雑に書き直したような、それ自体が著者の偏見を示すものでしかない、哲学的にはクズ同然の「応用」である。「哲学的にはクズ同然」という表現は loaded language なので不適切だが、僕が言いたいことは、そうした本を手に取ったことがあるプロパーなら分かるであろう(というか、専門課程の学部生であれば、そういうゴミのような著述を嗅ぎ分ける「臭覚」と言うべき素養がほしいところだが)。

もちろん、だからといって「カテゴリー論は役に立たない」とか「カテゴリー論は仕事なり現実の生活の役に立たない」などという、これまた科学哲学や哲学に対して何千年もの昔から浴びせられてきた不平不満をブーメランのように投げるつもりはない。結局のところ、学問を活用出来ない奴がバカなのだ。その「活用」が、悲惨な場合は核兵器になったりするわけだが、それは理論というもののもつ力(そしてリスク)の極端な事例であって、それ自体を良いの悪いのと言っても無益である。応用可能性や抽象度そのものにリスクや危険があるなどという話は、しばしば左翼が好んで口にするわけだが(われわれの恩師が学んだ頃でも、科学哲学はノンポリだとか論理実証主義者は善悪を語らないなどという非難はあった。もちろん、初期のアメリカの科学哲学とランド研究所との関わりなどを考えると理由のない非難ではないが、それはもちろん科学哲学という学科の本質でも目的でもない)、結局は旧ソヴェト連邦のルイセンコがやったようなことと同じところにゆきつく。

もちろん、学問、いわんや哲学であろうと、それが公的な補助を受けた機関での活動である限りは、「公共の福祉に反してはいけない」という規制は受ける。都内あたり、あるいはパブリシティ狙いで田舎の大学の哲学教員が『強姦の分析哲学』などと太田出版や幻冬舎といったクズ出版社から本を出したら、それはフェミニストや被害者でなくとも多くの人から非難を受けて当然であろうし、行政には珍しく出版を禁止する権限を行使する理由があろう。しかし、それは議論の内容が具体的にクズであり、女性の人権を単なるテクニカルな議論のネタとして扱い、そういう話題ですら形式的に扱えるなどとセンセーショナルなパフォーマンスしかこの国の哲学教員と出版社にはやることがないからであって、犯罪を実行する者の内面を分析できないとかしてはならないという話とは別である。したがって、一方ではかようなクズを出版停止にできるわけだが、犯罪者の心理を研究すること自体は正当な学術活動である。そして、「学術研究」などと大層なことを言わなくても、およそものを知るとか考えるということは、もとより大学などあってもなくてもできることだし、やるべき人はやらなくてはいけないか、やったほうが良いことなのであるから、そうした内面の考察やプライベートな議論を規制することはできない(ただし、そういう「プライベートな」議論が女性の前で行われている場合は、もちろんセクハラという別の問題になるし、僕も酒席の猥談は下らないと思うので、男性がセクハラだと訴えてもいい。というか、酒を飲んでる連中の会話なんて結局は騒いでるだけにすぎず、1mm も天下国家や会社の売上の役になど立つまい。実際、僕は企業の部長として、酒席で「売上アップ、えいえいおー」とか騒ぐやつに限ってサラリーマンとして無能であり、退職するのが早いという、かなり強力な経験則をもっている)。

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