Scribble at 2018-01-31 11:49:08 Last modified: unmodified

この Note を運用している簡易 CMS をシステム更改したので、ついでに書いておく。僕が、哲学を義務教育の課程に入れようとする人々に懐疑的だったり、あるいは通俗的なイベントを開催して啓蒙だと思い込んでる人々に懐疑的なのは、哲学をやることに何か効用なり意味があるのかどうかを納得したり決めるのは当人だけであるということを弁えておけば、その理由が自ずと分かると思う。

まず、哲学するということについて情操教育など不要であるのは、哲学的な探究というものは80歳になってからでも取り組み始められることだからだ。やれ大部の著作を書くとか、深遠な問いかけを50年に渡って続けるとか、凡人は哲学するということをそうした印象で理解しがちだが、そういう印象に引きずられて哲学することを志すような者は(自意識で哲学をお勉強しはじめる、ただの外国語秀才を除けば)いない。そもそも、5歳や13歳で「いかにも子供らしい純朴な問い」など幾ら発したところで、それに対応する概念を身に着けていない子供には、その問いを考えるに足りる用意が整うまで自分で持ち続けられるだけの、別の条件(はっきり言えば家が裕福で世事に流されたりしないとか、親が大学教員だとか、問いに関連する概念を扱う宗派に帰依しているとか、問いに関連する社会的な地位にあるとか)が必要なのである。そうした条件がなければ、哲学について教育したり考える機会を強制的に継続しない限り、しょせん「『ファイナルファンタジーX』って昔は熱中してよくやったよな」とか「高校時代はサッカー部でしたっ!」と同じレベルでしかない(もちろん、それはそれで平凡な「しあわせ」の一部なのだろう)。

そして第二に、僕は『純粋理性批判』を読むとか、あるいは典型的な「哲学の問いについて悩む」とか、そんな外形的なことは哲学するということにとって重要ではないと思っている。そんなことは、哲学するということにとって必要でも十分でもないからだ。あれこれのイベントを主催する善意にあふるる人々は、そういう機会を増やして哲学することに関心を持つ人を増やしたいと思っているのだと思うのだが、単純にそういう機会によって実質的に哲学していることになるような思考をするようになる人が増えるという根拠は全くない。僕が重要だと思っているのは、実質的に哲学的にものごとを吟味したり考えるというチャンスを増やすことなのである。そして、そのために最も効果的だと思うのは、通俗書を乱造したり、アイドルに哲学を語らせたり、義務教育の課程として採用したり、あるいはお洒落なカフェで気取ったアマチュアを集めて茶話会を開くことなどではなく、プロパーがきちんと業績を上げるということに尽きると思う。そして、あからさまに自分の考えたことや抱いた疑問が「哲学」にかかわるという自覚がない人でも、丁寧に調べるだけで参考にできるような、色々な脈絡に応じた受け皿を作ることにある。この受け皿を通俗的な著作を書くことだと誤解しているプロパーや出版社が日本にはあまりにも多い。市井の人々の関心を喚起する最も効果的な方法は、哲学の議論を漫画で描くことでもなければ、概念を乱雑に何かのインフォグラフィックスへ綺麗に描くことでもないのである。

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