Scribble at 2022-12-11 11:24:52 Last modified: 2022-12-11 11:27:25

このところ、大阪市内では続々とタワーマンションが建設されていて、自宅の近くでも何棟かが竣工している。駅の近くだと、3年ほど前までは安物のホテルが数多く登場していたけれど、もちろんご承知のとおり3年の間に趨勢は逆転してしまった。いま、ホテルを新規で建設するような事例は殆ど見かけなくなったし、それどころかホテルをマンションへ改装する事例すらある。

それらの建物は、僕の記憶だけで言うなら大半が元は商業ビルである。特に会社と自宅を徒歩で毎日のように通勤していた頃は、船場地区でアパレル関連の会社が移転したか廃業したかで土地を手放し、そこへワンルーム・マンションが建設されるという事例を幾つも見てきた。そして堂島あたりですら、ここでも書いたように電通がビルを手放してフェスティバル・タワー(ウェスト)へ移転してしまった跡の土地に、複合施設(上階はマンションだ)が建設されている。同じく古河大阪ビルも西館ともども解体されて、こちらも地上40階のホテルとマンションを兼ねた建築物になるという。

僕らは取引先でもあるから、電通の大阪支社ビルには何度も入ったし、5年くらい前までは取引先に発行されるオレンジの入館証も持っていた。ビジター・カードではなく、取引先の人員を特定するために、氏名と顔写真を渡して作ってもらうのである。よって、ビルの中の様子はいくらかの記憶があるし、それゆえに大阪支社の中身を全てフェスティバル・タワーのフロアへ移転できたというのが、或る意味では印象深い。しかも、クリエーティブ X やアド電通といった関連会社も含めて移転したというのだから、相当な量の備品や資材を廃棄したり、どこかの倉庫へ預けたり、あるいは社員の自宅で管理させるようにしたのだろう。また、電通だけの話ではないが、社員を早期退職で切り離してから個人事業主として再契約すると、当たり前だが個人事業主に電通がくれてやる執務スペースなんてないのだから(普通の中小企業でもそうだ)、フロアは更に狭くても済む。あと、バックオフィス系の実務はもともと子会社がやってるし(契約文書とかは、たいてい子会社が仕切ってる)。

で、歴史なんて殆ど残らないわけだよ。「電通 大阪 ビル」で検索しても、あのビルについては解体されたという最近の話題か、あるいはビルとして建築関係の賞を受けたとかいった、はっきり言ってつまらないページしかヒットしない。電通マンが思い出話を公に書くわけがないという前提があれば(こっそりブログを運営してる人はいるらしいが)、何十年と過ごしてきた場所が消えてなくなろうと、その記録も記憶も大半が残らないし、記録があったとしても公にはされないわけである。つまり、僕らが「歴史」だの「事実」だのと喋っていることは、世の中で実際に起きたり存在した物事の僅かな残滓というべきものに過ぎないのだ。

個人的な事例で申し訳ないが、たとえば4年前に亡くなった僕の実母にしても、彼女に関する事実の大半は、既に公的な記録と僕ら家族の記憶を除けば、ほぼ無いと言ってもいい。恐らく、もう彼女についての記憶があるのは、父親はもちろんだが、彼女の姉と妹、父方の叔母さんと従妹、僕と連れ合い、そして住んでいた家の周辺で言葉を交わした人たち(その多くも亡くなっている)くらいだろうか。せいぜい10人もいればいい方だ。そして、たぶんこの10人が死ぬと、実母についての記憶をもつ人は全くいなくなる。戸籍については、子孫がいなくなると「閉鎖」(昔で言う「お家断絶」)という扱いになるため、2010年の戸籍法改正で150年間は保存されるらしいが、どのみち当河本家の本家は戸籍から消えることとなろう。実際には150年が過ぎても保存する自治体があると言われているらしいが、逆に法的な要求でもなく残し続けるのはどうかという議論もある。もちろん、部落差別の証拠集めに利用される可能性があるからだ。昨今の報道を見ても分かるように、地方自治体の公務員が戸籍や犯罪歴や行政関連の情報を一般市民(ヤクザや犯罪者も、捕まっていないうちは一般市民だ。よく、『攻殻機動隊』でボーマとかが「一般市民のご協力をいただいたぜ」とか言ってぶん殴ってるのも、殴られてるチンピラはまだ捕まってないからだ)へ売り渡してたりするわけで、戸籍やマイナンバーなんて、いつ誰がリストを流出させてるか分かったものではない。ただ、戸籍に記載されてる記録なんて、当人についての僅かな事実に過ぎないわけで、消えようとどうしようと実質的な意味はない。それが証拠に、大半の国には戸籍制度なんてなく、個人としての誰がいつ生まれたかという出生届の制度しかないし、税金や社会保険などの行政サービスは住民登録で済む。

こういうわけなので、大半の人がやってることなんてだいたいは消えてゆくのである。そして他の動物でも同じことだが、大多数の「家系」は、実際には何世代も続かずに断絶する。現在でも出生率や未婚率が増えている状況から予測して、おおよそ半分の家系は孫の代で途絶えるという推定も出ている。つまり100年くらい経てば日本の人口が6,000万人くらいになるということだ。僕は、これは必ずしも悪いことではないと思っているのだけれど、個々の家庭においては、自分たちの記録や記憶が消えてゆくというセンチメンタルな話になるだろう。

そして、僕が強調したいのは、自分たちの記憶や事績を子孫どころか世の中に「永遠に残す」なんて妄想は絶対に捨て去るべきだということである。子供や周辺の人々に何事かを伝えたり影響したりは、社会で生きている以上は当たり前のことでもあろう。それはいいが、人として何か自分が生きた証みたいなものを、自費出版の本だとか、ド派手なテロ行為だとか、あるいはクズみたいな会社で社長になったとか、そういう刹那的としか言いようがないことで実現できると思うのは、それこそ致命的な厨二病というものである。全ての人間、いや人類の歴史や暮らしというものは、些末であり、永続したりなんかしない。そして、それは宇宙論的なスケールで言えば必然だし、他の観点で言ってみても、それでいいのだ。しかし、だからといって刹那的としか言いようがない生き方で構わないかというと、それもまた難しいのが、どうしても相手のある社会でしか生きようがない我々の現実の姿であろう。たぶん、小説などにあるとおり、他に誰も人類がいなくなってしまえば、恐らく大半の人は好き勝手に生きようとすることだろう。誰に迷惑をかけるわけでもないのに、何か節度ある暮らしを続けて、最後の人類として死ぬとしても、それもまた自分で好きに生きていることに変わりはない。

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