Scribble at 2023-04-06 07:56:39 Last modified: 2023-04-08 07:57:24
1977年生まれ。フランスの作家、哲学者、翻訳家。高等師範学校でベルナール・ポートラに師事。2015年から教皇庁立リオデジャネイロカトリック大学(ブラジル)で哲学を教える。本書は本国フランスはじめ、世界10か国以上で注目を集める話題作となる。ジョルジョ・アガンベン、チャールズ・ダーウィン、ヴァージニア・ウルフ、ルイス・キャロル、ジョゼフ・コンラッド、ジェームス・マシュー・バリーなど哲学書、文学書の翻訳も手がける。
ひろゆきやホリエモンや成田何某をはじめとするアスペルガーやリバタリアンと思われる人々は、このところ或る種の文化芸人というか、鬱屈した若者や無能な中高年に好評だ。こういう人々が繰り返して示唆する「規制は悪だ、制度は悪だ、法律は悪だ、ルールは悪だ、過去に学ぶものなどない、上の世代は既得権益にしがみつくただの文化的・経済的・政治的な参入障壁だ」という刷り込みは相当な効果があるらしい。そのため、Twitter や YouTube だけで威勢がいい小僧どもは、男だろうと女だろうと LGBTQ だろうと、ともかく過去は全て悪い、老害は消えろ、左翼は嫌い、自意識が全てで、他人ましてや福祉なんて知ったことかと叫ぶ。しかしそれでいてオシャレな都内の IT エンジニアとかデザイナーとして坂道アイドルや BTS と結婚したいみたいな欲望も抱えている。それが実現できない日本をどうにかするには、いっそ北朝鮮に攻め込んでもらって法律や道徳がぶち壊しになって自分が(ゴキブリすら殺せないくせに)何でもできるラノベ的あるいはスマホのゲームみたいな世界を待望するというわけだ。実のところ、こうした連中は彼らがさんざん嫌っている全共闘世代と殆どメンタリティは同じである。
さて、そういう若造どもが拍手喝采する「ロジック」の本が、新しくまた出たというわけである。そもそも、上で引用しているように、フランス人がブラジルで哲学を教えてるというプロフィールからおおよそ察しが付く方もおられると思うが、こういう連中の理屈というのは中南米に宣教師が展開していった頃と殆ど変わっておらず、人間関係について暴論を書く物書きの根底にあるのはただの人種差別だ。彼らの「バカ」を「異教徒」という言葉に置き換えたら、500年前の宣教師が書いた文章と殆ど同じだと分かるだろう。
2,000円近くも出して紙屑を買うくらいなら、その代わりに哲学者と一緒にこう考えてみようじゃないか。対人関係において最良のスタンスは、自分自身が感じるコンプレックスをまず捨てることである。控え目さと無用なコンプレックスは別であり、根拠のないコンプレックスは自ら自分を「差別」することでもあるからだ。書店やオンラインで(実際のところ国際的に何の業績もない)無能な大学教員や物書きや出版社や書店員らが連呼するセールス・トークの類や、「哲学」とか「フランス」とか、そういうものに何か意味もなく惹かれるものがあるなら、逆にそれこそが哲学的に言って自分への警告だと思わなくてはいけない。
君らのように、書店でイージーな本を手に取るだけで何か「哲学」なんてものに関われると思ってるバカは、簡単に言えば大阪維新の会と同じく「俺にも利権をよこせ」と言ってるだけなんだよな。「哲学」と名の付くクズみたいな文庫本を何日かで読了して、ブログに適当なことを書いてたら、岩波書店の編集者とかが「天才」や「新進気鋭のブログ運営者」を発見してくれて、なんとか茶とか、あるいは古典の要約をブログで書いてて政府のなんとか委員になった教育哲学のプロパーとか、その手の連中みたいな「人生の成功」をその手につかめるみたいなギトギトした欲望と自意識しかないんだよ。おまえたち無能な連中は。哲学する理由も動機もないのに、何かそういう「小難しいこと」に関わってるかのような外見を取り繕えたら、自分がいっぱしの何者かであるかのような気分に浸れる。それこそ、馬鹿で無能なくせに「日本人」とかいう観念にしがみつくだけでヘイトをバラ撒いてるインチキ右翼と同じである。
そういう連中がとる最も簡単なスタンスは、上記の本やひろゆきやホリエモンや百田尚樹の書くものと同じように、叩きやすいか叩いても許される相手を叩くことでしかない。しかし、会社の部長としても哲学者としても言っておくが、自分にとって本当に有益なのは、自分よりも優れていると思う仕事や人物に学ぶことだ。こんな本を読んで他人や、そして哲学っぽい本にはありがちな「内なる敵」(自分自身とか、生活保護の受給者とか、高齢者とか、在日朝鮮人とか)を叩いてみたところで得るものは殆どないのである。自分より低い位置にあると思っている(その時点で酷い差別や自己欺瞞なのだが)何かを叩いても、自分の立っている場所が持ち上がったりはしない。地下で他人の土地と自分の土地がチューブのように曲がって繋がってるわけではないのだ。すごく「いい人っぽいこと」を言うようだが、知識や知性というものは限られたシェアの奪い合いでもなければ、科学史のエピソードを誇張した先取権争いでもないのである。
しかし、もちろん自分よりも有能な人物や有益な成果に学ぶとは言っても、skyhook など存在しない。どこからか自然に自分の読みたい本が出版されたり(そんなことは一生かかってもない)、学ぶに値する人物が現れて教えを授けてくれるなんてことはない。自分が学ぶべきだと考える基準は自分にしか決められないのであって、多くのビジネス書やメンタル・ヘルス系や社会学っぽい本でポジティブ指向だの何のと言っていても社会全体として成果が上がらないのは、大半の凡人はそういう基準が低すぎるからなのだ。自分が一桁の足し算しかできないとして、二桁の足し算ができるていどの人間を称賛するようなブログ記事とか書評を書いているのが、日本の若造どもの「集合知」や「シェア」である。僕らに言わせれば、いつものように、それはただのゼロ加算である。