Scribble at 2020-10-21 09:14:32 Last modified: 2020-10-21 09:16:12

本年の大きな事案である COVID-19(いまだに誤解している人が多いようだが、これはウイルスの名称ではなく感染症の名称だ)をテーマとした思想については、色々なアプローチで、脈絡、スケール、該当する既存の話題、それから「レベル」が対応しうるから、思想として論じるのは理解できなくもない。しかし、哲学というスケールや脈絡で、どうして一つの感染症と社会的な影響を国内の通俗本だけでなく海外の専門雑誌でも、これほど続々と accept して公表しているのか、一向に要領を得ない。もちろん、これこれは哲学の議論(「~に値する」と脇台詞で言いたい人は多いと思う)であり、あれは哲学の議論ではないという判断に、何らかの不当な思い込みや予断が差し挟まれる余地はある。よって、僕が「要領を得ない」と書いているのは説得力がないというだけの感想であって、「たかが感染症にまつわるジャーナリズムなど哲学者のやるべきことではない」と言いたいわけではない。ひとまず、いまのところは。

さきほどから SpringerLinks でオープン・アクセスの論文を一覧で眺めながら、めぼしいものは目を通しておこうと思うのだった。しかし、とかく国内で「コロナ時代の僕ら」とか、博報堂のプランナーみたいに温厚そうで軟弱な(しかし実際は偏狭な田吾作根性へ強固にしがみついている自覚のない)フレーズの本を乱造している無能な編集者どもの手がける出版物とやらは、いつものよく見かける面々が感染症による色々な影響を出汁にして、これまたいつもの持論を展開するという予定調和を維持するだけに他ならないので、1行たりとも読む必要は感じないし、1行たりとも読む必要なしに要不要を論じうるていどの代物であろう。古今東西の歴史を顧みれば、そのような文化芸人どもの書くものを読まなかったおかげで致命的な失敗をおかした人物の事例など、これまで社会科学が実証したり論証した試しは一つもない。また、何らかの文化芸人どもが書いた著作を1行でも読んだおかげで正しい判断や思考ができた為政者や学者の事例も(本人は文化芸人のおかげだと口にしたがらない可能性もあるわけだが)、存在しない。要するに統計学的には関連性がない(論理的に必要条件でも十分条件でもなく、つまりは無関係である)ということだ。無関係であれば、関係がありそうだとコミットしうる他の可能性に関心をもつべきなのが、学者としての研究方法どころか人としての合理的で「正しい」生活方針というものだろう。

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