Scribble at 2023-05-02 08:07:31 Last modified: 2023-05-02 08:13:42

アメリカという脈絡で科学哲学を考えるというアプローチは、このところ少しずつ研究成果が表れていて興味深いのだけれど、現地でなされている研究の多くはアイデンティティもしくは自意識系と言っていいものであるか、もしくは告発系と言っていいようなセンセーショナリズムが見受けられる。したがって、歴史や地理、あるいは社会学的なアプローチを採用して、かつてリチャード・ローティが「分析哲学」をアメリカの大学でやってることだと喝破するがごときスタンスを見せたのと同じことをされても、僕としてはいまいちな感じがする。僕が、黒人とか女性とか、あるいは南部とかビジネスとか国防とかイデオロギーという脈絡を、アメリカの科学哲学について解説するときに(あからさまに指摘して見せる必要はない)外せないだろうと言っているのは、しょせん学問、なかんずく哲学も人の営為であるからにほかならないからなのであって、何も左翼的な動機で何かを告発しようなどと思っているわけではないし、あるいは右翼的な動機でアメリカの思潮を単純に侮蔑したいわけでもない。

大半の方は "sinking ship jokes" をご存じだろう。ちなみに単数形で "sinking ship joke" と言うと、ぜんぜん違うジョークの話になる(例の、神父にカマを掘る時間が「十分に」残ってるという下品な話の方だ)。いわば、ローティが語った「分析哲学の定義」と言うべきものは、もちろんアメリカ流のジョークであるかもしれないが、しかし真面目な話でもありえる。そして僕は、同じことは東アジアの辺境国家でせっせと書かれているロクでもない本で説明されている「科学哲学」にも言えると言っているにすぎない(ローティが両者を区別していたのかどうかは分からない)。つまり、日本人に科学哲学を教えるには、こう言えばよいというわけだ。

「アメリカでは、こんなことをやってますよ!」

これでも駄目なら「イギリスでは…」とも言えるし、最近では「フランスやドイツでも」とか「ブラジルですら」などとも言える。いずれにせよコンプレックスや差別意識に訴えたらいいわけだ。ともあれ、これだけで、日本の人々は嬉々としてクズみたいな本を買ってくれるというわけである。もちろん、何も知らないよりはマシであるなら、これだけでも一つの成果だと言える。しかし、そこからものごとを相対化するのは、たいてい難しい。なぜなら、誰でも自分が学んだことを疑うのは難しいし、そもそもどこまでが自分の理解や思考に影響を与えているのかを、後から自分自身について吟味したり相対化するのは困難だからだ。

ただし、相対化するとは言っても明確に分別する必要はない。自分の知識や考え方の、どこからどこまでが「科学哲学」であって、それ以外はそうでないのかなどと、自分の学んできた経験や経緯という時間軸だけで区切って実体として分けられる(あのとき、あの本を読んでからというもの云々)という発想そのものが間違っていると思うからだ。学ぶ前から、科学哲学や哲学が教えることを考え方や理解の仕方として実質的に共有していたということだってありえるだろう。テキストに書かれていることの何から何まで初めて知る考えや知識だったなんてなかろう。もしそうなら、いったいどうやってそのテキストをそもそも読める(理解できる)というのか。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


共有ボタンは廃止しました。他人へシェアしてる暇があったら、ここで読んだあなたが成果を出すべきです。